08-02 カリギュラ/大いなる鏡





「くだらない芝居も終わったな」


 へらへら笑って、菊池は俺の方を見た。市川もまた、呆然と立っている。


 当たり前だ。出てくる言葉もない。


 俺は、倒れたちどりに近付いて、その肌に触れた。冷たく、あまりにも白い。

 目を見開いたまま、彼女のからだは動かなくなっていた。


 死んでいるのだ。


 彼女はとっくに死んでいた。

 

 その肌のつめたさに、思わず顔が歪んだ。


 いまさらのように、思う。


 夜の森のなかを、ひとり、さまよったのだろうか。

 声をあげて、誰かを呼んだのだろうか。

 そのとき、俺の名を、怜の名を、呼んだりもしたのだろうか。


 彼女の瞼に触れ、そっと閉じさせる。


 怖かっただろうか。

 痛かっただろうか。

 苦しかっただろうか。

 寒かっただろうか。

 悔しくて、悲しかっただろうか。


 もう、知ることもできない。


 鴻ノ巣ちどり。


 俺の幼馴染。


 そして、怜。『ぼく』の怜。


 ずっと、ちどりを探していた怜、強く、彼女を見つけたいと望んでいた怜も、あっさりと消えてしまっていた。


 彼女の悔恨も、何もかも。


「放っておけよ」と菊池は言った。


「死体だぜ、それ」


「……」


 俺は返事をしなかった。


「それより、その子だれ」


 菊池は、市川に視線を向けていた。


「かわいいね。なんて名前?」

 

 菊池は一歩も踏み出していないのに、市川は後ずさりした。


「おまえの娘だよ」


 俺の言葉を、菊池は冗談だと思ったのだろうか。面白そうに笑っただけだった。そして、一歩市川にむけて踏み出す。


「菊池」


「なんだよ。べつにいいだろ、もう平和なんだから」


「おまえの娘だ」と俺は繰り返した。


「関係ないね」と菊池は言った。


「関係ない?」


「関係ない。俺に娘はいない。し、いたとしても関係ない。娘だったとしても関係がない」


「……」


「そんなものは、俺を止める根拠にはならない」


 馬鹿馬鹿しいと思った。それと同時に、急に腹立たしくなった。

 

「とりあえず黙れ」


「黙らねえよ。……なんだ、おまえ?」


「……そいつは俺の妹だ」


「だからなんだよ? おまえ、妹やら娘じゃなかったら、かまわないって言ったのかよ? 違うだろ? だったら、娘だろうが妹だろうが、関係ないだろうが」


 なにひとつ通用しない。

 こいつは滅茶苦茶だ。

 

 滅茶苦茶なのに……悲しくなるくらい、弱い。


 市川の表情は普段と変わらない。それなのに、彼女の足が震えていることに気付いた。


 ああ、もう。


「菊池、おまえ、帰れよ」


「なんだよ。助けてやっただろうが」


「助けてやった『から』、何?」


 彼は小さく舌打ちした。


「市川、先に帰れよ」と俺は言った。


「たぶん、鏡に触れば帰れるから」


 彼女は首をぶんぶん横に振った。なんでなのかは、もうわからない。


「隼、邪魔するなら、おまえも消すよ」


 俺は、いいかげん言ってやらないといけないと思った。


「おまえ、矛盾してるよ。どう考えても」


「なにが。なにが矛盾なんだよ。矛盾なんて、しようがないだろ。『なぜ』はない。『ゆえに』がない。論理がない。だから、矛盾もない」


「それだよ」


「は?」


「なんで気付かないんだ、おまえ、バカだろ。"なぜ"はない。"根拠"はない。"だから"矛盾もない。"審判には根拠がない"。"だから何をしてもいい"、って、それは、立派な論理だろ」


 菊池は、ようやく俺の方を振り向いた。


「『罪もないし、罰もない』って、さっきおまえは言ってたな。間違ってないと思う。俺には、あるともないとも言えないけど、べつに間違ってはない、と、思う」


 俺たちを裁く上位の審判者なんて、いない。

 だから、起きちゃいけないことも平然と起きるし、理にかなわないことが当たり前に起きる。


 根拠がない、底がない、足元がおぼつかない……。土台がない、ぐらぐらして、頼りない。なにもかも、元の元まで辿ってしまえば、根拠がない。


 でも、


「でも、"禁止"する審級がないなら、"許可"もない。おまえには根拠がない。行動する根拠がない。呼吸する根拠がない。生きている根拠がない。何かをしてはいけない根拠もない、でも、何かをしてもいい根拠もない」


「必要ねえよ」


「どうして」


「必要ねえからだよ」


 だから、こうなる。

 根拠をめぐる問いは、同語反復に行き着く。


 でも、その同語反復には下支えがない。

 

 たしかに必要ないのかもしれない。ほんとうに、論理として、それが一貫していたなら。


「じゃあ、どうしておまえはいま、市川に近づこうとしたんだ。何を根拠に、市川だったんだ」


「たまたまそこにいたからだよ」


「違うだろ。おまえは市川が『かわいかったから』近付いたんだろ。たまたまいただけならなんでもよかった。俺でもよかったし、ちどりの死体でさえよかった。鏡でも、なんでもよかったはずだ」


「隼、うるせえよ」


「おまえは口では根拠がないとか必要ないとか大層なことを言っているけど、おまえ自身がおまえの理屈を否定してるんだよ。おまえは根拠なしには、何も行動できない。根拠なしには、おまえの行動には基準がない。なにも選べない。根拠がないなら何をしても、何もしなくても同じだ。おまえが何かをするためには、根拠が必要だし、おまえが何かを現にしている以上は、おまえの行動を担保する根拠が必ずある。そうじゃなきゃ、何も選べない」


「うぜえ」


「おまえは別に、何からも逃げきれてない。なにかの外側にいるように振る舞うべきじゃない。だから、すぐに根拠に追いつかれる」


「黙れよ、もういい、わかった。なにもしねえよ。けど、じゃあおまえは何に従ってるんだ?」


 菊池は、俺を睨んでいる。


 俺は答えなかった。


 ハッ、と彼は笑い、それから一度市川の方を見たあと舌打ちをした。そして不意に思い出したように、彼のすぐ傍にあった鏡に近付いた。


「隼、こっちに来いよ」


「は?」


「いいから、こっちに来いって」


 言われるままに、俺は鏡に近付いた。そして彼は、鏡に俺の顔が映った瞬間に、拳を振り上げて鏡に向けて振り抜いた。


 大きな音を立てて破片が散る。俺は思わず目を閉じた。一瞬後、開くとそこに鏡はなかった。

 彼はけたたましい笑い声をあげた。俺は何が起きたのかよくわからなかった。


 次の瞬間、菊池淳也の姿は消えていた。あたりを見回しても、どこにも彼はいない。

 

 市川が、不意に崩れ落ちた。俺が駆け寄ると、彼女はこちらを見上げて困ったみたいに笑った。


「あの」


 と彼女は言った。


「はい」と俺はなぜか敬語で返事をした。


「腰が抜けました」


「……はあ」


 彼女の声は少し震えていた。俺はとりあえず、あらゆる問題を脇において溜め息をついた。


 

 


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