09-02 誰がために鐘は鳴る
◇
屋敷の玄関のむこうは、暗い上り階段につながっていた。見飽きたような石造りのそれを一段一段登った先は、やはり、見覚えのある場所だった。
「学校だね」
「……だねえ」
俺は、疲れた気分で頷いた。鈴音は呆れたような顔で俺をみる。
「……わたしはさ、気持ちとしてはわかるんだけど」
「なに」
「背負ってくることなかったんじゃない?」
「……置き去りにもできないだろ」
「でも、持ち帰るわけにもいかないよ」
「……だな」
それは、わかってはいるんだけど。
「鈴音」
「うん?」
「どっかにスコップとかあるかなあ」
「……うーん。どこかの用具入れとか?」
「用具入れ、って、どこ?」
「どこだろ?」
考えたって結論なんて出なかった。
「……掘るの?」
「ん」
「てことは、埋めるの?」
「……他にどうしたらいい?」
「他にどうしようもないから、埋めるの?」
声は咎めるようだった。俺は、うなずくべきかどうかを迷った。
どうなのだろう。
他にどうしようもないから、埋めるのだろうか。
けれど、考えることはうまくいかない。どうしてだろう。どうすればいいんだろう。
何が最善で、どうあるべきで……どうしたらいいんだろう?
「ごめん」
と鈴音は言った。
「なにが」
「意地悪言った」
「いいよ」
「……うん」
何か言いたげなまま、鈴音は俺を見ていた。スコップを……スコップを探す。
「どこに埋めるの」
と鈴音は聞いた。俺は少しだけ考えた。
「……校門の、桜の木の下に」
「……」
不思議だった。
ちどりはぜんぜん重くなかった。
◇
見つけ出したスコップで俺が穴を掘るあいだ、鈴音は何も言わずに俺の様子を見ていた。学校は、夜だった。薄ぼんやりとした月明かりの下で、俺の体は徐々に熱を帯び、肌からは汗が滲んだ。心臓の鼓動が、やけにうるさいことにも気づく。息が切れ切れになる。筋肉を使っていることを意識する。
血が、巡っている。生きている、俺は生きている。
ちどりのからだは土の上に横たえている。俺は彼女のからだの大きさと、自分のからだの大きさの差を知る。彼女の髪と、肌と、そこにはもう、流れがない。動きがない。
「ねえ」とまた鈴音が口を開いた。
「無理しないほうがいいよ」
同時に思う。
彼女は瀬尾青葉に瓜二つだ、と。
瀬尾青葉によく似ている。本当は、こんなこと、全部夢だと思って逃げ出してしまいたい。
なかったことにしてしまいたい。
かまわないじゃないか。
逃げても、見てみぬふりをしても、気付かないふりをしても。
それを見抜くことのできる超越者なんていないんだから。
すべて投げ出して、自分だけのために生きても、いいじゃないか。
穴を掘りながら、そう考えた。
望んではいけないのだろうか。
当たり前に幸せになることを?
当たり前に、素知らぬ顔をして、生きることを?
当たり前に、誰かと笑い合うことを?
誰がそれを、俺に禁じるだろう。
何を背負う必要があるだろう。
思い詰める必要があるだろう?
誰がそれを咎めるだろう。
「隼くん」
「……ん」
「ちょっと休みなよ」
「……いや」
「休んで」
「……うん」
「……飲み物とか、あればいいんだけどね」
俺は少し笑った。
「なに?」
「いや、喉がかわくとか、腹が減るとか……こんな景色のなかでも思うんだな」
鈴音も笑った。
「……隼くん、あのね」
「ん」
「隼くんは、さ、すごく疲れてるよ」
「……」
「すごく疲れて……たぶん、逃げ道を自分で塞いでる、と思う。ほんとはもっと、いろんなことを考えられるはずなのに、すごく狭くなってる、視野が、思考が、いろんなことが、いろんな面で。だから、普通だったらすぐに気付けるようなことに、気付けなくなってて、普通なら考えなくても済むことを、考えちゃうんだと思う、だからね……」
休めばいい、と、彼女は言うのだろう。
疲れている……疲れている。
「休む?」
「……うん」
「でも、休んじゃいけない気がするんだ」
「なんでだろうね」
「休むべきではない、と思う」
「隼くん」
「なに」
「どれだけ自罰的に振る舞っても、『これだけ自罰的に振る舞えば十分です』って言ってくれる誰かもどこにもいないよ。だからね、自分をいじめるのは償いでもないんでもない。自己満足だね」
「……」
それで俺は、スコップを投げ出して、地面に座り込んだ。
空には星と月。疲れ切って、体は重い。
「免罪符がほしかったわけじゃないんだけど」
「わかってるよ」
「……自分をいじめて、許されようとしてたつもりもない」
「うん、わかってる」
「でも、俺のせいで何人も死んだ」
「どうかな。隼くんのせいだけじゃないと思う」
「俺だけのせいであってくれたほうがいい」
