06-03 カリギュラ/応報のはじめ




 身支度を整えて家を出た。夢だとしても、現実だとしても同じことだ。


 出かけるというと、純佳はあからさまに不服そうな顔つきになったが、結局諦めたような顔つきで見送ってくれた。コーヒーを飲んだからというわけではないだろうが、頭はいやに冴えていた。


 玄関を出て地面をつま先で蹴り、靴のかかとを整えたあと、俺はもう一度スマホを取り出して届いたメッセージを見直した。「ちどりが怒ってる」「ちどりが待ってる」。「たすけて」。


 俺の足は一瞬、高校のほうへと向かいかけた。それから一旦深呼吸をして、スマホを操作する。

 

 怜は三コール目で出た。


「やあ」


 と彼女は言う。


「どこにいるんだ」


「決まってるだろう」


 と怜は言った。


「きみが来なかった公園だよ」




 六年前の五月、俺たちがまだ小学生だった頃、怜は、同じ小学校に通うひとりの生徒に頼まれごとをした。


 洞察力と行動力を兼ね揃えた、うちの学校の「探偵」だった怜にとって、頼まれごとをするのは珍しいことじゃない。そのときは、シマノという男子に、公園で落とした腕時計を探してほしいと頼まれたのだった。その腕時計は父親のもので、シマノはそれを落としてしまったのだと言った。


 丘の上の公園には、怪談があった。


 シマノは、その怪談を理由に、その公園に近付きたくないのだと言って、怜に頼んだ。


 けれど、それは逆だったのだろう。


 シマノは怜を嫌っていた。目立っていたからなのか、なんなのか。


 怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。

 合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。


 それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。

 そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。


 あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。


 怜は昔から独特のプライドのある奴だった。

 シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。


 とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。


 シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。

 怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。


 両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。


 怪談は、こんなものだった。


 

 黄昏時の公園に、

 人の気配が消えたあと、

 涸れた噴水に水が湧き、

 水面に木立の梢が浮かぶと、

 水面の月が静かに揺らぎ、

 ひときわ強い風が吹き抜け、

 鏡を覗く誰かをさらう。



 そのとき、俺もまた、怜と、ちどりと一緒に、そこに向かうはずだった。


 けれど、俺はそのとき、純佳が風邪を引いたといって、同行を拒んだのだった。


 その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。

 ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。

 俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた


 そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。

 普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。


 俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。


 シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。


 わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。


 シマノの顔ははっきりと蒼白になった。

 俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。

 単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。 


 俺は、けれど、そのうち見つかるだろうと思っていた。大人たちはみんな探していて、この街はけっして広くはなくて、だいたいの行き先もわかっていて、だから、そのうち見つかるだろうと。


 実際、怜は二週間後、その公園の近くで見つかった。


 けれど、ちどりは……いつまで経っても見つからなかった。今も、見つかっていない。ちどりの両親は、いまでもちどりを探している。


 


 だから、ちどりが怒っているとしたら、ちどりが待っているとしたら、そこなのだろう。




 小学生の頃は大きく見えたその丘は、今になってしまえばたいした規模ではなかった。ただの住宅地の並び。入り組んだ並びの路地を抜けて、家々の先にその公園はある。


 街灯だけが空々しく照らす坂道のさきに星がきれいに瞬いていた。いろんなことと無関係に星は光っているのだと俺は思った。


 公園にたどり着いたとき、あのときの噂のとおり、涸れた噴水が俺を出迎えた。


 俺は、この六年間、一度もこの場所を訪れることがなかった。


 時を置けば置くほど、近付くことが怖くなった。


 そこに、怜は座っていた。涸れた噴水の縁に腰をかけ、彼女は本を読んでいた。


 噴水のむこうに街と夜空を背負い、彼女は俺をみつめた。


「やっときたね、隼」


 月が、満月であることに、俺はそのとき初めて気付いた。


「なんで、おまえもいる?」


「言ったろ。ちどりが怒ってる。……瀬尾さんも、きっと、ちどりがさらったんだ」


 ここに来る途中で一度、俺は瀬尾にも連絡をした。何の応答もなかった。ただ沈黙、沈黙、沈黙、だ。


「瀬尾のこと、どうして知ってるんだ」


「わかるんだ。ぼくには」


 ぼく、と。怜は自分をそう呼んだ。


 俺はとりあえずそれには触れないことにする。


「どうすればいい?」


「こっちだ」


 と、怜は俺を手招きした。俺は彼女に近付いて、噴水を覗き込む。


 水は涸れている、涸れている。枯れ葉が、花びらが、落ちている。


 そこに不意に、水が湧いて、音が響く。

 水は溜まっていく。この先だよ、と怜はいい、噴水のなかへと足を踏み入れる。俺は一瞬躊躇したけれど、結局彼女にならって歩を進める。


「ちどりは待ってる。もうずっと。……ずいぶん、待たせてしまったから」


「……」


 彼女は、持っていた文庫本を水から庇うようにして腕で覆う。

 

 やがて、水のベールのむこうに、俺たちのからだは飲み込まれていく。

 俺は待っていたのかもしれない。



 ――副部長は……罰を待ってるの?



 なにもかも、もうわからない。なにが起きているのか、なにが正しいのか。

 それとは無関係に、もうなにかが終わろうとしているのだと俺は思った。



 

 



 

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