09-01 栄光の手





「結局、ふたりきりになっちゃったね」


 座り込んだままの市川は、ぼーっとした口調でそう言った。


『わたし』の怜は鏡のむこうに帰り、『ぼく』の怜は、いなくなってしまった。助けに来た、と言っていた菊池も、姿を消した。

 あの、あんなにたくさんいた怜たちは、もういなくなってしまった。……瀬尾と一緒にいるはずの怜は、どうなっているんだろう。

『ぼく』の怜が消えると同時に消えるというような、都合のいい話ならば助かるのだけれど、と思ってから、少しだけ胸が痛むのを感じた。


 奇妙な静けさだった。もう誰も何も言おうとはしないし、どこからも呼びかけられることがない。


「さっきさ、なんで帰らなかったんだ? 鏡、触ろうとすれば触れただろ」


「三枝くんには言ったでしょ」


「なにを」


「……わたし、鏡にうつらないの」


「……ああ」


 それが何の理由になるのかはわからない。でも、俺と同じように、市川も帰れなかったのかもしれない。


「そういえば」


「うん」


「鈴音でいい」


「……ああ?」


「妹なんでしょ、わたし」


「……まあ、一応な」


 ぜんぜんそんな気はしないけど。


 市川――鈴音は、おかしそうに笑った。


「それで、さ。どうする?」


「どうしようか。とりあえず……立てる?」


「……もうちょっと待って。なんか、疲れちゃって」


「……そう、な」

 

 どうせ、すぐにどう行動するべきかなんて、決まりそうにない。俺もその場に腰をおろした。すぐ傍にはちどりのちいさな死体があった。俺は、その死体の髪を軽く撫でてみた。指先の合間にこすれるその柔らかくか細い感触を、俺は知っているような気がした。


 俺はおかしなことをしているんだろうか?


 胸が詰まって仕方なかった。


「……その子、どうする?」


「……どう、しような」


 本当に、どうしたものだろう。


「ちどりの両親はさ、まだちどりのことを探してるんだ。昔はよく、遊びにいってたんだけどな。良くしてもらってたのに……ぜんぜん近付けなくなった」


「そっか」


「連れ帰るべきなのかもしれないけど、混乱させるのかな。……俺にも、うまく説明できそうにない」


「うん」


 だからといって、放っておけるだろうか。

 

「もし埋めたら、死体遺棄か」


「髪でも切って持ち帰ろうものなら、死体損壊だね」


「懲役刑かな?」


「たぶんそう」


 彼女の顔は、眠っているように穏やかだった。

 もし会えたら、謝ろうと思っていた。


 あの日、嘘をついたこと。本当は、俺も一緒に、さまよっていたはずだったこと。

 俺が正直で誠実だったなら、一緒に、さまよっていたことを。


 俺は、嘘をついたから生き延びた。

 ほんとうにそれだけだった。


「ね、三枝くん」


「隼でいい」


「ん」


「不平等だろ」


「……じゃ、隼くん。とりあえず、埋めるにしてもさ、わたしたち、どうやってここから出ようか」


「……あ、閉じ込められてるんだっけ」


「怜さんがいなくなっちゃったけど、外に出られるのかな? ……鏡も、さっき、どこかの誰かが壊しちゃったし」


「俺たちの父親がな」


「うん。わたしたちの父親が」


 どこか滑稽な会話に、ちゃんと笑い合えた。


「あの、隼くんと、うちらのバカ親父の会話なんだけど」


「うん?」


「ぜんぜん、何言ってるのかわかんなかったんだけど、何の話だったの?」


「どれの話?」


「えっと、根拠が、どうとかって話」


「……ああ」


 なぜだか、肩の荷が降りたような気持ちで、俺は天井を見た。


「……鈴音、カミュの『カリギュラ』って戯曲知ってる?」


「カミュ? 『異邦人』とか『ペスト』の?」


「うん。そのカミュ」


「戯曲なんて書いてたんだ」


「むしろカミュ自身は、劇作に強い情熱を注いでたって話なんだけどな。『カリギュラ』っていうのは、どっかの皇帝の話」


「それ、関係あるの?」


「カリギュラっていうのは、主人公の皇帝なんだけど、情婦であり妹でもある女性の死をきっかけに、その皇帝が失踪して、戻ってきたと思ったら、突然に暴政……というよりも、暴走をおこなうようになって……って話」


