審問の語法

08-01 カリギュラ/審問と嘲弄





「……そろそろだね」


 と怜は言った。彼女はときどき瞼を閉じて、考え深そうに沈黙する。その閉じた瞼の裏には、二重の風景として屋敷のなかのなにかが見えているのだろうか。

 

「……ね、三枝くん」


「ん」


 市川に声をかけられて振り返ると、彼女は眠そうな顔をしていた。


「わたし、さっきの話よくわかんなかったんだけどね」


「うん」


「その怜さんは、スパイじゃないの?」


「おっと?」


「それは俺も考えたけどさ」


「あれ? 信用されてないね、わたし」


 気にした様子もなく、『わたし』の怜は軽く苦笑いをして、また瞼を閉じた。様子をうかがっているのだろう。そっちは放っておいて、俺は市川に声をかけた。


「この怜もスパイかもしれないけど、疑ったところでどうにもならないだろ。スパイみたいな怜が来て俺たちを大広間につれていくか、看守みたいな怜が来て俺たちを大広間につれていくかのどっちかだ」


「たいへんだね。逃げる?」


「この怜がどっちだったとしても、この屋敷に出口なんてたぶんない」


 言ったあと、俺は笑った。


「たぶん、怜ならそうすると思う」


「ふうん? わたしのことよく知ってるね。……と、そろそろだ。行こう」


 扉を開けて、怜は静かに牢屋から出た。


「ところでおまえ、何のタイミングをうかがってたんだ?」


「たぶんもうちょっとしたら聞こえるよ。こっち」


 薄暗い廊下を足早に駆け抜けていく。前を歩く怜に足音を気にする様子はないので、離れないように静かについていくが、俺は市川がちゃんとついてきているかどうかを確認するために、数秒に一度は後ろを振り向かなければならなかった。


「騒がしいな」


「うん。ちょっと協力者がいてね」


「……聞いてないが」


「わたしが無策なわけないでしょう」


「……でも、誰だよ、それ」


「とにかく、ほら、囮が騒いでるうちに」


 石造りの上り階段を抜けた先は、朱色の絨毯の敷かれた廊下につながっていた。左右に伸びる廊下と無数のドア。壁にははめ込み窓があり、向こう側は木々の生い茂る夜の庭のようだった。


 市川は何を思ったのか、階段のそばの台座の上に置いてあった、人間の腕の形をした奇妙な置物を掴み上げ、窓にむけて投げつけた。置物は加速して窓ガラスにぶつかっていったが、鈍く低い音がして跳ね返り、絨毯の上を転がる。


「……市川さん、なにやってるの」


「窓あるなら、割ればいいやと思ったんだけど。……割れないね、これ」


「まあ、発想としては正しいんだけど、出口はないんだって」


「だって、あなた、スパイかもしれないし」


「ほんとに全然信じてくれてないね、市川さん……」


 言い合いをしているふたりを横目に、俺は市川が投げた置物を拾い上げた。

 腕、というよりは手首から先、といった具合だ。指の中には蝋燭が握り込まれている。

 なんだっけ。これ、どこかで聞いたことがある。


「……いや、のんびりしてる場合じゃないんだった」


 怜に言われてはっとなり、俺はあたりを見回した。喧騒はまだ遠いが、誰かが誰かを追いかけ回しているような、ドタバタとした足音と声が遠くに響いている。


「怜、大広間はどっち?」


「こっち。……隼、その腕、持ってくの? 気味悪いよ?」


「……まあ、いちおう?」




 呆れ顔の怜は、それでも足早に歩き始めた。猶予はそう長くはないらしいが、それでも彼女は必要以上に慌てる様子がない。「協力者」というのが誰なのかはわからないが……とにかく、なかなかちょうどいい騒ぎを起こしてくれているらしい。


 ……だけど。やっぱりなんか、おかしい気がする。


「隼、考えるのはあと」


 廊下の角を曲がり、左手に階段があらわれる。怜はそれを無視して、その階段の奥にもうひとつの階段が同じ向きに伸びていて、階段と階段の中央に観音開きの扉があった。怜はその扉の前に立った。

 

「ふたりとも、いける?」


「まあ、うん」


 俺は状況がわからないまま頷いた。


「じゃあ開けるよ」


「え」


 怜は躊躇なく開けた。


「もうちょっと前置きとかない?」


「どっちにしたって同じなんだよ」


 怜がそう言った瞬間、


「そう、同じなんだ」


 と、部屋の奥から声がした。


 大広間は、広間というよりは、不思議と、式場を連想させた。結婚、あるいは葬式の……。


 扉を開けると、左右それぞれ何列かにわけて、均等な数の椅子が並んでいる。まっすぐに伸びた絨毯の向こうには壇があり、左右の隅にはそこにあがるための低い階段があった。その壇の上に、玉座めいた椅子があり、そこに『ちどり』の怜が座っていた。


