09-01 栄光の手
◇
「結局、ふたりきりになっちゃったね」
座り込んだままの市川は、ぼーっとした口調でそう言った。
『わたし』の怜は鏡のむこうに帰り、『ぼく』の怜は、いなくなってしまった。助けに来た、と言っていた菊池も、姿を消した。
あの、あんなにたくさんいた怜たちは、もういなくなってしまった。……瀬尾と一緒にいるはずの怜は、どうなっているんだろう。
『ぼく』の怜が消えると同時に消えるというような、都合のいい話ならば助かるのだけれど、と思ってから、少しだけ胸が痛むのを感じた。
奇妙な静けさだった。もう誰も何も言おうとはしないし、どこからも呼びかけられることがない。
「さっきさ、なんで帰らなかったんだ? 鏡、触ろうとすれば触れただろ」
「三枝くんには言ったでしょ」
「なにを」
「……わたし、鏡にうつらないの」
「……ああ」
それが何の理由になるのかはわからない。でも、俺と同じように、市川も帰れなかったのかもしれない。
「そういえば」
「うん」
「鈴音でいい」
「……ああ?」
「妹なんでしょ、わたし」
「……まあ、一応な」
ぜんぜんそんな気はしないけど。
市川――鈴音は、おかしそうに笑った。
「それで、さ。どうする?」
「どうしようか。とりあえず……立てる?」
「……もうちょっと待って。なんか、疲れちゃって」
「……そう、な」
どうせ、すぐにどう行動するべきかなんて、決まりそうにない。俺もその場に腰をおろした。すぐ傍にはちどりのちいさな死体があった。俺は、その死体の髪を軽く撫でてみた。指先の合間にこすれるその柔らかくか細い感触を、俺は知っているような気がした。
俺はおかしなことをしているんだろうか?
胸が詰まって仕方なかった。
「……その子、どうする?」
「……どう、しような」
本当に、どうしたものだろう。
「ちどりの両親はさ、まだちどりのことを探してるんだ。昔はよく、遊びにいってたんだけどな。良くしてもらってたのに……ぜんぜん近付けなくなった」
「そっか」
「連れ帰るべきなのかもしれないけど、混乱させるのかな。……俺にも、うまく説明できそうにない」
「うん」
だからといって、放っておけるだろうか。
「もし埋めたら、死体遺棄か」
「髪でも切って持ち帰ろうものなら、死体損壊だね」
「懲役刑かな?」
「たぶんそう」
彼女の顔は、眠っているように穏やかだった。
もし会えたら、謝ろうと思っていた。
あの日、嘘をついたこと。本当は、俺も一緒に、さまよっていたはずだったこと。
俺が正直で誠実だったなら、一緒に、さまよっていたことを。
俺は、嘘をついたから生き延びた。
ほんとうにそれだけだった。
「ね、三枝くん」
「隼でいい」
「ん」
「不平等だろ」
「……じゃ、隼くん。とりあえず、埋めるにしてもさ、わたしたち、どうやってここから出ようか」
「……あ、閉じ込められてるんだっけ」
「怜さんがいなくなっちゃったけど、外に出られるのかな? ……鏡も、さっき、どこかの誰かが壊しちゃったし」
「俺たちの父親がな」
「うん。わたしたちの父親が」
どこか滑稽な会話に、ちゃんと笑い合えた。
「あの、隼くんと、うちらのバカ親父の会話なんだけど」
「うん?」
「ぜんぜん、何言ってるのかわかんなかったんだけど、何の話だったの?」
「どれの話?」
「えっと、根拠が、どうとかって話」
「……ああ」
なぜだか、肩の荷が降りたような気持ちで、俺は天井を見た。
「……鈴音、カミュの『カリギュラ』って戯曲知ってる?」
「カミュ? 『異邦人』とか『ペスト』の?」
「うん。そのカミュ」
「戯曲なんて書いてたんだ」
「むしろカミュ自身は、劇作に強い情熱を注いでたって話なんだけどな。『カリギュラ』っていうのは、どっかの皇帝の話」
「それ、関係あるの?」
「カリギュラっていうのは、主人公の皇帝なんだけど、情婦であり妹でもある女性の死をきっかけに、その皇帝が失踪して、戻ってきたと思ったら、突然に暴政……というよりも、暴走をおこなうようになって……って話」