「情報量多くない?」


「作中では、『近親相姦自体はやむを得ない』とかあっさり言ってたりするな」


「……あっさり、してるなあ」




 カリギュラは、『月を手に入れ』、『天を海にぶちこみ』、『美と醜を混ぜあわし』、『苦しみの中から笑いを湧き起させ』ようとする。


 けれど彼は、『愛するものの死によって気が触れた』わけではない。少なくとも、彼の言葉では。彼はある『真理』に従っていた。


 それはこうだ。


「――人間はすべて死ぬ、だから人間は幸せではない」


 その言葉は、いつか鈴音が言った言葉に、そういえば少し似ている。


 ――誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって、それで付き合って、それで……そのあとどうなるのか、わたしにはピンと来ないから。そのさきにあるのは、やっぱり当たり前の日常、当たり前の景色じゃない? でも、だって、その当たり前の景色が、ぜんぜん幸せって感じじゃないのに、誰かとどうにかなったところで、幸せなんかイメージできる? だからわたしはどっちでもよかったの。わたしにとって、好きとか嫌いとかっていうのは、そういうことなの。


 そのさきに、なにがあるのか。

 

『死刑執行の順序などは全く問題ではない。というより、これらの死刑執行はすべて同じ重要性を持っている、ということはつまり、いかなる重要性も持っていないことになる。』


 すべての死は等しく無価値であり、すべての生もまた等しく無価値である。

 故に順番は問題にならず、「しょせんは同じことだ。少しばかり早いか、少しばかり遅いか……」


 ならば、と問うことになる。


 人間はすべて死ぬ、だから人間は幸せではない。

 であるならば、なぜ生きている必要があるのか? なぜ殺してはいけないのか?


 なぜ、なぜ。

 

 その問いに答えはない。その「なぜ」に答える「誰か」がいない。『天などは、ありは』しない。


 天など、ありはしないのだから、"何も禁止されていない"。それが菊池の言い分だった。

"根拠はないのだから"、何をしてもいい、と。


 でも、菊池は根拠に従っていた。あいつは、カリギュラにすらなれなかった。ただ自分をごまかして、騙していただけだった。


 カリギュラは、根拠を破壊し尽くした末に、自分すらも殺そうとしたのだから。


 けれど、問題はそこで終わらない。


 ――つまりこの俺がペストの代わりになってやるのだ。


 カリギュラと向き合うものは、その『なぜ』のなさに応答するはめになる。


 シピオンは、「優しい慰めになるもの」があるのだと語り、ケレアは、「生きたいから、幸せになりたいから」、カリギュラへの謀反を企てる。セゾニアはカリギュラにむけて、「あなたの人生はまだこれから! 人生がそっくりそこにある、それ以上にどんなすばらしいものがあるとおっしゃるの?」と問う。


 けれど、そのどれもが、カリギュラには無効だった。


「あの男は思考を強いる。あらゆる人間に考えることを強いるのだ。不安というやつ、こいつのおかげで人間は考えざるをえなくなる」……。


 菊池は、鏡を割って去っていった。

 あれはきっと、最後の問いなのだろう。


 ――じゃあおまえは何に従ってるんだ?


 上位の審級などいない、絶対的な根拠はない。では、俺は『何故』生きているのか。

『何故』、菊池淳也が市川鈴音に近付いたときに、止めたのか。


 誰も、何も約束なんてしていない。人間はいつ死ぬかもわからないし、どんな順番で死ぬかもわからない。その死にも、順番にも、何の意味もない。


 なら、

 なぜ、鴻ノ巣ちどりの死を前に、俺は悲しむ必要があるだろう?

 あの、後輩の女の子の死に、とらわれる必要があるんだろう?


 善悪が相対的なものでしかないなら、俺の判断にも、理非など存在しない。

「正しいとも言える、間違っているとも言える」。


 俺はそれでも、何かを間違っている、と思う。何かを、正しい、と思う。

 その基準はなんなんだろう?