 彼女はご満悦と言った様子でこちらを見下ろしている。子供のちどりの姿なのに、あるいはそれだからかえってか、脚を組み肘かけに肘をついてにんまりと笑うその表情は、妖艶ですらあった。


 そして、彼女のすぐそばには、大きな鏡が置かれていた。


「よく来たね、隼」


 市川は俺の服の裾を掴んでくいくい引っ張ると、「やっぱり罠だったんじゃない?」とちょっとだけ不服そうな声をあげた。


「この『ぼく』だけはどうしようもない。他の奴らがいないから、いまがいちばん鏡を狙いやすいんだ」


『わたし』の怜はそう言った。たしかに、見かけは小さな子供だ。この状況だったら、無理矢理にでも鏡に触れることはできるかもしれない、けれど……。


「まだ、裁判の準備は終わってないんだけどね。……でも、まあいいか」


 と、"ちどり"は言い、


「どうせ隼は、ここから逃げられないしね」


 笑った。


「隼、耳を貸したら駄目だよ。あの子にはどうせ何もできないんだから」


 怜の言葉に、"ちどり"は含み笑いをした。


「きみにぼくの視界がわかるように、ぼくにもきみの視界は見えてたんだけどね。だから、いつ来るかなんてわかってた、その上でひとりになった。この意味、わかる?」


 まあ、そりゃそうだな、と俺は思う。怜だって気づいてはいただろう。


「行くよ」

 

 と怜は言い、それに従って、俺と市川は歩き始めた。空白の椅子の真中の通路を行き、階段を無視してそのまま壇上へと上がろうとする。"ちどり"はそれを眺めるだけで、何もしない。ただにんまりと眺めているだけだ。


「大丈夫、そのまま鏡に」


 その瞬間、広間の入口から無数の足音が聞こえてきた。


「早く!」


 怜はもう、鏡の前まで辿り着いていた。俺は、自分もまた鏡に近づこうとして、立ち止まる。


「隼……?」


 足音が声になり、その声が姿として広間に入り込んでくる。無数の『怜』たちが、兵士か、看守か、あるいはもっと別の何かのような怜たちが、駆け込んできて、壇上へと向かってくる。「早く!」と怜は怒鳴る。俺はその背をそっと押して、自分自身も鏡に近づこうとする。


 怜のからだはあっさりと鏡に飲み込まれていった。俺の手はそれを追いかけるようにして、鏡の表面にふれる。


 俺の指先は鏡の冷たい感触をつたえてくる。けれど何も起きない。


 やがて背後から追いかけてきた怜たちが、俺の体をあっさりと捕らえた。


 広間には、無数の怜たちと、"ちどり"と、俺と市川が取り残される。けれど、市川は捕らえられはしない。


「市川、早く鏡に」


「んー、いいよ」


「なんで」


「だって、三枝くんも帰らないし」


「俺は帰れないんだよ」


「ていうかさ、最初から、帰る気なかったよね」

 

 と市川は退屈そうにいちどあくびをした。


「わたしと怜さんだけ、帰そうとしてたでしょ」


「……なんで分かった?」


「なんとなく」


 怜たちに捕らえられた俺は、森のなかでのときと同じ様に床に組み伏せられた。それから壇上に引きずり下ろされる。怜たちはやはり市川にはなにもしようとはしない。さっきまで掴んでいた、腕を模した置物は、壇上に落としてしまった。


「隼は、帰れないよね。市川さんの言うとおり。だって、帰れる根拠がないもの」


 俺は返事をしなかった。玉座の"ちどり"は、満足そうに笑って、それから立ち上がった。


「裁判を始めないと。そうだね」


 ちどりの顔。ちどりの顔つきで、そいつは言う。


「申開きはある?」


「何についての罪で、裁かれるんだ、俺は」


 俺はなんとなく笑った。


「どっちにしても、判決は出てるんだろうけど」


 俺は市川に目配せをした。おまえだけでも先に帰れ、と、アイコンタクトでつたえようとしたのだけれど、彼女は何を勘違いしたのか、壇上に落ちた腕の置物を回収して、こちらに向けて親指を立てた。よくわからないが、とにかく怜たちの注意は市川に向いていないようだった。関係がない、ということなのかもしれない。


