06-07 カリギュラ/告発者の手紙
◇
「どこから話せばいいのかな。……でも結局、話すことに意味なんてないんだ」
怜は、相変わらずのささやくような小さな声で、そう言った。俺は返事をするべきなのかどうか迷った。
「なにかを話すっていうのは、けっきょく、信じている物語を話すってことに過ぎないのかもしれない。……この話は、でも、今はいいね」
「一応訊くけど……話は、まずここから出てからってわけにはいかないのか」
「とりあえず、今のところ、時間はまだある。裁判の準備をしているんだ。それに、わたしたちがここから出るには、ちょっと面倒なことになってるんだ。だから、一度ここで話せることを話そう。瀬尾さんは、まだ大丈夫なはずだから」
「分かった」
怜は困った顔で笑った。
「隼は変わらないね。……でも、助かる。とにかく話そう。市川さんは、ちょっと黙って聞いててもらえると助かるな。まずは、わたしが……あの日、わたしとちどりが、森に迷い込んでからのこと」
◆
夜の、涸れた噴水のむこうがわに、彼女たちはたどり着いた。「むこうがわ」。つまり、こちらがわ、ここのことだ。異境、仙境、異世界、なんでもいい。呼び方なんてたいした意味がない。「現実」とは違うルールで動く、別の世界。
もっとも、ふたりが最初に入ったとき、入口は涸れた噴水ではなく、「近くにあった小屋のなかの、鏡の破片」だったという。それがどんな意味をもつのか、俺にはわからない。
「そうだね、ここはボルヘスの言葉を借りて、『鏡の世界』と呼ぶことにしよう」
「……『幻獣辞典』か」
うん、と怜は頷いた。
鏡の世界の森のなかに、幼い頃の怜とちどりは二人で迷い込んだ。
「現実と鏡の世界は、『入口』を通って行き来できる。もっとも、隼と市川さんもおんなじようにしてここに来ただろうから、それは知ってるかもね」
厳密には、俺は知っているが、市川は知らない。市川はただ夢を見続けているだけなのだ。
「困ったことに、『入口』からこっちに来たとき、背後を振り返るともう、そこは元来た道じゃなくなってるんだ。だから、来た道を戻ろうとしたって『出口』にはたどり着けない。もちろん、そのときのわたしたちにはそれがわからなかった。それで、森の中を延々とさまようことになった」
暗い、夜の森だった、と怜は言った。
「子供ふたりで歩くにはあまりに暗い森だった。進めば進むほど木は枯れて、闇は深くなるのに星は少なくなっていった。そのうち、ちどりとわたしははぐれた。ちどりが転んで、足をくじいた。それで焦ったわたしは、ちどりから一度離れて周囲の様子を見に行った。戻ったときには……戻れたのかな、よくわからない。ちどりはいなかった。それからずっと、二週間後、なにかの拍子で帰れるまで、ずっとわたしは森のなかをさまよっていた。帰ったら大騒ぎになっていて、けっきょくあのあと、隼とまともに話す時間もないまま、わたしは引っ越しすることになったね」
「ああ」
「わたしは……それからずっと、あの森にもう一度むかう手段を探してた。ずっと。あの公園には、何度も足を運んだ。両親に行き先を黙って出かけたせいで、何度も不審がられたけど……ちどりを見つけないといけないと思った。それはどう考えたって、わたしの責任だから」
俺が当たり前に生きていた時間。
そのあいだずっと、怜はちどりを探し続けていた。
「何度かあの公園に足を運んでいるときに、ひとりの女の子に会った。少し年上の、中学生くらいの女の子、なんだろうね。当時はもっと大人びて見えたけど……それで、わたしは涸れた噴水に近付いた。たぶん、奇妙に思ったんだろうね。声をかけられた」
──きみ、この先に行くつもりなの?
