07-01 信じる者の幸福





 

「とりあえずドリンクバーふたつ」、と言ったら、ウェイトレスさんが「セットだとお安くなりますけど」と教えてくれたけれど、食事をとる気にはなれなかった。目の前にいる女の子も、どうやらなにも食べるつもりはないみたい。「ドリンクバーはご自由にご利用ください。ごゆっくりどうぞ」とウェイトレスさんは去っていった。


 高校の校門を出たときに「瀬尾青葉さんだよね」と声をかけられたのは、もう三日くらい前のこと。どうして名前を知ってるのかとか、そういうことは教えてくれなかったけど、「三枝隼の知り合いなんだけど」、と言われたおかげで、あんまり疑問には思わなかった。


 そうして連絡先を交換したのがその日。それで今晩、ファミレスに呼び出されて、いま、ここにいる。泉澤怜と名乗ったその女の子は、自分のことを「ぼく」と呼ぶ、ボーイッシュというよりは中性的なイメージに近い、瞳の大きな子だった。


「知り合いっていっても、隼とはもうしばらく会ってないんだけどね」と言ったとおり、彼女は今は副部長とあんまり会っていない、昔の知り合いらしい。「小学生のころの話だよ」と教えてくれたけど、わたしには小学生のころの記憶なんてほとんどないから(皆無、とすら言える)、わたしにはない種類の記憶を副部長がもっているのは少し不思議な気がした。


「急に呼び出してごめんね」


「ううん。それはぜんぜん」


 と言いながら、わたしは、どうしてなんだろう、とても落ち着かない気分だった。とても、というか、「とても」じゃ足りないくらい。だってそう。副部長の過去なんて、そりゃあわたしは知らないけど、副部長は大野くんとかわたし以外には学校にほとんど友達がいない(はず!)だし、たぶんそんなふうに今まで生きてきたんだろうから、彼に昔からの強いつながりなんてものがあったなんて想像すらしていなかった。


 だから、「小学校からの友達で……」なんて言われて、わたしの知らない副部長のことを知っていて、「隼」、なんて呼び捨てにするような関係の、こんなにかわいい女の子がいる、というのは、ものすごく、なんというか、落ち着かなかった。


 だいいち、その副部長自身が、ちせちゃんが帰ってきたあの夜から明らかに様子がおかしいし、わたしにも、ちせちゃんにもましろ先輩にも、なんにも教えてくれない。学校には来るし部室にも顔を出してくれるけど、なにか思い詰めた様子で何も教えてくれない、そんな日が続いて、ううん、でも聞かないってきめたし、とやせ我慢(ほんとは気になる!)してたところに、副部長を「隼」と、何の気兼ねもなく呼ぶような相手が目の前に現れて、しかも「隼について聞きたい」なんて!


「ドリンクバー」


「え?」


「持ってこようか。何を飲む?」


「あ、いいよ。わたしとってくる」


「いいよ」と言って、怜さんは立ち上がった。


「じゃあ、オレンジジュース」


 わたしはその背中を見送りながら、その白い肌とか、ショートカットの髪の薄い色素とか、細い首筋とかをぐぬぬと見つめる。こういうのか。こういうのが好みなのか。……いや、最近は会ってないんだったっけか。


 ふう、と溜め息をついた。まあ、考えたってしかたないや。それに、正直、このタイミングで副部長について話が訊きたい、という話が飛んでくるのは、絶妙すぎてわたしとしても放っておけない。


 ちせちゃんも、何も言わないけどかなり心配してるみたい。当たり前と言えば当たり前で、少し話を聞いただけでも、かなり怖い思いをしたっていうのはわかる。どこか変な場所に取り残されて、かなり長い間さまよったとか。あの、副部長とふたりで入り込んだ、「桜の下」みたいな場所だったとしたら、それは怖かっただろう。そこに副部長があらわれて……で、それはいいんだけど(それだって意味がわかんないけど!)。でも、この状況はもっと意味がわからない。


 グラスをふたつもって、怜さんは帰ってきた。わたしはお礼を言いながらグラスを受け取って、紙ナプキンをひとつとって畳み、その上にグラスを置いた。


「それで、副部長のことって」


「副部長って呼んでるんだね」


 わたしはむっとした。


「いけませんか」


「ううん、ちょっとよそよそしいなと思って」


 よそよそしい。わたしはまたむっとなった。


「気を悪くしないで、こういう言い方が癖なんだ」


 わかってるなら直せ! ……とまでは思わないけど、やっぱりわたしはむっとしたままで、「こんなにむっとしてる自分は珍しいなあ」と思って、ちょっと落ち込んだ。やきもちやいてるんだ、わたし。こんなときに。副部長を心配してる人に。副部長のことを心配するのも忘れて。


「……えと、それで、副部長の話だったよね」


 わたしは話を戻した。怜さんは「うん」と頷いて、自分の分のコーヒーに口をつけた。


「そもそも、訊いていい?」


「うん」


「なんでわたしのこと知ってるの?」


「ちょっと前から隼のことを調べててね」


 言うんだ、それ。言っちゃっていいんだ。


「なんで?」


「気になることがあってね」


「……それって、ちせちゃんに関係あること?」


「……ちせちゃん?」


 ちせちゃんのことは知らないのか。なんなのだろう。

 ……。


「えっと。怜さんは、副部長のなにを聞きたいの?」


「そう、だね。学校での隼の様子とか……?」


「……」


 なんだろ、なんかおかしいな、と思ったんだけど、それがなんなのかよくわからなくて、わたしは少し考えた。でも、もしかしたらそれが自分の嫉妬のせいなのかもしれなくて、困ってしまう。あら探ししてるのかな、悪い人でいてほしいのかな。


