06-06 カリギュラ/私服の罪人
鉄柵のむこうの壁に燭台があり、その蝋燭の火でかろうじて苔むした石の並びの通路が見えたが、それもあくまでかろうじて、であって、その通路のむこうがどこにつながっているのか、ここがどこなのかもよくわからなかった。それでも黴臭く湿気が粘着くような饐えた空気のこの場所が牢屋であることは疑いようもなく思える。体を起こすと節々が痛み、熱を持っていた頬に触れると指先に血がついて、それで自分が擦り傷を負っていることに気付いた。どころか、口の中に痛みを感じて手のひらに唾を吐くと、そこにも血が混ざっている。口元を拭ってから、俺は立ち上がった。
閉じ込められたようだった。あからさまに牢屋だ。誰の仕業か、なんて考えるまでもない。意識をうしなう直前まで怜と交わしていた言葉を思い出して、俺は顔をしかめた。それでも溺れているわけにはいかない。
何が起きてるんだろう、と俺は考えた。何が起きているんだろうな。バカバカしいことばかりだった。俺の父親がどうで、俺が誰で……それで、ちどりがいなくなったことにも、あの子が死んだことにも、俺は責任があって、罪があって、そして、怜は泣き出しそうな顔で俺を責めた。幸せになんてなっちゃいけないんだと言った。そんなことにも俺は気付けなかった。それでいま、こんなところにいる。
夢は見るものに何かを求めている。俺は雅さんのあの言葉をまた思い出した。罪の重さを考えてもみろ、と言ったあの声のことを思い出した。あれが俺のなかの、俺から出た声なのだと市川鈴音は言った。その市川はどこにいったんだろう。
もう何もかもがボロボロだった。いつからだろう、どこで間違えたんだろう? ……考えるまでもない。最初から間違っていた。そして間違い続けている。いったいどれくらい誰かの痛みに気付けずに見過ごしてきたんだろう。
どのくらい時間が経ったのだろうか。この森の外ではどんなふうに時間が流れているんだろう? ましろ先輩は、ちせは、俺がいなくなったことに気付いたら、どう行動するのだろう。
そして、瀬尾は。
たすけて、と一言送られたメッセージ。
無事なのか。何があったのか。
俺は、また間違ったのか。俺は怜の呼び出しを無視して、もっとまともに瀬尾を探せばよかったのだろうか。
……違う。たぶん、こっちで正解なはずだ。怜の言動のおかげで、それがわかった。
いくつか、頭のなかを整理する。事柄が混乱して、状況がつかめなくなっている。だから整理しなきゃいけない。当たり前のことだ。
俺に罪がある?
俺に責任がある?
原因が、俺で、これが結果で、これが報いで、これが応えで……。俺たちは幸せになっちゃいけない。なるほど、わかった。わかっている。わかっていた。
だからだったのだと知っていた。自分で分かってた。
あの日、あのクリスマス・イブの日、瀬尾青葉と、映画を観に行くはずだった日。あの日、俺は言うはずだった。瀬尾青葉に伝えるはずだった。
――三枝くんを咎める誰かの声は、三枝くん自身が三枝くんを咎める声なの。
知っていた。
「馬鹿馬鹿しいよ」「罪の重さを、考えてもみろ」
考えてもみろ。
犯した罪を考えてもみろ。
おまえがたわいもない理由で嘘をついたその日、おまえの幼馴染ふたりが失踪した。ひとりはそのまま見つからず、ひとりは傷ついたままここまで来た。おまえはその傷すら見過ごしてきた。
おまえがくだらない周りの噂に流され、周りからの評価を気にして見ないふりをした、傷ついたひとりの少女は、自ら死んでしまった。
なのに、どうして、おまえに可能なんだ。
傷つけてきたことを、見過ごしてきたことを、疎かにしてきたことを、すべて忘れて、誰かを好いて、誰かに好かれようなどと。
幸せになりたい、などと。
「……罪の重さを、考えてもみろ」
と、俺は切れた口の痛みを堪えて、今度は自分の声で呟いた。
体を囲む牢屋の壁にもたれて俺は座り込んだ。ひどい耳鳴りがした。ここからどこにいけるだろう、なにができるだろう。幸せになんて、なれやしない。当たり前だ。俺自身でもわかっている。怜が許さなくたって、俺だってそう思っていた。たくさんのことを見逃して、たくさんの愚かさに見ないふりをして、ここまで生きてきた。それだけだ。何ができる。もう俺には根拠だってない。
