カッコウが鳴く
06-01 Hier ist kein Warum
◆
ある兄妹がいた。当たり前に成長し、当たり前に大人になった。けれど兄は妹を女として愛してしまったことを誰に対しても秘密にしていた。彼は当たり前に恋人を作り、当たり前に結婚した。当たり前に子をなそうとした。けれどそれはそれとして、妹を女性として愛していた。
「なぜ自分は妹を愛してしまったのか?」という問いは彼の中でいくつかの理路をたどり、いくつかの迂回を遂げ、いくつかの過誤を経て、べつの問いを生み出した。「なぜ自分が妹を愛してはいけないのか?」
幼い頃から妹を女としてみつめていた兄にとって、「何故」の問いは繰り返されなければならなかった。
なぜ妹なのか。なぜ兄なのか。
「何故」の問いは彼にとって切実なものだった。準拠するべき「何故」の答え。
「なぜ自分は妹を愛してはいけないのか?」の問いの答えとなる、「――だから」だと答える、その根拠を、彼は求めた。けれどどれだけ探してもみつからない。
生物学的・遺伝的理由は優生学的なドグマだとして棄却した。生まれてくる子供に起きるトラブルが問題だというならば高齢出産もまた同様の禁忌として扱われなければならないと彼は思った。
性愛の対象が『普通』ではないということが非難の対象になるならば、この世には『普通』ではないセクシャリティは存在してはいけないことになり、それらは要治療対象か異常者であるということになる。時代に逆行した考えだと彼は思った。
同系交配そのものが自然淘汰的に排除されていったとしても、現に愛してしまった自分にとってはそれ自体は何も言っていないのと同じことだ。『人が自然とそれを避けるようになった』としても、現に自分は妹を愛してしまった。多くの人が愛さないということと、自分が愛するということの間には何の関わりもない。
社会的要因はどうか。……禁忌の発生と忌避について語る言葉はいくらあっても、その禁止の理由は憶測めいて見えた。
現行法は、そもそも妹を愛することを禁じていなかった。婚姻を禁じているだけだ。
兄はやがて気付いた。
この禁止には『根拠』がない。『なぜ』の問いに答える言葉がない。それは単に『そういうことになっているもの』にすぎない。
では、『そういうことになっているもの』に、従わなければいけないのか。その、『約束』に、従わなければいけないのか、絶対に? なぜ? 何を根拠に?
従属を強いるその根拠を定めたのは、誰か? 「何故」の問いに答えるものは誰か?
少なくとも、神は問題ではなかった。彼の知るかぎり神は遠い国の話だし、その神もとうに死んでいた。最後の審判の裁きも輪廻転生の報いも、参考にはならない。そもそも、誰かが決めた「良さ」に従えばそれに見合ったご褒美がもらえるから従うべきだというような話は彼には胡乱で不誠実な話としか思えなかった。美徳も、美学も、世間も、同様に確固たる理由にはなりえない。それらはとうに、ここにいたるまでに数え切れないほどの誤りを犯してきたのだから。
何かを禁止できる超越的審級は彼の目には存在しない。「なぜ」の問いに答えられるものは誰もいない。
そして彼はひとつの結論に達した。
ここに根拠はない。この禁止には根拠がない。
それは彼をどのような場所に導いたか。
『禁止には示せる根拠がないのだから、それに従う理由はない』。
彼は思う。
『俺は、妹を愛することを、不当に禁じられている』。
そしてこの結論は、彼の身にまた別の結論を導いた。
彼にとって、不倫も、殺人も、もはや問題ではなくなった。彼の世界には罪がなくなった。彼を裁く上位の審級はそもそも存在しない。もはや何も禁止されてはいなかった。
何かを定める絶対者がいないのだから、すべてのきまりごとは無根拠で、何も強いることができない。
あらゆることは相対的であり、故に彼にとっては彼の決めたことが絶対的に正しい。
『この約束は、そもそも不当なのだから、反故にしても問題がない』
その結論に、彼は妹が結婚してから一年後に気付いた。そして彼はそれに従うことにした。彼にとって、すべてはもう自分自身の手のひらの上に、頭の中に、あった。『すべてのものに、根拠はないのだから』。それは思うように、好きなようにできた。
