05-03 Nichts ist ohne Warum
遠くから見るよりも、近くで見たほうが、大抵のものはみすぼらしい。だいたいそうだ。思い出も、恋愛も、家庭も、他人の生活もなにもかも、なにもかも、遠くから見ているほうが綺麗だ。
遠くから見ればコテージのようだったその小屋も、近付いてしまえばあばら家めいた姿だった。
俺はいくらか考えた。どうしてこんなところに来たのだろう、と。何にいざなわれて、こんなところに来てしまったのだろう、と。けれど考えるだけ無駄だった。
これは夢のなかの出来事だ。
小さな木製の扉を開くと、中は暗がりだった。けれど、その先はどう考えても小屋ではない。どこかのマンションの一室の玄関のようだった。
右手には靴箱、その上には花瓶と写真立て。中にはどこかの砂浜の写真が飾られていた。靴は二足並んでいる。片方は女性もの、もう片方はそれよりも大きい、おそらく男性ものの紐靴。女性のものは揃えられ、男性のものは脱ぎ散らかされるように片方が傾いていた。
玄関と廊下は暗かったが、奥の部屋から明かりの漏れる気配がした。そちらから声が聞こえる。俺は思わず顔をしかめた。女性の、くぐもったような荒い吐息の気配がする。思わず踵を返しそうになる。けれど、市川鈴音の言葉を思い出した。「きみが求める真実みたいなもの」が、この扉の先にはあるのだろう。
俺は靴を脱ぐかどうか迷って、結局、これは夢なのだ、と思うことにして、履いたままフローリングの床に足をのせた。その前に一応、森を歩いてついたらしい泥は軽く落とすことにした。……そんなことをするのも、どこかバカバカしいような気がする。
一歩踏み出すたびに、声のもとに近付く。壁にはキャラクターもののジグソーパズルが額縁に入れられて飾られていた。その隣にはなにかの雑誌か冊子から切り抜いたらしい花の写真がいくつか並んでいた。
マーガレット、ミモザ、睡蓮、山桜……かすかに漏れるあかりだけで、かろうじて知っている花の名前を思い浮かべる。声はまだはっきりとしない。明かりのもととなっている扉は半開きになっていた。俺は覗き込む前に、耳をそばだてた。
そして俺は気付いた。その扉のむこうでは、あきらかに性的な行為が行われていた。女の吐息は途切れ途切れに低く、高く響いた。そこに含まれている感情は俺にはよくわからない。拒絶にも、性感にも、疲労にも、悲しみにも喜びにも聞こえる。女性の声はいつも、俺にはそんなふうによくわからないものに聞こえる。
ひどく後ろめたい気持ちが胸を支配する。俺はこの扉の先を覗くべきではない。
市川鈴音は、俺が求めている真実、と言った。
俺が信じている真実が、こんな滑稽なほど当たり前なものなのだろうか?
バカバカしい、空々しい、こんな、どこにでもある行為が、俺の求める真実だとでもいうのだろうか?
触れ合い、舐め合い、睦み合う、誰かがする。誰かがしている。誰もが。かぎりなく真摯でありながらどこか惨めでみすぼらしい、肌の、手の、口の、それ自体が恥であるかのような、秘めやかであり同時にあからさまな営み。みすぼらしく、惨めですらある、器官の触れ合い。
俺は、はっきりと落胆していた。
まだ、ジグソーパズルのほうが、まだ、花の写真のほうが、まだ、砂浜の写真のほうが、これよりもいくらか美しい。それが答えだと言われたほうが、まだ、納得がいく。
こんなものが……何の答えだと、何の真実だと、何の、罪の真実だと言うのだろう。
「やめて」
と女は言った。その声にどこか聞き覚えがあるような気がする。それは拒絶なのだろうか? それとも、単にそう言っただけなのだろうか? 熱のこもった吐息のなかに含まれた言葉は、それがどちらだか教えてくれない。彼女は……どんな意味で、やめてと言ったのだろう。
「もうやめて」
と女は言葉を重ねる。男は笑った。笑ったのだから、それは単なるじゃれ合いなのだろう。
「どうして」
と、男はここで声をあげた。
「もうやめて、やめて……」
その瞬間、俺は、
俺には、その声は、拒絶を含んで聞こえた。
思わず、扉のむこうを覗き見る。
寝室らしきその場所には大きなベッドがある。その上で二匹の動物がからだを、肌を重ねている。男は女の腕をおさえ、その背中は震えている。――どうしてこんなものを見せられなければいけないのだろう。
けれど、俺は、
男の肩越しに見た、その女に、見覚えがある。
「やめて」
と、女は言う。
「……やめて――兄さん」
最後の言葉はかすれていた。
俺は自分が何を見ているのかを、突然理解した。
不意に、男が、肩越しに俺を振り返った。
その顔にもまた、俺は見覚えがある。ついさっき、奇妙な消失を……。
死んだ人間。
もう生きてはいない人間。
罪の重さを、考えてみろ。
俺は理解した。
そのベッドの上で肌を重ねているのは、今よりも若い、俺が知るよりも若い頃の母であり、俺が見た、さっき会った菊池淳也の、死ぬ前の姿だ。
俺と会ったときよりも大人びた顔つきの彼は、俺を見てにっこりと笑った。その頬は汗ばんで、少し艶めいていた。心臓がずっと厭な跳ね方をしている。俺はここに来るべきではなかった。
思考が止まる。それは防衛本能だったのかもしれない。俺はこれ以上何かを考えてはいけない。何も考えてはいけない。これは夢だ。夢なのだから、
「やめろ」と俺は言った。
声をあげる。菊池淳也は不意に動くのをやめ、唇の端を吊り上げたまま俺を見ている。
「なぜ?」
「嫌がっている」
「おまえにはそういうふうに聞こえるかもしれない。でも、こいつは嫌がっていない。口だけだ」
「違う。おまえは間違ってる」
「間違ってない。俺には嫌がっていないように見える。嫌がっていない」
「おまえ、何を言っているんだ……?」
「俺にはそうは見えない。おまえには違うように見えるかもしれない。そういうこともあるだろう。けれど、俺は見間違えていない。俺はこいつを愛しているし、こいつも俺を愛している。だから俺はこうすることができる。俺はおまえよりもこいつのことを知っている。こいつは嫌がっていない」
「……おまえ、何を……」
「それに、なあ、隼」
俺は、
「俺がここでやめたら、おまえは生まれない」
そう言って、彼は退屈そうに俺から視線を外して行為を続けた。
景色が不意に遠のいていく。俺は何を見たのだろう、何を見せられたのだろう。どうしてこんなところにいる? 目にみえている景色が暗闇のなかで小さく遠くなっていく。声も、光もすべてが遠のいて、その向こう側で行為が、みすぼらしいほどありふれていて秘されているにもかかわらずあからさまなあの行為が、行われている。
すべてが暗闇のなかに飲み込まれたときに俺は思った。
マンドラゴラは、罪人の精液から生まれた。
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