名前をつけるために
06-02 天蓋
◆
ふたたび意識が浮上したとき、自分が夢のなかにいるのか、それとも現実にいるのか、理解できなかった。
そこは自分の部屋――ちがう、ここは俺のための場所ではない――のベッドの上だった。奇妙な虚脱感でからだが思うように動かせず、瞼を押し開けておくのにも集中しなければならないほどだった。目だけを動かして周囲をうかがうと、すぐそばに椅子を引き寄せて純佳が座っているのがわかった。
「純佳……?」
自分の声はひどくかすれていた。喉がかわいていて、やっとの思いで吐き出した息は喉の内側を引き裂こうとするように痛む。
「起きましたか」
と、彼女は言った。けれど俺は自分が起きたのかどうかわからない。ずっとわからないままかもしれない。
「夢か……?」
ここは、夢か、という問いのつもりだった。純佳は不思議そうな顔で首をかしげる。
「夢を見たんですか?」
俺は否定しかけて、それをやめた。意味のないことだった。
「そうかもしれない」
そう、きっと夢だったのだろう。
眠っていたのだから、眠っているあいだに見たものは、すべて夢だったのだ。だからきっと俺は夢を見たのだ。
不快感だけが胃のあたりに残っていた。寝そべったまま、手の甲をまぶたにのせ、そのときに自分の額のしずかな冷たさに気付く。
純佳は俺の目をじっと見た。猫のような瞳。そういえば、純佳とこんなふうに顔を合わせるのはひさしぶりな気がする。
「どうして俺の部屋にいるんだ」
「うなされているようだったので。悪い夢を見ていたのかなと。……なにか飲み物をもってきましょうか」
「そうしてもらえると、助かるかもしれない」
「なににしますか。コーヒー、飲めますか」
「ああ、うん。……母さんと父さんは?」
「お母さんは部屋にこもってます。持ち帰ってきた仕事があるとかで。お父さんは、まだ帰ってませんね」
「そっか」
純佳は静かに立ち上がってドアから出て行った。俺はからだを起こし、耳の聞こえが少しおかしいことに気付いて頭を軽く叩いた。耳抜きを試してもよくならない。なにか景色が遠く、平衡感覚が微妙に狂っている。
純佳はそう間をおかずにマグカップをふたつ持ってきた。
「インスタントですけど」
と彼女は言い、サイドテーブルにふたつとも置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして。それで……なにかあったんですか」
「なにかって」
「兄は、怜ちゃんを覚えてますか」
「……怜?」
「はい。泉澤怜さん」
「……純佳のほうこそ、覚えてたんだな」
「もちろん。たくさん遊んでもらいましたから」
純佳の表情には含みがあった。どことなく、棘のような。気のせいだろうか。
「今日の夕方、怜ちゃんのお母さんから連絡がありました。怜ちゃんが昨日から家に帰っていないそうです」
「は?」
「兄に会いにいってくると、言っていたばかりだったと。それで、兄が何か知っているかもしれないと思ったそうです。最近、連絡をとりましたか?」
「ああ、まあ……」
とった、会った。……でも、あれは夢だったっけ。
「そのときの様子はどうでしたか」
俺はどう答えたらいいのか急にわからなくなった。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、もう判然としない。
そして、目の前にいる純佳が、妹なのか、それとも従妹なのかも、よくわからない。
妹だとして、従妹だとして、どちらだとしても純佳は純佳なのに、どうして当てはめる言葉が変わるだけで意味が変わるのだろう? 危うい感覚に溺れそうになりながら、かろうじて意識をとどめる。
「わからない。……覚えてない」
そうですか、と純佳は気にした様子もなく頷いた。
「わたし、怜ちゃんのお母さん、嫌いです。ぜんぶ兄のせいにするから」
「……心配してるんだろ」
「そうだとしてもです。兄」
と、純佳はふいに指先で俺の額に触れた。
「髪の毛、はりついてます」
「ああ、悪い……」
「いえ。やっぱり少し顔色が悪いですね。白湯のほうがよかったでしょうか」
「飲むよ。……疲れてるんだ、たぶん」
従妹であれば。
従妹であれば、
妹であれば。
妹であれば、
その混乱が頭の中で混乱した。そのふたつの立場にどのような差異があるのかを考えたときに、俺は純佳をその対象として見ることが「可能か不可能かを検討する」という形で既にその対象として見つめている。
どちらにせよ、純佳はひとりの人間であって、どのような意味づけもなされてはいないはずだった。ならば、妹であれ、従妹であれ、同じ話ではないのか。
俺は狂ったのか。