「それは願望であって、事実じゃないよ」
「……」
そうかもしれない。
俺はちどりの顔を見た。
瞼を閉じたまま、その表情は何も語らない。
もう、ちどりは俺を罰することも、許すこともない。
怒ることも、語ることもない。
「許しを求めて敬虔に振る舞うのは……」と俺は言った。「許されようとする打算めいていて、かえってあさましく思える。かといって、許しなど求めないと居直ってしまえば、そこで話は終わってしまう。だから、どうすることもできない。許しを求めることも、許しを求めないこともできない」
彼女は夜の森をさまよったのだろう。
そのとき、俺はそこにいなかった。
彼女はそこで何を見たのだろう。
ちどりの顔を見る。
彼女は何を言うだろう。
死んだ人間は何も言わない。何も訴えかけない。
でもその顔が、何かを俺に言おうとしているような気がした。
何かを訴えかけているような気がした。
それは錯覚だ。
明らかに錯覚だ。
死者は何も語らない。だから、『死者がそれを望んでいる』と、死者を代理するような宣言を行う越権は許されない。生者は死者に何も仮託してはいけない。「死者が、俺を罰することを望んでいる」などという話法は、あきらかに死者を代理した言い方になる。
死者は沈黙する。何も語らない。それが死だ。
だからといって、無言のままの死者を、無言であるがゆえに無視する、というわけにもいかない。
なぜこんなことを考えているのだろう。
許されたい、と。
誰かを好きになることを、誰かを抱きしめることを、それに満たされ、それがその瞬間のすべてになることを。
体よく、罪を忘れることを。それが、許されるのか。許されはしまい。
けれど、それさえも、自責によって許されようとする挙措であるならば。
俺はこんなにも自分を責めている、と、証立てるための苦しみに過ぎないならば。
何が、どんなふるまいが、許されるのだろう。
ちどりの顔は、相変わらず沈黙している。彼女の表情は、何も語ろうとはしない。
けれど、何かを俺に訴えかけている……やはりそんな気がする。
それがわからない。
俺は結局、何の結論も出せないまま、ちどりのからだを桜の木の下に埋めた。
そうするべきだと思った。でも、それが正しいことだなんて思えなかった。何かが絶対に間違っている。でも、ちどりの体に土をかけて、その姿が見えなくなるにつれて、こうするべきだったんだ、という気持ちが強まっていった。彼女の姿がすっかり見えなくなると、俺は安堵を覚えすらした。
これだけじゃ足りない!
そう思っているのに、これでよかったんだ、と俺は頭のなかで繰り返した。
「たぶんさ」と鈴音は言った。
「疲れてるんだよ、隼くんは」
そうかもしれない。
桜の樹の下には死体が埋まっている。
はじめからずっとそうだった。
◇
そこから先はもうさまよいを繰り返すだけだった。屋上の扉は、地下からのあの上り階段につながっていた。俺たちが何度階段を登り、地上へと出ようとしたところで、それが繰り返されるだけだった。以前は出口になった、あの鏡は割れていた。ありとあらゆる鏡が、割れていた。窓ガラスも何の意味ももたない、「これはまいったね」と鈴音は言った。
そういえば俺と鈴音では、ここに来る経緯が違う。
彼女の体はアルラウネにあり、まだ眠っているはずだ。対して俺は、噴水を通ってここにやってきた。
「なにも思いつかない?」
と、鈴音に訊ねられて、俺は溜め息をつきそうになった。
「ひとつだけ」
「あるんだ」
「試したくはないんだけど」
「なに」
「図書室に行ってもいい?」
「……」
鈴音はほんの少しだけ嫌そうな顔をした。
◇
図書室のカウンターには、大野辰巳の姿があった。もちろん、これは本物ではない、市川鈴音の夢のなかの、大野辰巳だろう。大野はきっと、こんな世界のことなんて何も知らない。
「前に言ったと思うけど」
と鈴音は言った。
「大野くんとちゃんと話さないと夢から出られないって言われても、話すつもりはないよ」
「いいよ、べつに。……でも、話したっていいだろ。何かの行き違いだと思うけど」
「いまさらいいよ。わたしにとっては、失敗の過去なの」
「……なんで嘘つくの?」
「……それ、わたしの真似でしょ」
俺はちょっとだけ笑った。
「……あのね、前に、話したでしょ。夢を見なくなったって、休めるわけではないって話」
「うん」
「わたしさ、たぶん、何が起きたって、前途に期待なんてできないって思ってた。でも、べつに大野くんがどうとか、そういう話は別にして、うん。今はね、きみが休めたらいいなって、きみが、ゆっくりと眠れたらいいなって、そう思うよ」
俺はまた笑った。
「ほんの少しだけど、きみがお兄ちゃんってのも悪くない気がするよ」