仮にここを出たってどうする? 素知らぬ顔して、家に帰るのか。市川鈴音のことも、瀬尾青葉のことも見ないふりをして、そしてあの家で、あの、俺の家ではないはずだった家で過ごすのか。当たり前の顔をして、母と、父と、純佳と暮らすのか。何を根拠に。どんな正当性があって。
ひとつ溜め息をつくと吐いた息が白かった。そこで自分が寒がっていることに気付く。奇妙な感じだった。もう、夏も近いはずなのに、寒い、寒い、寒い。
根拠が、
根拠がない。
三枝隼、という、父に与えられた名。父の妻としての、母。そして妹。
その、三枝隼としての、いくつもの嘘と、いくつもの罪。迂闊さ、卑劣さ、この、この生き物の、愚かさ。
自分自身でさえも、幸せになっていいとは思えない。幸せになっていい根拠がない。
あの家で、当たり前に何かを受け取っていい根拠がない。誰かにやさしくされるだけの根拠がない。
ましてや、瀬尾青葉の隣にいてもいいと思えるだけの、根拠がない。
瞼を閉じて、手のひらでその瞼を抑えた。まとわりつくような匂いと湿気のなかで膝を抱えて沈黙する以外に、何ができるだろう。
「……怜!」
顔をあげて立ち上がり、俺は牢屋の鉄柵を両手で掴んで揺らした。
「怜!」
返事はない。何を揺すっても、何を怒鳴っても、何をしても蝋燭の火がちろちろと心もとなく揺れるだけだった。
こんなところで、こんなことをしている場合じゃない。
瀬尾がたすけてと言った。
俺はいい。罪人でいい。幸せになんてべつになれなくてもかまわない。
瀬尾は違う。瀬尾は関係ない。
「怜!」
最後にもう一度怒鳴ったけれど、やはりどこからも応答はない。俺は鉄柵に向かって何度か体をぶつけてみたが、こちらが痛いだけでびくともしなかった。激しい音がしたけれど、それだけだ。
「くそ……」
悪態をついて数秒、すぐ近くから、声が聞こえた。
「三枝くん……?」
聞き覚えのある声……。
「市川?」
「なんで三枝くんがここにいるの?」
「こっちの台詞……だな」
喋るたびに、口の中が痛んだ。
「三枝くんも、牢屋の中みたいだね」
「……てことは、そっちもか」
「うん。つかまっちゃった」
「……俺はわかるけど、なんで市川まで」
「湖のそばで三枝くんを見送ったあと、誰かに囲まれて、無理やりここに連れてこられたんだよね」
「……悪いな」
「なんで三枝くんが謝るの?」
市川はいま、どんな顔をしているんだろう。少なくとも、笑ってはいないのだろう。
「なんでこんなことになってるんだろう?」
「なんで、なんでか……」
「うん……」
わからない。
どうしてなんだろう。
「ね、三枝くん。わたしときみの、夢が繋がってる理由、なんだけどさ」
「……うん」
「わたしときみは、きょうだいだったんだね」
「……」
どう、答えたらいいのだろう。俺は少し考えて、
「そうみたいだな」
と言った。でも、それは、繋がっている理由になんか、ぜんぜんなっていなかった。
「ちがうな」
「うん?」
「俺とおまえの夢が繋がってる理由。たぶん、ぜんぜん違うよ」
そう思う。怜は、この森は何かがおかしいんだと言った。おかしなことが起きるんだと。だから、順番が逆だ。異境、と、怜は言っていたのだ。
「たぶん、もともとこういうおかしなものがあるんだ。それが先で……俺とおまえは、夢のなかで、そこに迷い込んでたんだ。その理由はきっと、たしかに、俺とおまえがきょうだいだってことかもしれない。でも、違うんだ。少なくとも市川は、ここに巻き込まれてるんだと思う」
「……うん、そうかも」
「素直だな」
「ううん。だって、きょうだいだからって同じ夢を見るんだったら、世界中そんなことだらけだもんね。だから、おかしなことが起きてて、つながったのはその結果なんだ。なんでなのかは、わかんないけど」
「そう思う……」
そして、それは怜にとっても同じことだ。
要するに最初から、これは夢なんかじゃなかった。