それとも、いままで狂っていたのか。
なにもかもに根拠がない。俺がここに寝そべっていることにも、俺がこの家に暮らしていることにも、目の前にいる少女が妹だということにも。目の前に広がる景色がほんとうのものなのか夢なのかすら、もうわからない。
今までわかっていたほうが、おかしかったんじゃないのか、とそう思うほどに、これらのことには一切の根拠がない。なにも保証されてはいない。
俺が純佳を妹だと思っているのは、ただ妹として認識していたからにすぎないのだろうか。だとしたら、俺が認識の仕方を変えてしまえば、純佳はちがう何かになるのだろうか。あたかも、声が音に、文字が模様になるように、そこから意味が剥ぎ取られていくのだろうか。
だとしたら、純佳が妹だというのは、事実、ではなく、認識、ということになる。それは単に俺の頭のなかで「そういうことになっている」だけのことにすぎない。
そもそも、純佳が俺の認識の産物であるならば、その存在にすら根拠がない。純佳は「俺の頭のなかで再現されているイメージ」にすぎない。あらゆることは俺の五官を通じて脳内のスクリーンで再生されている記号にすぎない。この世界は、俺の頭のなかに存在している。
俺は自分の手を純佳のほうに伸ばした。純佳の頬に触れると、彼女はぼーっとした顔のままこちらを見返している。やわらかなその感触は、けれど、俺の触覚をとおして俺の脳で再生されているものにすぎない。彼女もまた俺の頬に指をのばし、静かに指先でつねった。痛みに顔をしかめるけれど、その痛みさえ、顔をしかめたというその感覚さえ、俺のなかで起きていることにすぎない。
すべてのことは、俺の頭のなかで、それぞれの五官が組み合わさってつくられたつぎはぎの「世界らしきもの」でしかない。
頭のなかで起きていることだから、リアルな夢と、なにもかわらない。夢のような現実と現実のような夢は、けっして区別できない。
夢のなかに登場する人物が、「現実」と違い、「意識をもたない人形」のような、「魂のないゾンビ」のようなものだとしたら、この現実の他者に心があるなんて誰に言えるだろう。それは俺の頭のなかにいるのに。俺の脳は、この世界のすべてを飲み尽くしてしまう。地球を覆う天蓋のさらに外側に俺の頭蓋骨がある。
すべてが頭蓋骨の繭に後退していく、この0.5秒後の世界。
こうなる前に、この夢を終わらせなければいけなかった。現実のような夢が続けば、現実が夢のように思えてしまう。現実を夢のようにとらえてしまったら、そこに「他者」はいない。
すべてが夢になってしまえば、誰もが夢のなかの人物でしかなくなり、そこに「禁止」はなくなる。
だって、すべては俺なのだから。
これは夢なのだから。
他者なんて、この世界にはいない。すべて、俺の頭のなかで起きていることなのだから。
けれど……その根拠のなさは。
俺は純佳から手を離し、コーヒーに口をつけた。
これが夢なのか現実なのかはわからない。けれどコーヒーは苦かった。
たとえば、いま俺がここで純佳を殺してしまったとしても、これが夢ならば、さめてしまえばはじめからなかったことになる。
反対に、これが現実だとしても、俺は純佳を殺したところで、それが夢かどうかをたしかめることができない。
これが夢なのか、それとも現実なのか、どうしたって区別はつかない。
すべてが錯覚でない保証など、いったいどこにあるのか。
意味は皮膜を挟んで遠のき、俺の見ている景色は俺の脳のなかへ小さくなって後退していく。そこでは誰も何も語ろうとはせず、何も伝えようとはしない。そもそもそこに「誰か」なんていない。
外部はない。受け取れる意味は、占いのように曖昧で頼りない。
正しい文章の書き方を知りたい。
どうしたら「誰か」に何かを伝えられるのかを、知りたい。
ほんとうの、青空を見たい。
「兄」
「……ん」
「コーヒー、おいしくなかったですか?」
「いや」
「苦い顔してたから」
「……なるほど」
「疲れてますね」
どうして、なにが、ここにあって、ここにないのか。
「そういえば、スマホ鳴ってました」
「スマホ?」
「はい」
俺は枕元に置きっぱなしだったスマホを手に取った。そんな動きさえもひどく億劫だったが、メッセージが届いていることに気付いて、心臓が跳ねた。
ふたりから、連絡があった。
ひとりめは、瀬尾青葉から、
「たすけて」
と、一言。……時刻は、二十分前。
もうひとりは、泉澤怜から、
「ちどりが怒ってる」
と、十五分前。追いかけるように、もうひとつ。
「ちどりが待ってる」
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