「何の罪かと言われたら」"ちどり"は俺を見下ろしたまま言う。「幸せになろうとした罪かな?」


 そうだな、と俺は思った。


 まったくもって、返す言葉もない。


"ちどり"の顔で、"ちどり"の声で、罪を問われる。

 

 ちどりを差し置いて、幸せになろうとしたことを。


 ――ぼくらには罪がある。

 ――ちどりがいなくなってしまったことについて、ぼくらには責任がある。

 ――その罪を、責任を、ぼくたちは何らかの形で贖わなくちゃいけない、償わなきゃいけない……。


 問われているのは、最初からそのことだ。


 わかっている。俺だってそう思う。あまりにも、都合のいい話だ。馬鹿馬鹿しい、無理がある、どうしようもない。


 鏡に触れても、向こう側になんていけやしなかった。


 ましてや俺は、本来いるべきではない場所に住みつき、そこで自分のものではないものを食べ、受け取り、食いつなぐ存在。不当にその場所を占有している存在だ。


 帰れるわけがない。『鏡を通り抜けただけで、話が終わるわけがない』。


 ――副部長は、罰を待ってるの?


 そうかもしれない。


「だから隼は、この世界でぼくと一緒にちどりを探すんだ。それがぼくたちの罰なんだよ」


 市川はもう黙っている。俺が抵抗しないからだろう、俺を抑えている怜たちも、もう何もしない。


「じゃないとちどりが眠れない。ちどりが呼んでる、隼を呼んでる、僕を責めてる……だから、隼、隼は、ぼくと一緒にちどりを探さなきゃいけないんだ」


 繰り返しだ。これじゃ話が終わらない。


 鏡。鏡か。


「瀬尾も、市川も、関係ないだろ」


 と、そう答えると、"ちどり"の顔があからさまに歪んだ。


「まだ自覚が足りないね」


「俺が言ってること、そんなにおかしいか?」


「おかしいよ」


「俺が、ちどりを探さなきゃいけない。それはわかる。でも、瀬尾や市川を巻き込むのは、あきらかにおかしいよな」


「"だから"、瀬尾さんや市川さんは見逃してくれ、って言ってるんだよね?」


「……そう、なるな」


「じゃあ駄目だね。だってそれは取引でしょう。『俺がちどりを探す代わりに、瀬尾や市川の安全を保証しろ』。隼が言ってるのって、そういうことだよね?」


「おかしくないだろ」


「おかしいよ。だってそれじゃ、隼がちどりを探すのは罰じゃない。"取引材料"だ。そんなの、ちどりが許さない」


「……」


「隼はこう言わないといけないんだ。『たとえ瀬尾や市川の安全が保証されなかったとしても、ちどりを探す』。いや、むしろ、ちどりは望んでいるかもしれない。瀬尾さんや市川さんに危害を加えることを、望んでいるかもしれない、だって、それはぼくらに対する罰なんだから」


 どうしてだろう、どうしてこんなに話が通じないんだろう。

 

「ちどりが眠れない、ちどりが、ぼくを呼んでる……」


 俺は、何を言えるんだろう。この場面で、何を言えるんだろう。


「やっとわかった」


 不意に、それまで黙っていた市川が、声をあげた。


 顔をむけると、彼女はまっすぐに"ちどり"を見ている。


「わたし、ぜんぜん話がわかってないんだけど、あなたのことはわかった」


「……部外者は黙っててくれるかな」


「あなたはもう見つけたんだね」


 市川はかまわず言葉を続けた。


「あなたはとっくに、ちどりさんの死体を見つけているんでしょう?」






 "ちどり"の表情は、あからさまに揺らいだ。


「ううん、というより……そっか。わかった。いま、あなたが操っているそのからだが、ちどりさんの死体なんだね」


「どうして」


「だって、他に、あなたがちどりさんの姿をしている理由がないじゃない」


「市川……?」


「三枝くんも、気づかないのはおかしいよ。認めたくないのかもしれないけど、この子の、ちどりさんに対する口振りは、完全に『死んだ人』としての扱いだよ。『ちどりが眠れない』、『ちどりが呼んでる』、『ちどりが責めてる』……。ちどりさんの名前を、全部、『死者』って言葉に置き換えてみなよ。きっと、なんにも違和感がない。この子は、最初から、三枝くんにちどりさんを探させようなんて思ってないんだよ」