ちどりや怜が迷い込んだ、森。俺と市川の夢。ちせが迷い込んだ高校の七不思議。そして、菊池淳也や、あの小屋のなかの光景。なにがどうしてこうなっているのかはぜんぜんわからない。それでもこれは、誰かの個人的な空間なんかじゃない。質量のある空間。なんなのかは全然わからないけど、「どこか」なのだ。
そして、怜はそのなかで、「おかしなことが起きる」のを、おそらく、コントロールしている、のだろう。
ちどりの姿になり、怜の姿をした何人もの怜をつくり、あるいはそれを土塊に変え……。
それでもここは、怜が支配している空間ではない。怜ならば、菊池淳也を知っているわけもなく、俺の出生の秘密を知っているわけもない。
だとしたら、ここで起きていることは、怜にとってもけっして思い通りのことではないのではないか。
そう考えた瞬間に、足音が聞こえた。
「声をあげないで」
と、ささやくような声で、その足音は言った。
「静かにして。これ以上大きな声でしゃべれない。だからきみたちも、これ以上大きな声でしゃべらないで」
「……おまえ」
「いま、鍵を持ってきた。大丈夫、あいつらには見分けがつかない。あいつらは順番なんてどうでもいいと思ってるんだ」
「……おまえは、誰だ?」
「……ごめんね、こんなことになって」
「おまえは……」
「三枝くん、誰なの……?」
「いや……」
「隼、静かに」
そう言って彼女は、牢屋の扉に古ぼけた鍵を差し込んで回した。きいっと鉄の軋む音がして、扉が開いた。そして彼女はすぐに隣の牢屋の前へとむかい、そちらでも同じような音がする。
「こっちに」
と言って、彼女は市川を連れて、俺の牢屋の中に入ると、周囲の様子をうかがって、静かに扉をしめた。
「……怜、なのか?」
「うん。わたし」
"わたし"、と、怜は言う。
「もう、わけがわからなくなってきたぞ」
「ごめんね、隼。こんなことになって……」
「……えっと、誰?」
「ああ、えっと……」
どう説明すればいいのかわからないまま、俺は怜の方を見た。実際、俺も状況が分かっていない。
「こんなつもりじゃなかったんだ」と怜は言った。
「……どうなってるのか、よくわかんないんだけど」
「……わたしにも、よくわかってないんだけど。でも、説明できるかぎりは、ちゃんとする。それから最初に言っておくことがある」
そう言って、怜は一拍置いた。それから冗談めかしたように微笑む。
「良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」
「おすすめから」
「じゃあ良いニュースから。瀬尾青葉さんは無事だし、ここには来ていない」
「ほんとうか?」
「うん」
安心しかかって、結局、さっき思い浮かんだ可能性があたっていたことに気付く。
「ということは、瀬尾は安全な状況じゃないってことか」
「……察しがいいね。さすが」
「瀬尾からメッセージが来てたからな」
「……ああ、そうだったね」
瀬尾が無事なのにもかかわらず、瀬尾から「たすけて」とメッセージが来た。では、そのメッセージはなんなのか? 瀬尾の悪戯でないならば、答えはシンプルだ。
「瀬尾青葉の携帯を使って」、誰かが俺にメッセージを送った。メッセージを送った誰かは、瀬尾のスマホを勝手に使える状況にある。
そして、状況を考えるに、俺に瀬尾のスマホからメッセージを送った人間はひとりしかいない。
「怜が送ったんだな?」
「うん。わたしが送った」
「で、"その怜"は、まだ瀬尾と一緒にいる」
「うん」
怜は困った顔をした。
「受け入れ早いね」
「……見たからな」
「とにかく、状況を整理しよう。そこからだよ。わたしたちは、この屋敷から出ないと」
「……屋敷?」
「うん。……わたしが見つけた、森のなかの屋敷。その話を、ちゃんと隼にもするよ」
置いてきぼりになった市川が、俺の服の裾を引っ張った。「なんのこと?」という顔つきで。俺は、そういえばこいつは俺の妹なんだったっけと場違いなことを思った。
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