05-02 鴻ノ巣ちどり
少し歩こうか、と市川鈴音は言った。俺は頷いた。迷子の子供は何も言わなかった。
「わけがわからないことだらけなんだ」
そう言うしかなかった。そうかもしれないね、と市川はうなずく。
「でも、いちばんわからないのは、どうしておまえが目を覚まさないかってこと」
「わたしは、まだ、『アルラウネ』で眠ってる?」
「うん」
そういえば俺は靴を履いている。夢のなかで、俺はいつも学生服を着ている。彼女もまた制服を着ていた。
「わたしは、いくつかわかったことがある。この夢の秘密みたいなものも、いくつか、見当はついた」
「……その子のことも?」
「この子のことは、よくわからない。ずっと一緒ってわけでもないし」
俺が視線を向けると、市川の背から覗き込むようにこちらをうかがっていた少女は目をそらした。
「市川は、ここで何をしてるんだ」
「簡単に言うとね」と彼女はごまかすみたいに笑った。「何もしてない。でも、眠りからさめたくないの」
「どうして?」
「目をさましても、どうにもならないから、かな。きみは、わけがわからないことだらけだっていうけど、わたしには現実のほうも、わけがわからないことだらけだから」
「たとえば?」
「たとえば、そう。そうだね。ロマンティックラブイデオロギーの行き着く果てが閉鎖的な核家族的日常でしかなくて、それが幸福とは思えないとか……?」
「なんだそれ」
「生きていくってしんどいよ」と市川は言った。「生きてるってしんどい」彼女は繰り返す。
「みんな現実に夢を投影して生きてる。でもその夢ってなにかの拍子にさめちゃう。それでまた次に投影できる夢をさがす。その先にはなにもないの。どこにもつながってない。出口がない。閉ざされてる。その出口のなさを人は子供に託すの。子供という外部に委託するの。でも、その子供もやっぱり閉じ込められてる」
「なんでそんな話になってるんだよ」
「寝て、起きて、暮らす。その生活ってそんなに尊いもの?」
「尊い尊くないでは考えたことないけど……」
「だったら、べつによくない? 生きたいところで生きたいように生きて、どうしてだめなのかなあ」
「……べつに、生きたいように生きればいいだろ」
「だったらきみはどうしてここに来たの?」と市川は俺に訊ねた。
「おまえがいなくなったからだろ」
「わたしを探したかったの? それとも、探さなきゃいけない、と思ったの?」
「……」
「たぶんだけど、生きたいように生きるって言葉をいちばん実践できてないのは、三枝くんのほうだと思うよ」
「……そうかもしれないけど、そんなことはどうでもよくて」
「この森、変だよね」
「……急に、なに」
「三枝くんさ、去年自分が部誌に寄せた文章、覚えてる?」
「去年……? なにか書いたっけ」
それはこう、と彼女は諳んじた。
◇
「その場所に名前はない。入口は無数にあるし、出口も無数にある。
けれど、その中は迷路のようになっていて、簡単には抜け出せない。
あるものはそこを仙境と呼ぶし、あるものはそこを異世界と呼ぶ。
冥界と呼ぶものもいれば単なる白昼夢と呼ぶものもいる。
あるものにとっては芳しい花の香りに満ち満ちた極楽の蓮池であり、
あるものにとっては暗雲垂れ込める枯れ果てた木々の森であり、
あるものにとっては地中深くの水晶の谷間であり、
あるものにとっては焼け落ちた家の跡地であり、
あるものにとっては近未来的なビルの林であり、
あるものにとってはただ茫漠たる砂漠であろうし、
あるものにとっては黴の匂いに包まれた光も差さぬ牢獄であり、
あるものにとってはそこは郷愁誘う民家である。
ふうけいはおそらく問題ではない。
問題は、そこには「なにともしれぬ暗闇」がひそんでおり、
彼らはその木々の虚めいた隙間から舌なめずりしてこちらを覗いているということだ。
そしておそらく彼らは『滲み出している』。
『あちら』と『こちら』との間に本来境界線はなく、ただ便宜的な住み分けがなされているだけに過ぎない。
彼らは『そこにいる』。
暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある」
◇
「……そんな文章、書いたっけ」
「うん。覚えてる」
市川鈴音と俺との会話を、女の子は黙って聞いている。俺は彼女と何かを話すべきなのかもしれない。……『べき』?