「不意に、そんな声をかけられて驚いた。この人は、いったい何を知っているのか。そう思った」
──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。
「わたしは、息を呑んで、けれど言い返した」
──友達が、迷子なんだ。
「彼女は困ったような顔をした。本当に困った、という顔をした。それは困ったね、と実際に口に出しもした。そして……」
──じゃあ、仕方ないから、ついていってあげる。
「その人が、案内人?」
怜は曖昧に首を振った。
「いちおうね。その人が、いろいろ教えてくれたんだ。わたしたちが暮らしている日常空間のあちらこちらに、『鏡の世界』への入口がある。扉や、橋や、木々の影、絵、鏡、階段……どこにでもある。でも、いつでも入れるわけじゃない。そして、出口はだいたい『鏡』だった。でも、どれだけ探しても、わたしにも彼女にもちどりは見つけられなかった」
「鏡……」
――「もし出られなくなりそうだったら」とましろ先輩は言った。「鏡をさがしてね」
「……とにかく、それがルール。無数にある入口から、この広い、森につながった空間に出る。もっといろんなところに、本当はいけるんだろう。まだ、ぜんぜん調べ終わってない。でも、奇妙なことがいくつも起こるのが、そのうちわかった」
「奇妙なこと?」
「まず、わたしは、『べつのわたし』に出会った。わたしとまったく同じ姿をしている、もうひとりのわたし。その子もわたしだった。でも、『わたし』じゃなかった。信じられない話だったけど、目の前にいる以上は信じざるを得なかった。普通に考えたら、人が増えたりはしない。でもとにかく、『わたし』とわたしは、話し合うことにした。つまり、こういうこと。どっちが本物のわたしなのか、ってこと」
「……」
「不便だから、まず、一人称を分けることにした。わたしが、わたしになって、彼女がぼくになった。そしてわたしたちは、記憶はほとんど一緒なのに、意見に食い違いがあることに気付いた。わたしは、ちどりを見つけなきゃいけない、という気持ちを持ってはいたけれど、それとはべつに、両親に心配をかけたり、危険なことをするようなつもりはなかった。でも、ぼくは違った。ぼくは何に換えてもちどりを見つけると言った。それが責任の取り方だと。『間違ったのだから、これ以上間違えるわけにはいかない』。そして彼女はわたしを非難した。後悔が、反省が、責任の引受が不十分だと。それでも最初は協力していたけど……そのうち、一緒にはいられなくなった。子供のころのことだよ。……『ぼく』は言った。ふたりいるのだから、片方は普通に暮らしてもいいだろうと。そして、『ぼく』がちどりを探すんだ、と。『わたし』は、当たり前に過ごせばいいと」
「それが……どうしてこうなる?」
「わたしにも、よくわからない。でも、彼女は責任を取らなきゃいけないんだと、繰り返してる。わたしもそう思う。ちどりをさがすことはわたしたちの責任だから……」
怜は一度息をとめて、また話し始めた。
「話を戻そうか。もうひとつ不思議なことがあった。わたしはそれから、現実……こう呼んでいいかはわからないけど、つまり、普段の生活空間で、普通に暮らしているとき、『ぼく』がこっちでどう過ごしているかが、わかるようになった。風景が二重になって、音が二重に聞こえた。『ぼく』はずっと森のなかでちどりを探していたから、わたしの景色の半分は、いつも真っ暗な森のなかだった。『ぼく』は不思議と、空腹もなにも感じないみたいだった。様子がおかしくなったのは最近のこと。『ぼく』は気付いたら、あの頃のちどりの姿になってた。それがどうしてなのか、わからない」
「……ま、おかしなことが起きるってことだな」
考えるだけ無駄だと思った。なにが起きたっておかしくない、というわけじゃない。でも、もう起きていることだ。
「市川さんと会ったあと、迷子のふりをした『ぼく』は、あの夜の高校を歩き回ったよ。そうだよね」
市川は、訊ねられて頷いた。
「ずっといっしょにいたよ。ときどき、変なことしてたけど」
「変なこと?」
「図書室の本にメモを挟んでた。わたしが最近読んでた本があるよって言ったら、それに」
「……『幻獣辞典』か」
――桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
「ああ、そうか……」
自分のことを『ぼく』という怜がしたかったことが理解できる今、その言葉の意味がようやくわかった。
あれは、間違いなく俺宛の手紙だった。
「わたしも、『ぼく』がそうするのを見ていた。『ぼく』にとってその学校はよく知らない場所だったけど、市川さんのおかげで、それが隼の高校だったとわかった。それで隼にメッセージを送ることにしたんだ。こっちに来て、ちどりを探して、って。でも、それは暗号のかたちで書かれた。とても遠回しなかたちで送られた。わたしは、隼を巻き込むのをいやがったけど、『ぼく』は隼にもちどりを探してほしかった。ちどりがそれを望んでいるはずだからって」