「情報量多くない?」
「作中では、『近親相姦自体はやむを得ない』とかあっさり言ってたりするな」
「……あっさり、してるなあ」
◇
カリギュラは、『月を手に入れ』、『天を海にぶちこみ』、『美と醜を混ぜあわし』、『苦しみの中から笑いを湧き起させ』ようとする。
けれど彼は、『愛するものの死によって気が触れた』わけではない。少なくとも、彼の言葉では。彼はある『真理』に従っていた。
それはこうだ。
「――人間はすべて死ぬ、だから人間は幸せではない」
その言葉は、いつか鈴音が言った言葉に、そういえば少し似ている。
――誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって、それで付き合って、それで……そのあとどうなるのか、わたしにはピンと来ないから。そのさきにあるのは、やっぱり当たり前の日常、当たり前の景色じゃない? でも、だって、その当たり前の景色が、ぜんぜん幸せって感じじゃないのに、誰かとどうにかなったところで、幸せなんかイメージできる? だからわたしはどっちでもよかったの。わたしにとって、好きとか嫌いとかっていうのは、そういうことなの。
そのさきに、なにがあるのか。
『死刑執行の順序などは全く問題ではない。というより、これらの死刑執行はすべて同じ重要性を持っている、ということはつまり、いかなる重要性も持っていないことになる。』
すべての死は等しく無価値であり、すべての生もまた等しく無価値である。
故に順番は問題にならず、「しょせんは同じことだ。少しばかり早いか、少しばかり遅いか……」
ならば、と問うことになる。
人間はすべて死ぬ、だから人間は幸せではない。
であるならば、なぜ生きている必要があるのか? なぜ殺してはいけないのか?
なぜ、なぜ。
その問いに答えはない。その「なぜ」に答える「誰か」がいない。『天などは、ありは』しない。
天など、ありはしないのだから、"何も禁止されていない"。それが菊池の言い分だった。
"根拠はないのだから"、何をしてもいい、と。
でも、菊池は根拠に従っていた。あいつは、カリギュラにすらなれなかった。ただ自分をごまかして、騙していただけだった。
カリギュラは、根拠を破壊し尽くした末に、自分すらも殺そうとしたのだから。
けれど、問題はそこで終わらない。
――つまりこの俺がペストの代わりになってやるのだ。
カリギュラと向き合うものは、その『なぜ』のなさに応答するはめになる。
シピオンは、「優しい慰めになるもの」があるのだと語り、ケレアは、「生きたいから、幸せになりたいから」、カリギュラへの謀反を企てる。セゾニアはカリギュラにむけて、「あなたの人生はまだこれから! 人生がそっくりそこにある、それ以上にどんなすばらしいものがあるとおっしゃるの?」と問う。
けれど、そのどれもが、カリギュラには無効だった。
「あの男は思考を強いる。あらゆる人間に考えることを強いるのだ。不安というやつ、こいつのおかげで人間は考えざるをえなくなる」……。
菊池は、鏡を割って去っていった。
あれはきっと、最後の問いなのだろう。
――じゃあおまえは何に従ってるんだ?
上位の審級などいない、絶対的な根拠はない。では、俺は『何故』生きているのか。
『何故』、菊池淳也が市川鈴音に近付いたときに、止めたのか。
誰も、何も約束なんてしていない。人間はいつ死ぬかもわからないし、どんな順番で死ぬかもわからない。その死にも、順番にも、何の意味もない。
なら、
なぜ、鴻ノ巣ちどりの死を前に、俺は悲しむ必要があるだろう?
あの、後輩の女の子の死に、とらわれる必要があるんだろう?
善悪が相対的なものでしかないなら、俺の判断にも、理非など存在しない。
「正しいとも言える、間違っているとも言える」。
俺はそれでも、何かを間違っている、と思う。何かを、正しい、と思う。
その基準はなんなんだろう?
