06-04 カリギュラ/因果のない森





「初めてここに来たのは、六年前の五月のことで、そのときは、ちどりがぼくと一緒にいた」


 次の瞬間には、俺たちは、明るい森のなかの開けた場所にいた。


 太陽は中天に浮かび、燦々と日差しを撒き散らしている。吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、影は川の流れのように姿を変える。

 その隙間にさしこむ木漏れ日は涸れた噴水に溜まった雨水をちらちらと照らす。


 木々を背景に、迷路の入り口のように、滝の飛沫のように藤の花が揺れている。

 周囲には人の気配もなく、動くものといったら、風と日差しと影と雲くらいだ。


 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。

 木々を背景に、迷路の入り口のように、滝の飛沫のように藤の花が揺れている。


 怜は、驚いた素振りも見せずに、ただ一歩一歩、前に進んでいく。


「六年前の五月……。あの日、ぼくとちどりは、あの公園からこの森に来たんだ」


 彼女は藤棚のアーチへと向かっていく。俺は何も言わずにそれを追いかける。


「ぼくは、どうにか出口を見つけることができた。でも、ちどりとはぐれてしまって……結局、彼女はそのまま見つかっていない」


 頷きを返すことすら億劫だった。俺はただ、怜の言葉に耳を傾けながら、花の強い匂いに圧倒されながら先へと進む。


「ぼくは、それから何度も、この森を訪れた。帰ってきてからも、何度も。この森は、現実ではない、異境のような場所だとわかった。時間は明らかに現実のそれとは違うし、何かおかしなことが起きていることがはっきりとわかった。そんななかでぼくはちどりを探し続けた。六年間、ずっと。でも、森の中のどこを探しても、ちどりは見つからなかった。でも、あるとき、人に会ったんだ」


「……人?」


 俺が声をあげると、怜は少し嬉しそうに微笑した。さっきから反応がなかったのを、少し気にしていたのかもしれない。


「うん。その人が、この森の案内人になってくれた。それでぼくは、この森についていくつかのことを知ることができたんだ」


「誰だよ、それ」


 怜は答えなかった。それどころか、そこで話すのをやめてしまう。

 アーチはまだ続いている。現実感は、やはりあるのに……光景は、夢のようだった。


「言っても、信じないと思うよ」


「……いいから、言えよ」


「……」


 それでも怜は言わなかった。


 言っても信じない、ということは、俺が知っている人間だということ……俺の知り合いが、こんな森のなかで、怜と会っていた、というのだろうか。


「この森は少しおかしくてね」


 と、怜は話題を変えた。


「おかしなことがよく起きる。ほんとうに。時間が狂ってるとか、空間が狂ってるとか、そういうことだけじゃない。それは隼だってわかってると思う。とにかくこの森のなかでは、理由と結果があべこべなんだ。『だから』とか、『なぜなら』とか、そういうのが通用しない。まるで誰かの見ている夢みたいに、あらゆることがないまぜになって起きるんだ。どうしてこんな場所があるかは、わからない。一番不思議なのは、この森が、現実に影響を与えられる場所だってこと」


「影響……?」


「……隼は、もう気付いているのかもしれないね」


 俺は黙った。


「どこまで行くんだ」


「もう少し進んだ先に、分かれ道があるよ」


 やがてアーチが途切れ、背の高い生け垣が視界を覆った。それは作られた迷路のように、俺たちの行く手を遮っている。怜は迷いもせずに足を進めた。

 

 道は何度も折れ、曲がりくねり、花の匂いが意識を混濁させていく。そのなかを俺は、怜の背中だけを頼りについていく。

 やがて、その迷路を、俺たちは抜けきった。


 迷路の出口もまた、森だった。

 けれど、その先の木々は、枯れ木だった。もう、葉も、花も、ついていない。風が冷たく荒んでいる。

 その先は夜だった。


 浮かぶ月は朧、雲は薄く、巨大な鳥の尾羽みたいだった。

 