『何に従ってるんだ?』





 けれど、その問いの答えを、今は必要としていなかった。


「出口、探してみるか」


「……うん」


 理屈を考えている場合じゃないように思えた。その、「場合じゃないように思える」根拠はわからない。


 出口を探すべきだろう、と思う。その「べき」にも、根拠と言えるほどのことはない。本当になにもないなら、探しても探さなくても同じだ。「もう出口はない」。


 でも。


 考えている場合じゃないし、探すべきだと思う。


「出口、なんだけどさ。もし見つからなかったら、これ、使えると思う」


「……それって」


「これ」


 市川が、さっき拾っていた、腕の置物だった。


「これ、『栄光の手』だよ」


「……栄光の手」


「そう。ハンド・オブ・グローリー」


「って、なに?」


「絞首刑にあった死刑囚の左手を屍蝋にしてね……」


「それ本物の腕……?」


「そう。もともとの語源は、マンドレイクが訛ったって話だったけど。たしか、栄光の手には、『あらゆる鍵を解錠する力』があるんだよ。まあ、ウィキペディア調べなんだけど」


「……マンドレイク」


 なにかが頭をよぎりそうだったけれど、何かが喉元につっかえている気がしたのだけれど、思い出せない。なんだろう、聞いたことのないはずの伝承なのに、一瞬、合点がいったような、そんな感覚があった。なんだろう。何を思い出しそうになったんだろう。


「で、その腕をどうするの」


「とりあえず」と鈴音は首をかしげた。


「玄関の扉にかざしてみるとか?」





 そもそも、扉の鍵がしまったままなのかをたしかめるために、どちらにせよ一度玄関に向かうべきに思えた。窓は相変わらず割れなかったし、他に出口らしい出口も見当たらない。


「こんなふうに二人で歩くはめになるなんてね」


 と、彼女はどうしてか平気そうだった。


「腰が抜けてたのは大丈夫なのか」


「それは言わないで」


 どうしてか、以前よりも、市川の雰囲気が柔らかいような気がした。


 菊池はほんとうにどこにもいないのか。

 怜はほんとうに消えてしまったのか。


 問いかけたところでわかりようもない言葉は、もう重ねる気にもなれない。


 玄関までたどり着いたあと、市川は例の「ハンド・オブ・グローリー」を、「ひらけごま」といいながらかざした。けれど、扉は開かなかった。


「はずれかあ」


「捨てとけ、それ」


「なにかに使えるかもだし……」


 使えなかっただろ。


 などと言ったところではじまらない。


「隼くんは、なにか思いつかないの?」


「……ん。普通に、屋敷のどっかに鍵があるんじゃないか?」


「……たぶん、ちがうよ」


「なんで?」


「だって、窓が割れないんだもん。普通の鍵じゃ、開かないよ」


 ……理屈になっていない、と思ったけれど、ない話ではなさそうだ。どこかに隠してある鍵を見つけるよりは、ハンド・オブ・グローリーで開くほうが、有り得そうな話に思えた。ここはそういう場所なのだ。とはいえ、扉には鍵穴がある。……鍵をさせば、開きそうな気もするのだけど。


「……」


 さっき、何を思い出しかけたのだろう。


 なにげなく、俺はポケットに手を突っ込んで、

 そこに、硬い感触があることに気付いた。


 まさぐって取り出すと、それは鍵だった。見覚えのある鍵。


 これは、屋上の鍵だ。

 ましろ先輩にもらった、屋上の鍵。


 制服に入れてあるはずなのに、と考えかけたことで、思い出した。


「……あ」


 ――マンドラゴラだね。


 そうだ、ましろ先輩は。


 ――マンドラゴラを持ってるならば、これはきみにあげるべきだね。


 マンドラゴラを持っているならば、と、俺に鍵を渡した。

 彼女は知っていたのかもしれない。マンドラゴラがハンド・オブ・グローリーに転訛したことを。その言葉であらわされるものが、「開錠」を司る道具であることを。


 ――いつか役立つ日も来るでしょう。


 いや……いや。けれど、さすがに、そんな。

 

 と、思いながら、試さずにはいられずに、俺は、鍵穴にその鍵を差し込んだ。

 かちゃりと音がして、あっさりと、吸い込まれるように鍵はささった。何の抵抗もなかった。


 手首をひねると、鍵が開く気配がした。


「……開いた」


「隼くん、なんでそんな鍵もってるの?」


「……」


 ――「もし出られなくなりそうだったら」とましろ先輩は言った。「鏡をさがしてね」

 

 彼女は、どこまで知っていたのだろう。


「……とりあえず、扉は開いたな」


「……ん」


 頷き合う。出口があるなら、あとは、どうするかの問題だった。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る