俺は、彼女と、話したいのだろうか。彼女を、ちどりだと、その可能性があると思っているんだろうか。
時間もなにもかも、全部がめちゃくちゃだ。
「その文章が、なに」
「三枝くんには、声が聞こえるんだよね。例の、否定の、声」
「……」
『声』は、今は鳴っていない。けれど、俺は知っている。それはまだ止んでいない。
「あの声は、たぶん、たぶん、三枝くん自身の声だよ」
「……は?」
「なんで気付かなかったんだろうね? 最初に考えるべきだった。最初に聞いたのは現実でのことだったんでしょう。でも、現実には自分にだけ聞こえる声なんてないよ。だからそれは内側から鳴っていたの。内側から聴こえていたんだよ。三枝くんを咎める誰かの声は、三枝くん自身が三枝くんを咎める声なの。だから、三枝くんにしか聞こえないの」
「……」
「ねえ、三枝くん、『罪の重さ』に、心当たりがあるんじゃない?」
「……俺は」
ないわけじゃない、と言った。
でも……。
市川はふんわり笑った。不意に、小路の先の森が途切れた。そのさきは湖になっている。湖畔に沿った道の先には、小さな小屋が見えた。
湖は、広い。遠く広い。対岸には森。背後にも森。どこまでいっても森だらけだ。
「たぶん、その声が、この森で力を得たんだ」
「……どういう、意味?」
「たぶんここは、そういう夢、そういう森なんだよ。抑え込んだものが、別の形になって、姿になって現れる、そういう……場所。なにもかもがないまぜになって、欲望が重なる」
「おまえは……なんでそんなことがわかる?」
「お父さんに会いたかったの」と、市川は言った。
「お母さんにも、会いたかったんだけど……でも、知らなくていいこと、知っちゃったみたい」
「……菊池淳也に、会ったのか?」
彼女は首を横に振った。
「わたしにはあの人の声は聞こえなかった。あの人にはわたしが見えなかった。でも、それでよかったんだと思う」
「……」
菊池淳也は言っていた。「とりあえずこうなってるんだから、こうなっちまってるんだから」、と。でも、問わずにはいられない。
何故。
「三枝くん、そういえばね」
不意に、市川は立ち止まった。俺もまた少し遅れて足を止める。
「なに」
「この子の名前、ちどりちゃんって言うんだって」
「……」
もういいよ、と、叫びそうになった。
これ以上、わけのわからないことなんて、つくりたくない。
でも、俺は思わず、その少女をまっすぐに見てしまった。見ないようにしていた。
目が合う。
彼女は怯えるのをやめたようにみえた。……違う。本当は、怯えていたのは俺で、彼女にそれを投影していたのかもしれない。
俺は、『声』に自己嫌悪を、『ちどり』に怯えを投影していたのだろうか。
彼女は何度も俺を覗き込んでいた。俺はそれを直視しないように逃げていた。
本当は彼女は……俺をずっと見ていたのではないか。
「ちどり……」
彼女はふんわりと笑う。ようやく見つけてくれた、というように。
「知ってるよね?」
「……ああ。俺の幼馴染だ」
"ちどり"は、笑みを浮かべた。あの頃と同じ、控えめな笑み。ちどりだ。ちどりの姿だ。……でも、そうなのだろうか。
ここで起きていることは、なにもかもよくわからない。
「ちどりなのか……?」
そう訊ねると、少女は、おそるおそるといったふうに、俺にむかって一歩を踏み出した。
「隼ちゃん」と、彼女は呼ぶ。かつて、俺をそう呼んだように。
「来てくれるの、ずっと待ってました」
「……」
彼女が、俺にむけて、手をのばす。
その手をとることを求めるように。
でも、俺のからだを支配したのは恐怖だった。
「……違う」と俺は言う。
