06-05 カリギュラ/死者の代理人




「でも、何をそんなに急いでるのかな」


 ちどりの姿をした怜は、俺のほうを見て、ちどりの顔で怜らしく笑う。その異様さに吐き気さえしそうだった。この場で起きていること、起こりうること、それらがまともじゃないと、たしかにそうは思っていた。


「瀬尾を探してるんだ」


 怜は、今度は不愉快を隠そうともせず眉根を寄せた。


「何が気に入らない?」


「……隼は、考えたことがないの?」


「何を」


「ちどりのことを。ちどりが、いなくなった理由を」


「その話、今じゃなきゃ駄目なのか?」


「……そうだね」


 俺は彼女をじっと見つめた。ちどり。ちどりの姿。何も感じないわけがない。あの日いなくなってしまった女の子。


「怜、おまえにずっと言ってなかったことがある」


「……なに?」


「ちどりがいなくなった日、怜とちどりが二人であの公園に向かった日、俺は嘘をついた」


 今となっては、どうして覚えているのか。

 忘れられたらどれだけよかったか。


「嘘って?」


「あの日、純佳は風邪なんて引いちゃいなかった」


「……どういう意味?」


「言葉の通りだ。純佳は風邪なんて引いちゃいなかった。あの日、俺がおまえの誘いを断ったのはもっと単純な理由だ。シマノの嫉妬とおまえのプライドに付き合わされるのが面倒だった。だから行かなかった」


 ちどりの顔が、怜の顔が歪む。信じられないものを見るような顔で。


「どうして……」


「どうして、の答えも、もう言った。面倒だったんだ」


「……」


 俺は溜め息をついた。ほんとうに、嫌な気分だった。怜は気付かないのだろうか。怜は考えていないのだろうか。


「……もういいだろ。瀬尾を探させてくれ」


「瀬尾さんはいないよ」


 と怜は言った。それも、懐かしいちどりの声音だったのに……それがちっともちどりの声に聞こえなくて、俺は無性に悲しくなった。

 けれど、そんなふうに感傷に浸っていられるのもそれまでだった。


 不意に、背後から俺の両腕が何者かに掴みあげられた。ちどりの姿をした怜は、ひどく億劫そうに体を揺らすと瞼を閉じて額を手のひらで抑える。まるでなにもかもうまくいかない、なにもかもうまくいきやしないと、そう言いたげな顔だった。


 驚いて俺は腕をつかむ何者かを振り払おうとするが、その力は思いのほか強く振り払えない。首をめぐらせて肩越しに振り返ると、右腕を掴んでいるのは「怜」の姿の怜だった。怜の瞳は深い黒色にそまって俺の目をじっと見る。反対側に首をめぐらせると、そちらにいるのも「怜」だった。「怜」、「怜」、「怜」。俺は悲鳴をあげそうになる。めまいがしそうだった。俺はそのふたりの怜のむこうにさらに別の怜がいることに気付く。彼女は森の木々の陰から飛び出してくると俺の背中にぶつかってくる。抵抗しているうちにもう一人がぶつかってきて、俺はあっさりと前のめりに突き倒され、その上から四人の怜が覆いかぶさり俺の体の動きを封じようとした。どの怜も無言のまま俺を拘束しようとしてくる。必死になって身じろぎをするが、頭を地面に叩きつけるように押さえつけられ、土が目に入り視界も滲む。腕が強引に背中に回され、関節が嫌な音を立てた。


 俺はもはや抵抗のしようもないことを悟り、前方に立つつめたい顔のちどりを睨んだ。


「何のつもりだ?」


 と、そう漏らすのが精一杯で、押さえつけられたままでは首から呼吸を吐き出すのもむずかしかった。


「隼はわかってないんだよ」


 と彼女は繰り返した。


「ぼくらには罪がある。ちどりがいなくなってしまったことについて、ぼくらには責任がある。もちろん、隼だけのせいなんて言うつもりは最初からない。ぼくのほうが責任は大きいかもしれない。でも、その罪を、責任を、ぼくたちは何らかの形で贖わなくちゃいけない、償わなきゃいけない……。そうだろ?」


「……怜」


「じゃないとちどりが眠れない。ちどりが言ってる。ちどりが隼を呼んでる。ぼくには聞こえるんだ。ちどりは、まだ待ってる。この森のどこかで隼を待ってる、ぼくを責めてる……」


 ちどりの顔のまま、怜は言う。……俺は、また間違えていたのだろうか。ちどりがいなくなってから、こいつが何を考えて生きていたか、俺はいままで、何も考えていなかった。


「隼、だから、ぼくたちにはできないんだ。ちどりを差し置いて、普通になんて、幸せになんて、なっちゃいけないんだよ。ねえ、隼、そうだろ? ぼくたちは、ちどりを見つけないと」


 そう言いながら、怜は、ちどりは、一歩一歩こちらに近付いてくる。夜の森の枝葉を背景に、幼いちどりを見上げるしかない。彼女のその瞳の悲しいつめたさを、不思議な青白さを、俺は見る。


 かろうじて、


「……見えてるぞ、下着」


 と、軽口を叩いた瞬間、ちどりの小さな靴の裏が俺の視界を勢いよく覆った。痛みと衝撃で、俺の意識は一瞬で暗転した。



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