「……どうして、暗号だったんだろう」
「たぶん、隼に気付いてほしかった……んだろうね。正直にいうと、わたしも……ほんとうは、隼に、一緒にちどりを探してもらいたかった」
ようやくわかった。
桜の樹の下には、というあの言葉は、単なる暗号や、場所を示すだけのものではなかった。
あれは告発文でもあったのだ。
桜の樹の下に、おまえが当たり前に過ごしている日常の下に、体よく幸せになろうとしたお前の足元に、屍体が……ちどりの不在が埋まっている。
だからそれは何度も送られた。気付くまで繰り返された。
そしてその暗号で向かった先で、俺はちどりの顔をした怜と出会った。
そのとき、怜は見たのだろう。『ぼく』の視界を半分眺める『わたし』の怜も見たのだろう。
鴻ノ巣ちどりとよく似た少女、瀬尾青葉と、俺が手を繋いでいるところを。
だからだったのだ。その日の翌週、怜が連絡をよこした。怜は俺と瀬尾青葉が行動をともにしているのを知っていた。あの『夜の校舎』で、ちどりの姿をした『ぼく』がその目で見たものを。
そして、あのとき怜が激昂して取り乱したのとまったく同じように、市川と一緒にいた『ぼく』の怜も、腹を立てていたのだろう。最初に会ったとき、あの、ちどりの姿をした怜は、俺を見て眉を寄せたように見えた。
「わたしは……瀬尾さんが、ちどりなんじゃないかと、やっぱり思ってる。隼は、『時間がずれてる』って言ったけど、わたしたちみたいにもし増えていたら、説明がつく。そうだったとしても、もうひとりのちどりが森のなかにいるのはたしかなことだと思うんだけど」
「……なるほどな」
ことの真偽は、もうわからない。
それとは別に、今となって、あの『幻獣辞典』に挟まれていたメモの、あの図柄の意味がもうひとつ見出された。双葉、蝶、天秤、斧……全部違ったのかもしれない。あれは、噴水だったのではないか。……もうちょっとわかりやすく書けよ。
けれど……まだ少し、話がおかしい。
「……いまも、『ぼく』の方の怜がどうしてるのか、怜にはわかるのか?」
「……ぼんやりとは。時によって、かなりわかりにくい。今はまだ、裁判の準備中だ」
「裁判って、誰を……」
……決まってるか。
「俺だな……」
牢屋に閉じ込められるのは罪人だ。
「『ぼく』がどうやったかはわからないけど、『ぼく』には無数の『ぼく』たちが付き従ってる。わたしとぼくが分かれたみたいに、ぼくが何人にもわかれたのかもしれない。はっきりいって、堂々と出ていこうとしたらすぐに捕まってしまう。裁かれたあとどうなるのかは、わたしにもわからない。何を裁こうとしているのかも、裁いてどうなるのかも、わたしにはもう、わからない。瀬尾さんのことだって、どうするつもりなのか、想像もつかない。でも、無数の『ぼく』のひとりを使って、瀬尾さんに近付いて、おそらく、何かをしようとている、というのはわかる」
「何かって何だよ」
「わからないから何かって言ってるんだよ。……ごめん」
「いや……」
状況は、理解できた、と思う。でも、この状況をどうすればいいのか、よくわからない。
「とにかく、現実に戻って、瀬尾さんを『ぼく』から引き離さないと、危ない。ただ、状況を考えるに、すぐに危害は加えないはずだ。『ぼく』もきっと、瀬尾さんがちどりなんじゃないかと疑ってるはずだから」
「……なる、ほど」
いささか楽観的にも聞こえるけれど、その可能性を信じるしかない。
「わたしたちは現実に戻らなきゃいけない。でも、問題がひとつある。この屋敷には、鏡がひとつしかないんだ」
つまり、その鏡を介して、外に出るしかない。
「……なるほどな。他の何かを鏡に見立てるってことは?」
「この屋敷に限っては、できない。この屋敷は、鏡の世界のなかでもちょっと特別な場所みたいなんだ。……たぶん、何かの意味はあるんだろうけど、わたしたちにはわからない」
「……わかった、とりあえず、わかった」
俺は、眠そうな様子の市川に一度目をやった。彼女はこちらに気付くと、「話、終わった?」と言いたげな目で首をかしげる。
「俺たちはこれからどうすればいい?」
怜は小さく頷いて、「鏡のある場所が問題なんだ」と言った。
「どこだよ?」
「大広間だ。……『ぼく』は、いま、そこから動こうとしない。そこが裁判の舞台なんだろう」
「……つまり、のこのこと出ていかないと、どっちにしたってここからは出られないってことか」
「鏡には、触らないと出られない。でも、取り押さえられたままではそこにたどり着けない」
三人そろって、大広間に行き、鏡に触れる。これが唯一の、外に出る手段。
「……やることはわかったね?」
「そうするしかないんだろ」
「……うん。ごめんね」
「おまえのせいじゃないよ」と俺は言った。
でも、だったら、誰のせいなんだろう。そう考えかけたけれど、思考をそれ以上弄ぶのはやめておいた。
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