『何に従ってるんだ?』
◇
けれど、その問いの答えを、今は必要としていなかった。
「出口、探してみるか」
「……うん」
理屈を考えている場合じゃないように思えた。その、「場合じゃないように思える」根拠はわからない。
出口を探すべきだろう、と思う。その「べき」にも、根拠と言えるほどのことはない。本当になにもないなら、探しても探さなくても同じだ。「もう出口はない」。
でも。
考えている場合じゃないし、探すべきだと思う。
「出口、なんだけどさ。もし見つからなかったら、これ、使えると思う」
「……それって」
「これ」
市川が、さっき拾っていた、腕の置物だった。
「これ、『栄光の手』だよ」
「……栄光の手」
「そう。ハンド・オブ・グローリー」
「って、なに?」
「絞首刑にあった死刑囚の左手を屍蝋にしてね……」
「それ本物の腕……?」
「そう。もともとの語源は、マンドレイクが訛ったって話だったけど。たしか、栄光の手には、『あらゆる鍵を解錠する力』があるんだよ。まあ、ウィキペディア調べなんだけど」
「……マンドレイク」
なにかが頭をよぎりそうだったけれど、何かが喉元につっかえている気がしたのだけれど、思い出せない。なんだろう、聞いたことのないはずの伝承なのに、一瞬、合点がいったような、そんな感覚があった。なんだろう。何を思い出しそうになったんだろう。
「で、その腕をどうするの」
「とりあえず」と鈴音は首をかしげた。
「玄関の扉にかざしてみるとか?」
◇
そもそも、扉の鍵がしまったままなのかをたしかめるために、どちらにせよ一度玄関に向かうべきに思えた。窓は相変わらず割れなかったし、他に出口らしい出口も見当たらない。
「こんなふうに二人で歩くはめになるなんてね」
と、彼女はどうしてか平気そうだった。
「腰が抜けてたのは大丈夫なのか」
「それは言わないで」
どうしてか、以前よりも、市川の雰囲気が柔らかいような気がした。
菊池はほんとうにどこにもいないのか。
怜はほんとうに消えてしまったのか。
問いかけたところでわかりようもない言葉は、もう重ねる気にもなれない。
玄関までたどり着いたあと、市川は例の「ハンド・オブ・グローリー」を、「ひらけごま」といいながらかざした。けれど、扉は開かなかった。
「はずれかあ」
「捨てとけ、それ」
「なにかに使えるかもだし……」
使えなかっただろ。
などと言ったところではじまらない。
「隼くんは、なにか思いつかないの?」
「……ん。普通に、屋敷のどっかに鍵があるんじゃないか?」
「……たぶん、ちがうよ」
「なんで?」
「だって、窓が割れないんだもん。普通の鍵じゃ、開かないよ」
……理屈になっていない、と思ったけれど、ない話ではなさそうだ。どこかに隠してある鍵を見つけるよりは、ハンド・オブ・グローリーで開くほうが、有り得そうな話に思えた。ここはそういう場所なのだ。とはいえ、扉には鍵穴がある。……鍵をさせば、開きそうな気もするのだけど。
「……」
さっき、何を思い出しかけたのだろう。
なにげなく、俺はポケットに手を突っ込んで、
そこに、硬い感触があることに気付いた。
まさぐって取り出すと、それは鍵だった。見覚えのある鍵。
これは、屋上の鍵だ。
ましろ先輩にもらった、屋上の鍵。
制服に入れてあるはずなのに、と考えかけたことで、思い出した。
「……あ」
――マンドラゴラだね。
そうだ、ましろ先輩は。
――マンドラゴラを持ってるならば、これはきみにあげるべきだね。
マンドラゴラを持っているならば、と、俺に鍵を渡した。
彼女は知っていたのかもしれない。マンドラゴラがハンド・オブ・グローリーに転訛したことを。その言葉であらわされるものが、「開錠」を司る道具であることを。
――いつか役立つ日も来るでしょう。
いや……いや。けれど、さすがに、そんな。
と、思いながら、試さずにはいられずに、俺は、鍵穴にその鍵を差し込んだ。
かちゃりと音がして、あっさりと、吸い込まれるように鍵はささった。何の抵抗もなかった。
手首をひねると、鍵が開く気配がした。
「……開いた」
「隼くん、なんでそんな鍵もってるの?」
「……」
――「もし出られなくなりそうだったら」とましろ先輩は言った。「鏡をさがしてね」
彼女は、どこまで知っていたのだろう。
「……とりあえず、扉は開いたな」
「……ん」
頷き合う。出口があるなら、あとは、どうするかの問題だった。
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