 わたしはスマホを取り出して、メッセージを送った。それからテーブルに一度スマホを置いた。


「副部長、このところ様子がおかしいね」


「……うん。そうみたいだ」


「……」


 やっぱりおかしいね。


「会ってないんだよね?」


「このあいだ、一度会ったよ」


「一回だけだよね? おかしいかどうか、わかるの?」


「隼の様子くらいなら、見ればわかるよ」


 もやっとする。それが自分のせいなのか、相手のせいなのか、わからない。


「なにを根拠に?」


 と、問いかけた自分に驚いた。

 こんなにつめたい声が自分から出るんだ。


「根拠って言われると困るけど」と彼女は眉をよせ、


「そうだね。……ぼくが根拠だ」


 なるほどね。


 わたしには言えない。わたしは副部長をそんなに知らないから。彼が何を考えてるのか、何を感じているのか、わたしにはわからない。


 急にすわりが悪くなった。


「……ごめんなさい、お手洗い」


「いってらっしゃい」


 なんだろ。なんだろう、これ。なんなんだろう。落ち着かない。


 トイレの鏡を前にして、わたしは自分の顔を見た。自分の顔なのに、他人の顔みたい。わたしは手を洗う。手を洗う。手を洗う……。


 副部長のこと、怜さんは見ればわかるんだ。わたしだってわかる。でも、それはぜんぜん確信なんかじゃない。こう思ってる「気がする」とか、「そう見える」とか、そんな感じ。副部長がなにを考えてるかだってぜんぜんわからない。わかったと思ったときもあった。大丈夫なんじゃないか、見えてる景色は見えてるままなんじゃないか、わたしが見えているままの景色が、そのまま世界なんじゃないかって。でも、副部長はあのクリスマスイブの日、遅れてやってきた。わたしにはそんなのぜんぜんわからなかった。


 わたしより怜さんのほうが副部長のことわかってるのかな、と考えかけて、当たり前だ、と自分に言い聞かせた。わたしはべつに、誰よりも副部長を知っているわけじゃない。当たり前だ。


 わたしは、瀬尾青葉は、副部長にとってなんでもない。なんにも、副部長は教えてくれない……ちがう。


 ちがうよ。


 鏡のなかの自分をみつめる。


 ちがうよね。


 彼は教えてくれた。自殺してしまった女の子のこと、彼にだけ聞こえる声のこと、自責の念を感じることで、許されようとしているだけかもしれない、と、自嘲気味に笑っていたこと。


 罰を待っているの、と聞いたら、なんで? と笑った。

 自分を責めてるの、と聞いたら、責めた気になって、納得したいだけかも、と苦しそうに言った。

 どうしたい、と聞いたら、黙ってしまった。


 彼は教えてくれないんじゃないのかもしれない。

 彼は、自分でわからなかったんじゃないのか。


 罰を待っているのか、

 自分を責めているのか、

 どうしたいかさえ。


 だから、副部長は、教えてくれなかったんじゃない。

 教えられる分は、ちゃんと教えてくれてたんだ。

 わたしには、そう思える。


 だから違う。「なにも教えてくれない」とか、「わたしは彼のことを何もわかってない」とか思うのは、せいいっぱい話せるぶんを話そうとしてくれた彼に申し訳ない。


 変な嫉妬なんかに飲まれてる場合じゃない。


 何を根拠に? と、今度は自分に問う。

 

「わたしにはそう見える」は、「そうだ」ということじゃない。空は青いかもしれないし、本当は赤いかもしれない。


 それは、どう違うんだろう。でもちがう。わたしには副部長のことなんて、なんにもわかんない。


 でも、だから知りたい。


 確信なんかにならない、根拠なんて、いくつならべても不確かで、どこまでいっても確かにならない。「副部長がそういう顔をしていた」? そういうふうに見えただけかもしれない、「こういうことを言っていた」? そんなの、ほんとかわからない。うそかもしれない。根拠は? 証拠は? 問われても、何にも出てこない。


 でも。そう思う。そう見える。そう、受け取っている自分がいる。

 だから、なのかもしれない。


 証拠がないものは、根拠がないものは、いくらでも疑いうる。

 疑いようもないものを、人は、「信じる」とは言わない。

 疑うことが可能のものに対してだけ、人は、「信じる」と言う。

 

 だから、信じよう。

 副部長は、彼なりに、わたしに向き合おうとしていたことを。

 わたしの問いかけに、せいいっぱい向き合おうとしてくれたのだと。

 ほんとうはずっと疑っていた。

 

 クリスマスイブの日、彼は、わたしに会うつもりがなかったんじゃないかって。あの日わたしはふられたんじゃないかって。

 幻聴なんて嘘で、あの日副部長は、わたしに会うつもりなんてなかったのかもしれない、うそだったのかもしれない。そう思うことだって、ほんとうはできたし、わたしは少し疑ってもいたのだ。


 根拠なんていくらでも疑える。だから、並べ立てて証立てることなんて、いくら繰り返しても果てがない。終わりがない。  


 疑いうる。確信にならない。だから、裏切られるかもしれない。

 でも、もういい。そんなの。


 信じたいんだ、わたしが。 


 よし、と覚悟をきめて、わたしは席に戻る。副部長の様子がおかしいのはたしかで、怜さんはそれについて何かを知っているかもしれない。

 

 そして席についたとき、怜さんがわたしを見て、その肩越しに誰かを見た。

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