「ちどりは」


 何か言いかけた"ちどり"を制するように、市川は強い口調で言い切った。


「それにそもそも、森に迷い込んだ小学生の女の子が、誰の助けもなく何年もそのまま生き延びられるわけがないでしょう。たしかにここはおかしな世界で、死んだ人間が歩いていたりもするのかもしれない、そういう意味ではどこかにいるかもしれない。でも、もしどこかにいるのなら、怜さんがさんざん探したんだから、とっくに見つかっているはずだよね」


「ちどりは死んでいない!」と怜は怒鳴った。


「ぼくを待ってる! ぼくを呼んでる、隼を待ってる……」


 市川は一、ためらうような声で言った。


「きみは、罰を待ってるの?」


 そしてそのとき、大広間の入口から、足音が響いてきた。


 俺は振り返れない。だから、それが誰なのかわからなかった。けれど、先ほどまで俺たちを見下ろしていた"ちどり"が、驚愕に目を見開いているのがわかった。


「よう、隼」


 と、声は言った。


 菊池淳也の声だった。





「つまんなそうな話してたな」


 と言いながら、声の主は近付いてきた。そして、奇妙なことが起きた。その声が俺の近くまで来たかと思うと、不意に俺を押さえつけていた怜たちの手の感触が、俺の背中から消えたのだ。


「助けに来たよ。必要なかったか?」


 首をめぐらせてあたりを見ると、もうそこには、さっきまでの無数の怜はいなかった。


「……どうなってる?」


「ほら、こないだ、犬みたいなのがいたろ。あんな感じで、こいつら、俺が触ると消えちゃうんだ」


「……」


 彼は俺に手を差し伸べた。俺はその手を受け取るかどうか迷った。


「おまえも消えるかどうか、試してみるか?」


 俺は彼の手を掴んだ。そうして立ち上がる。消えないで済んだみたいだ。


「まあ、たしかに哀れな話ではあるな」


 その声は、俺ではなく"ちどり"に向けられている。彼女はもう黙り込んだままだ。


「罰を待ってるのに、永遠に罰は来ない。いつまで経っても自分は不幸にならないし、死者は枕元に立たないし、呪いも祟りもなんにもない。"審判"は訪れない。この世界は、罪に対して都合よく罰が与えられるようには作られていない。ましてや、自分が犯した罪に対して適切な罰が与えられれば、それが贖われたことになれば釈放されるわけでもない。贖いも償いも原理的に不可能だ。責任なんて、とれるわけがない。だって、裁き手がいないんだから。上位の審判者なんて、この世のどこにもいない。この世にはもともと『罪がない』。だから『罰もない』」


 裁きの訪いはない。

 上位の審級はどこにもない。


 だから、罪に対してふさわしい罰なんて、どこからも、誰にも、与えられない。


「それでも、罪を悔いるやつは、自分は他人よりも恥じ入っていると思うやつは、いつも他人を裁こうとする。おまえは『罪に対しての恥じ入り方が不十分だ』って言い出すわけだ。そうやって、他人を審問しはじめる。そこに改悛が関係あるのかどうかは、俺にはよくわからないが、だから、裁判なんだな」


「……なんでここにいる」


「あの、『わたし』の怜に呼ばれたんだよ。入口を荒らして騒ぎを起こしてくれって。俺に触ったら勝手にあいつらが消えるから、大した手間じゃなかったな」


「なんで知り合いなんだよ、おまえらは」


「おまえが来なかった時期に会ってな。隼の知り合いだって言うからあれこれ話してたんだけど、今日はここに呼ばれた」


 そもそも。

 俺が最後にこいつに会ったのは、あの小屋のなかだ。こいつはあれを覚えていないのだろうか。


「ちどりが呼んでる」と、なおも"ちどり"は言う。


「ちどりが求めてる。罰を……」


「死んだ人間の名のもとに他人を裁こうっていうのは、なかなかに傲慢だな。おまえが死んだわけじゃないだろう。自分が受けたわけでもない被害について他人を告発しようっていうのは、かなり変な話じゃないか」


「それでも」と言葉が続く。


「そうしないと、許されない……」


「許しなんて、ねえよ」


 そう言ったかと思うと、呆れたように溜め息をついて、菊池は壇上へと駆け上がった。そして"ちどり"の、小さな肩に、その手のひらであっさりと触れる。


 すると、彼女の体は静かに傾いた。他の怜たちのようにからだが消えることはなかった。


 そこには、少女のからだが転がっていた。もう物を言うこともない。動くこともない。


 俺は、あっけにとられたまま、崩れ落ちる彼女の姿を見ていた。

 





 

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