06-03 カリギュラ/応報のはじめ
身支度を整えて家を出た。夢だとしても、現実だとしても同じことだ。
出かけるというと、純佳はあからさまに不服そうな顔つきになったが、結局諦めたような顔つきで見送ってくれた。コーヒーを飲んだからというわけではないだろうが、頭はいやに冴えていた。
玄関を出て地面をつま先で蹴り、靴のかかとを整えたあと、俺はもう一度スマホを取り出して届いたメッセージを見直した。「ちどりが怒ってる」「ちどりが待ってる」。「たすけて」。
俺の足は一瞬、高校のほうへと向かいかけた。それから一旦深呼吸をして、スマホを操作する。
怜は三コール目で出た。
「やあ」
と彼女は言う。
「どこにいるんだ」
「決まってるだろう」
と怜は言った。
「きみが来なかった公園だよ」
◇
六年前の五月、俺たちがまだ小学生だった頃、怜は、同じ小学校に通うひとりの生徒に頼まれごとをした。
洞察力と行動力を兼ね揃えた、うちの学校の「探偵」だった怜にとって、頼まれごとをするのは珍しいことじゃない。そのときは、シマノという男子に、公園で落とした腕時計を探してほしいと頼まれたのだった。その腕時計は父親のもので、シマノはそれを落としてしまったのだと言った。
丘の上の公園には、怪談があった。
シマノは、その怪談を理由に、その公園に近付きたくないのだと言って、怜に頼んだ。
けれど、それは逆だったのだろう。
シマノは怜を嫌っていた。目立っていたからなのか、なんなのか。
怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。
合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。
それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。
そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。
あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。
怜は昔から独特のプライドのある奴だった。
シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。
とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。
シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。
怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。
両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。
怪談は、こんなものだった。
黄昏時の公園に、
人の気配が消えたあと、
涸れた噴水に水が湧き、
水面に木立の梢が浮かぶと、
水面の月が静かに揺らぎ、
ひときわ強い風が吹き抜け、
鏡を覗く誰かをさらう。
そのとき、俺もまた、怜と、ちどりと一緒に、そこに向かうはずだった。
けれど、俺はそのとき、純佳が風邪を引いたといって、同行を拒んだのだった。
その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。
ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。
俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた
そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。
普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。
俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。
シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。
わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。
シマノの顔ははっきりと蒼白になった。
俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。
単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。
俺は、けれど、そのうち見つかるだろうと思っていた。大人たちはみんな探していて、この街はけっして広くはなくて、だいたいの行き先もわかっていて、だから、そのうち見つかるだろうと。
実際、怜は二週間後、その公園の近くで見つかった。
けれど、ちどりは……いつまで経っても見つからなかった。今も、見つかっていない。ちどりの両親は、いまでもちどりを探している。
◇
だから、ちどりが怒っているとしたら、ちどりが待っているとしたら、そこなのだろう。
◇
小学生の頃は大きく見えたその丘は、今になってしまえばたいした規模ではなかった。ただの住宅地の並び。入り組んだ並びの路地を抜けて、家々の先にその公園はある。
街灯だけが空々しく照らす坂道のさきに星がきれいに瞬いていた。いろんなことと無関係に星は光っているのだと俺は思った。
公園にたどり着いたとき、あのときの噂のとおり、涸れた噴水が俺を出迎えた。
俺は、この六年間、一度もこの場所を訪れることがなかった。
時を置けば置くほど、近付くことが怖くなった。
そこに、怜は座っていた。涸れた噴水の縁に腰をかけ、彼女は本を読んでいた。
噴水のむこうに街と夜空を背負い、彼女は俺をみつめた。
「やっときたね、隼」
月が、満月であることに、俺はそのとき初めて気付いた。
「なんで、おまえもいる?」
「言ったろ。ちどりが怒ってる。……瀬尾さんも、きっと、ちどりがさらったんだ」
ここに来る途中で一度、俺は瀬尾にも連絡をした。何の応答もなかった。ただ沈黙、沈黙、沈黙、だ。
「瀬尾のこと、どうして知ってるんだ」
「わかるんだ。ぼくには」
ぼく、と。怜は自分をそう呼んだ。
俺はとりあえずそれには触れないことにする。
「どうすればいい?」
「こっちだ」
と、怜は俺を手招きした。俺は彼女に近付いて、噴水を覗き込む。
水は涸れている、涸れている。枯れ葉が、花びらが、落ちている。
そこに不意に、水が湧いて、音が響く。
水は溜まっていく。この先だよ、と怜はいい、噴水のなかへと足を踏み入れる。俺は一瞬躊躇したけれど、結局彼女にならって歩を進める。
「ちどりは待ってる。もうずっと。……ずいぶん、待たせてしまったから」
「……」
彼女は、持っていた文庫本を水から庇うようにして腕で覆う。
やがて、水のベールのむこうに、俺たちのからだは飲み込まれていく。
俺は待っていたのかもしれない。
――副部長は……罰を待ってるの?
なにもかも、もうわからない。なにが起きているのか、なにが正しいのか。
それとは無関係に、もうなにかが終わろうとしているのだと俺は思った。
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