「おまえはちどりじゃない。……おまえ、誰だ?」
その瞬間、"ちどり"は割れたガラスのような笑顔をつくった。
「わたしは、ちどりです」
「違う」
「隼ちゃんが助けにきてくれるの、ずっと待ってました」
「違う」
「わたしは、ずっと、隼ちゃんが迎えに来てくれるって、信じてた」
「違う」
「あの日、隼ちゃんが、一緒に来てくれたら。あの日、純佳ちゃんが風邪をひいて、隼ちゃんは来られなくて。それで、わたしと怜ちゃんのふたりだけで、ここに来て……」
そうだ。
それはきっと、ちどりと怜しか知らないこと。
二人がいなくなったあの日、怜は、当時学校で流行っていたくだらない怪談について調べにいった。ちどりを連れて。
俺もまた、ついていくはずだった。けれど、純佳が風邪を引いたと言って、一緒にいかなかった。
「あの日、隼ちゃんが一緒にいたら、わたし、帰れたのかもしれない。暗い森のなかでさまよって、帰り道を見失うことなんてなかったかもしれない。隼ちゃんがいれば、わたしはきっと帰れたはずだった」
「……違う」
と俺は繰り返す。
「おまえはちどりじゃない」
「隼ちゃんは、わたしのこと、好きですよね?」
「……」
「時間が経って、会えなくなっても。遠くなっても、隼ちゃんは、わたしのことが好きですよね? 瀬尾青葉さんに、わたしを重ねて過ごしたんですよね? 隼ちゃんは、わたしを忘れていませんよね? そうじゃないと、だめなんです。そうじゃないと許されない。そんなの、許せない……」
俺は、ようやくわかった。
「やっぱり、おまえはちどりじゃない」
「……」
彼女は表情をなくした。声も、もう出ないようだった。
「あんまり、子供をいじめちゃだめだよ」
「そいつは子供じゃない」と俺は言った。
「……まあ、いいか。どうでも」
市川はまた歩きはじめた。俺は彼女のうしろについていく。彼女は湖のそば、桟橋の方へと歩いていく。ボートが一艘泊められていた。少女は、小路の途中で立ち止まったまま、俺たちを追いかけてくる様子がない。
「あの子、三枝くんの何なの?」
市川は一度だけ振り返ってそう訊ねてきた。
「幼馴染だよ」と俺は答えた。
「……ふうん? ねえ、三枝くん、この森の出方を知ってる?」
「……さあ」俺は首をかしげた。「鏡を探せばいいんだっけ」
「……見て」
彼女は桟橋の先に膝をついて、湖を覗き込んだ。俺もまたそれに倣う。
「"映らない"の。わたし」
「……」
「三枝くんは、まだ映るね。よかった。……だからね、帰れるうちに帰ったほうがいいよ。でも、もし何かを知りたいなら、あっち」
市川が指さした方には、さっきの小屋がある。
「あの小屋に向かって。あのなかに、きみが求めてる真実みたいなものもあるのかも。……わたしたちがどうして、こんなところにいるのか、理由はわからないけど、でも、たぶんわたしたちがつながってしまった理由くらいはわかると思う」
でも、わたしは、
「帰ったほうが、いいと思うよ」
「……おまえも一緒なら、帰るけどな」
「……わたしは、でも、帰る意味がないから」
市川は、そこから動く気がないようだった。
俺は、結局、彼女をそこに残して小屋に向かうことにした。
そのまえに、
「当たり前の日常を書き換えてくれるものがあるかって、おまえはいつか俺に聞いたよな」
「……そうだね。聞いたかも」
「それがあったら、おまえは外に出る?」
「……そう、だね。うん。出るかもしれない」
「……そっか」
それだけ。その会話だけで、俺は市川のもとを去った。
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