 森には、いざなうみたいに小径が伸びていた。

 枯れ木の枝が視界のほとんどを覆い尽くして、先はよく見えない。


「戻れなくなるかもしれない」と怜は言った。


 それから自嘲するように笑って、訂正した。


「いや、もう戻れないんだ……」


 木々を分け入って、森の奥へ奥へと進んでいく。やがて開けた場所につく。焼け落ちた、なにかがある。建物だろうか。それを踏みにじるようにして、怜は更に奥へと進んでいった。


 やがて、


 そこに立っていた。

 市川鈴音が連れていた、ひとりの少女。


 鴻ノ巣ちどりを名乗る少女が、そこで俺を待っていた。


「隼ちゃん、来てくれたんですね」


 そう言って、彼女は笑う。


 怜は、何も言わない。


「……瀬尾は?」


 少女には返事をせず、俺はそう訊ねた。


「……隼ちゃん」


 そのとき、ふと、見落としていたことに気付いた。


「怜、おまえ……」


「……隼、ちどりと話してあげて」


「怜」


「……なに」


「瀬尾はどこだ?」


「……どうして、ぼくに訊くんだ」


「……どうしてって言われてもな」


 どうやら、無駄足だったようだ。 

 踵を返して立ち去ろうとするが、よく考えると、俺はこの森からの出方を知らない。


「……ここも、鏡を探せばいいのか?」


「隼!」


 怜が、声を荒らげて俺を睨んだ。俺は彼女を見返す。


「話を聞いて。ちどりはずっと、ここで待ってた」


「ちどりじゃない」


 と俺は言った。


「そこにいるのはちどりじゃない。わかりきってる」


「……なんで」


「どういう理屈かは、俺も知らない。でもそいつはちどりじゃない」


「じゃあ誰なんだよ……」


 怜の声は震えていた。


「ちどりはずっと待ってた! 隼が迎えに来るのを! ようやく会えたのに、どうして隼は瀬尾さんのことばかり気にする!」


「だから」


 俺はうんざりした気持ちで言った。


「そいつはちどりじゃない。……おまえだろ、怜」


「……は?」


「おまえがさっき言ったんだろ。この森はおかしい、変なことが起きるって。『だから』も『なぜなら』も通用しないって。そう言われたから、やっとわかった」


 森のなかの少女は言った。


 ――あの日、純佳ちゃんが風邪をひいて、隼ちゃんは来られなくて。

 ――隼が、あの日、来ていたら、なにか違ったのかも。あの日、純佳ちゃんが風邪を引かなければ……


 ――瀬尾青葉さんに、わたしを重ねて過ごしたんですよね?

 ――隼は、ちどりと似ていると思ったから、瀬尾さんと一緒にいるんじゃないの?


「おまえが言った言葉と、森のなかでこの子と話したときの言葉は、ほとんど一緒だった。それに、ちどりと怜と俺しか知らないことを知っていた。ちどりじゃないなら、この子はおまえだ」


「……この子は、ちどりだよ」


「違う」


『だから』も『なぜなら』も、ここにはない。

 だから、『泉澤怜が目の前にいるの"だから"、この子は泉澤怜ではない』とは言えない。


「それに、さっきおまえが言ったんだろ」


 ――ぼくはちどりを探し続けた。六年間、ずっと。でも、森の中のどこを探しても、ちどりは見つからなかった。


「"ちどりは見つからなかった"。じゃあ、この子はちどりじゃない」


「……」


 怜は、何も言わずにうつむいている。

 ここにいるのは二人の人間だ。

 三人じゃない。


「なんでおまえがこんな悪趣味なことをしてるのかは知らない。でも、いい加減終わらせてくれ。何か言いたいことがあるなら、この場で聞いてやってもいい。……いま、俺はそれどころじゃないんだ」


 怜のからだは、不意に、俯いたまま、静かに傾いた。

 やがて地面に倒れ込み、彼女の体は砂のようにさらさらと崩れていく。


 俺は振り返って、少女の方を見た。


「……やっぱり、探偵はぼくじゃなくて、隼が適役だったみたいだね」


 鴻ノ巣ちどりの顔をして、泉澤怜はにっこりと笑った。

 

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