兄にとって世界は簡単で平板だった。彼の妹は彼を愛していた。なぜそう言えるのか、という問いはもはや意味をなさない。「何故」はここにはない。「彼の妹は彼を愛している。なぜなら――」と答える必要はない。こんなに単純なことだったのだ。「こうなっている。こうとしか見えない。こうなっているのだから、これが正しいのだ」と、彼は思った。
過誤は、このようにして正当化された。
◆
妹は、兄を徹底的に拒絶した。その忌まわしい日のことを誰にも言うことができず、夫にも秘密にしたまま過ごした。やがて彼女は、自らが子を孕んでいることを知った。
彼女は悩んだ。夫の子かもしれない、夫の子だろう、夫の子であってほしい、けれど……。
中絶、という可能性を考えた。けれど、そうするには理由がない。夫に話さなければいけなくなる。それだけは、それだけは嫌だった。わざと流産するべきかとも考えた。けれど方法をどれだけ調べても、それを実行に移せる勇気はない。何よりも、中絶という人工的で無機質な言葉と、意図的な流産という行いの間には大きな開きがあるように彼女には思えた。それは明白な殺人のように、彼女には思えた。
彼女の苦悩の日々が続くさなか、兄の妻が妊娠したという話を彼女は聞かされた。この世の関節がはずれているような、そんな気分の悪さが、身重の彼女の夢見をいつも悪くさせた。
自分の胎内に、怪物の種が宿っているような、そんな気さえして、けれど彼女は、そう思う自分を恥じ、責め、涙を流した。
子は、けれど生まれた。
何も知らない夫は、その子に、隼と名づけた。猛禽の名をそのままに借りたその名前の由来は、彼女にも教えてくれなかった。生まれた子はたしかに自分のからだから生まれた。けれど……けれど……。
この子に罪はない、というただその言葉だけが彼女の頭に繰り返された。罪は彼女自身のものだった。他に負うものが誰もいなかった。
子はすくすくと成長していった。顔つきは彼女に似ていた。夫に似ていると言えば夫に似ていたし、兄に似ていると言えば兄に似ていた。たしかめるのはおそろしいことだ。そして、益のないことでもある。
やがて二人はまた子を成した。今度は間違いなく夫の子だった。兄との関係は一度きりのことだったし、妹は兄からの連絡を徹底的に避け続け、彼に新しい住所さえ教えなかった。会ってはいない。そして何より――その結果、と言うべきか――兄は首を吊って死んでしまっていた。彼自身の妻に幼い子供を残して。
◆
その死には、彼が長らく忘れることにしていた『何故』の問いが含まれていたのだろう。
『どうして返事をしてくれないのか、どうして答えてくれないのか、
どうしてこれだけのものを与えた私に振り向いてはくれないのか、
どうして私をこんなふうに縛り付けるのか、そんな問いにも、やはり答えはない。
男はやがて、萎れ、枯れ果てていく。その植物をみつめたまま……』
◆
こういうことになる。
俺は、母と、母の兄の二人から生まれた子だ。
つまり、俺の父は俺の伯父であり、俺の母は俺の叔母である。俺の妹である純佳は異父妹であり、同時に従妹でもある。市川鈴音は俺の異母妹であり、同時に従妹でもある。俺の父は俺の母の兄であり同時に俺の父であるが故に俺の伯父でもあり、俺の伯父の妻は俺の伯母だが俺の父の妻の子は俺の従妹である。俺の父の子は俺の従妹であり俺の母の子は俺の従妹である。俺は母の甥であり父の甥である。
そして、こうなる。
俺は母の夫と血縁関係になく、にもかかわらず彼から不当にその愛情と時間と金銭を詐取している。
俺は、その誕生によって母を苦しませ、その夫からあらゆるものを騙しとり、その生誕によって実の父であり伯父である人物を自ら縊らせ、その子供から父を、その妻から夫を奪った。
そういうことになる。
俺は、本来、受け取ってはいけないものを受け取っている。
この俺には、不当に与えられているものしかない。
俺には、正当に与えられているものがない。
この夢は、こんな夢は、本当に……現実なのだろうか。
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