「どうも」
「……ところで、大野くんは無視?」
「いや、あいつは関係ないから」
「騙したね?」
「騙してないよ」
用事があるのは本の方だ。
◇
「『わたし』の怜と話してたときにちょっと気になることがあったんだ。鈴音は、『ぼく』の怜……ちどりの姿の怜が図書室の本に手紙を挟むのを見たって言ってたよな」
「……? うん」
「怜がメモを挟んだのは、何の本?」
「えっと、『幻獣辞典』だね」
「うん。なんでそれだったんだっけ」
「わたしが最近読んだ本があるよって言ったら、それに」
「うん。それだ」
「……えっと、なに?」
「最初は『わたし』の怜の話が嘘なのかと思ってたけど、たぶん違うだろうな。まず、俺とちせが『幻獣辞典』に挟まっているメモを見つけたのは、ちせや市川が学校に来なくなるより、二週間近く前の話だ」
「……えっと?」
「でも、『怜』が『幻獣辞典』にメモを挟んだのは、『学校で出会った市川が最近読んでいた本だと知ったから』ってことになる。つまり」
「つまり……どういうこと?」
「時間がずれてる」
「……ん?」
「つまり、たとえば今、俺がなにかのメモをこの……」と言って、俺は本棚から『幻獣辞典』を見つけて取り出す。
「こいつに挟み込むとする。すると、現実の『幻獣辞典』に、なぜかメモが届く。この仕組みのおかげで、怜は現実の『幻獣辞典』にメッセージを送れていたわけだ」
「うん」
「ところが、時系列を整理して考えると、これらのメッセージは現実の十日から二週間ほど前の『幻獣辞典』に届いている。つまり、ちょっとだけ前の時点に届いている」
「……うーん」
「まあ、とりあえず仮説としても、この『幻獣辞典』になにかの手紙を挟んでみるというのはどうだろう?」
「べつにいいけど、その人に何かできるのかな?」
「わからん」
「そもそも、その現実の『幻獣辞典』って、今は誰が借りてるの?」
「俺だな」
「……えっと?」
「ちせが失踪していた時期に、図書室にあった『幻獣辞典』を調べていた。そこから返さないままになってるから、二週間前だろうがなんだろうが、借りてるのは俺のはずだ」
「……既に破綻してない? もし隼くんの仮説が正しいとしても、隼くん自身にしかそのメモは届かないんでしょ? だったら、隼くん自身に、メモを受け取った記憶がないんだとしたら、そのメモが届いたとしても誰にも見つからないんじゃない?」
「正しい。ここで二種類の仮説が成り立つ」
「……ほんとかなあ」
「俺は『幻獣辞典』を何度もめくったが、メモには気付かなかった。そこで一。もしここでメモを挟んだ場合、過去が改変され、『メモに気付いた俺』がメモを受け取った上で行動を起こす可能性」
「ふむ。なくはなさそうだけど、親殺しのパラドックスが起きそうだね。普通に別の世界線とかになっちゃいそう」
「二。改変もなされず、俺がメモに気付かないが、ちゃんと過去にメモが届く場合」
「……えーっと?」
俺は思い出した。
「『幻獣辞典』を、俺はほとんど部室のテーブルに置きっぱなしにしてたんだ。たぶん、部室に出入りしてる人間だったら簡単に手に取ることができる。いろいろ気になる点の多い本だったしな、他人の借りてるものだとは言え、ちょっと手に取るくらいのことはしてもおかしくない」
「……ふむ」
「そして、俺自身が気づくより先に、『誰か』がそのメモに気付いた、と考えることはできる」
「……もっと別の可能性は? たとえば……メモを挟んだ時間と現実の時間のズレは一定じゃなくて、バラバラだ、とか」
「そうなると……」
「そうなると?」
「出る手段がないな」
「……試してみるしかないね」
「うん」
「ところで、隼くんは、誰がメモに気付いたんだって思うの?」
「そりゃ、ちせだろ」
「なんで?」
「好奇心に負けて人の持ち物に触るのなんてちせくらいだし」
「……なるほど?」
図書室のカウンターからペンを借りた。メモ用紙は市川が持っていた。俺は手短に、ちせに対して、「とりあえずこのメモを見つけたことを俺本人に言うな」と書き、『鏡』が必要であること、このメモが未来から届いていることを書き連ねた。その上で今日の日付を書き、「この日の瀬尾青葉が危機的状況にあること」を付け加える。そして、自分の名前。こうしておけば、ちせの背後にいる人が動いてくれる。きっと。
満足行く出来のメモを挟み込んだあと、『幻獣辞典』を閉じると、その文庫本になにか厚い感触を感じた。
そこには小さな手鏡と、紙片。
「この貸しは高くつくからね」
「……お」
早い。
俺と鈴音は顔を見合わせて、その鏡に触れた。
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