言葉と意味

鏡のなかの鏡

05-01 うつろなる声





 家に帰るとリビングのソファで妹の純佳が眠っていた。近頃、彼女は眠ってばかりいる気がする。遅い時間だからか、今日は珍しく母がキッチンに立ってコーヒーを入れていた。最近はあまり顔を合わせていなかった。


「ひさしぶりな感じがするね」


 と彼女は言う。俺は適当に頷いた。


「なかなか帰ってこないから」


「帰ってきてる。私が帰ってくる頃には、あんたたちが部屋に引っ込んでるだけ」


 まあ、そうかもしれない。


「今日は早かったんだ」


「そうね。まあ、父さんは来ないけど」


「そっか」


 両親が何の仕事をしているのか、俺は知らない。ただ、熱心に働いていることは知っている。遅くにしか帰ってこないし、早くから出ていく。だから、部屋にこもれば殆ど合わない。家事はいつも、俺と純佳が交代でしている。最近は、八割が純佳かもしれない。


「ご飯、ちゃんと食べてる?」


 俺は返事をできなかった。


「なに。驚いた顔して」


「いや。母さんってそういうこと聞くんだなって」


「……いけない?」


「そうじゃないけど」


「……コーヒー、飲む?」


「……飲む」


 本当に、珍しいこともあるものだ。


「純佳は寝ちゃってるのね」


「最近、ずっと寝てる。疲れてるのかも」


「家事、任せちゃってごめんね」


「いいよ。……最近は俺も、純佳に頼りっきりだし」


 それに今更だった。


「……あのさ、母さん、一個聞きたいことがあるんだけど」


「ん」


「母さんのさ、旧姓ってなんだっけ」


「旧姓……?」


 なんで急に、という顔を、彼女はする。


「……菊池、だけど? なんで?」


「……あのさ、ジュンヤって人、親戚にいる?」


 母さんは明らかに何かを言い淀んだ。急に気配が張り詰める。何か踏み込んではいけないところに踏み込んだのだとはっきりわかった。


「どうして?」


「いや……どうしてっていうか」


 しどろもどろになりながら、俺は適当に言い訳を考えたけれど、適切なものは思いつかなかった。


「誰に聞いたの」


「……えっと、何を?」


「その人のこと」


「……いや、誰に聞いたっていうか」


 べつに、あの菊池淳也が、親戚かもしれないと思ったわけじゃない。

 ただ、母の旧姓が、そういえば菊池だったかもしれないと、そう思っただけ。


 母の顔色は、あからさまに青ざめていた。


「大丈夫?」


「……大丈夫」


「こないだ、学校で菊池淳也ってやつにたまたま会って、それで、もしかしたら親戚だってこともあるのかなって、それだけだったんだけど」


「……そう。たぶん、違うと思うけど。隼たちの世代には、いないはずだから」


「そっか」


 そっか、と頷きながら、俺は問いを重ねるべきかどうか、迷った。


「俺たちの世代には、ってことは……?」


 努めて落ち着こうとするように、母はいれたばかりのコーヒーに口をつけて、瞼を閉じたあと、少しこわばった微笑をつくった。


「私の兄さん。淳也って名前だった。でも、婿養子に入ったから、菊池、ではなくなったけどね」


「そうなんだ」


 ……そうなんだ、じゃねえだろ。

 

「……会ったこと、ないよね、俺」


「あんたがちっちゃい頃に死んじゃったからね」


「死んだ」


「うん。ほんと、一歳とか、そのくらいのとき。娘もいたんだけどね」


「娘ってことは……」俺は考えた。「俺や純佳のいとこ?」


「……そう、ね」


 どうしてか母は奇妙なところで口ごもる。それから、ごまかすみたいにまた口を開いた。


「元気にしてるのかな。なんて名前だったっけな……」


「その子?」


「うん。きれいな名前だったな。たしか……鈴音ちゃんっていったかな」


「なんて?」


「鈴音ちゃん。隼とは、同い年のはずだけど」


 母の表情は、やはり、無理をしているようなこわばりを含んでいた。ごまかすみたいな笑みだった。


「同じ学年に、そういう名前の子がいるよ。市川って苗字だけど」


「……隼、その子のこと、好き?」


「は?」


 俺は眉をひそめた。


「どういう意味?」


「そのままの意味」


「好きっていうか。べつに好きでもないけど」


「そう、ならいい」


「……どういう意味?」


「隼」


「なに」


「ごめんね」


「……なにが」


「……ごめんなさい」




 

 母さんとの話もはずまず、コーヒーをのんだあと、俺は部屋に戻ってベッドに横になった。考えるべきことなのか、考えずにはいられないことなのか、どちらかが頭をぐるぐると巡っている。


 市川鈴音と、菊池淳也が親子。


 だとしたら、俺があの夢の中で出会った、あの菊池淳也は、もう死んでいる人間で、俺の伯父で……市川鈴音の父親で、市川鈴音が俺のいとこで……ということも、あるのだろうか。


 たまたま名前が同じだけかもしれない。

 俺が知っている菊池淳也は、俺と同い年くらいに見えた。


 でも……。


 夢は、見るものに何かを求めているのではなかったか。


 俺と市川鈴音。俺たちの間に、今まで、つながりらしいつながりなんてなかった。同じ学校に通っていて、同じ部活に入っていて、それだけだった。俺と市川鈴音は、自分がどうして同じ夢のなかでつながっているのか、どうしてもわからなかった。


 でも、菊池純也がいた。


 菊池淳也が、俺の夢にいた。


"市川鈴音の父親"が、"俺の母の兄"が、夢の中に、あらわれた。


 俺たちはどうして同じ夢を見るのか。

 市川鈴音は、どうして、目をさまさないのか。


 答えなんてないと思っていた。ただ巻き込まれているだけなのだと。

 市川鈴音が、帰ってこないとしても、帰りたくないのだとしても、俺には関係がないのだと。


 でも、だったら、俺の目の前に現れた菊池淳也は、なんなんだ?


 菊池淳也は……、鴻ノ巣ちどりは……、市川鈴音は……。


 何を、俺に、求めているんだろう。


 そして俺は瞼を閉じ、

 眠りにつく。

 やがて意識は浮上して、

 俺はあの小部屋にいる。


 目の前には、彼がいる。

 菊池淳也が、そこにいる。


 例の、竹編みの椅子に座って。


「もう来ないと思ったよ」なんて、へらへらと笑いながら。


「……おまえ」


 と、俺は彼に声をかけた。


「死んでるのか?」


「は?」


 問うたところでどうしようもない言葉だ。


 その意味なんて、わからないに決まっている。

 首を横に振り、俺は考え直した。そして考える。


 この夢は、俺に何を訴えようとしているのか。俺は誰を探せばいいのか。


 決まっているような気がした。


 迷子連れの市川鈴音。俺が探さなきゃいけないのはあのふたりだけだ。


「また人探しか」


 呆れるように菊池は言った。俺は返事をしなかった。


「いいよ、手伝おう。どうせ、なんにも思い出せないし」


「べつに、頼んでない。ところで……」


「ん」


「おまえ、妹いる?」


「……なに、急に……って、ああ。いる。いるよ、めちゃくちゃかわいい妹が」


「……はあ」


「そう、そうよ。忘れてた。いるんだよ、俺には妹が。心配してるだろうな、あいつ俺のこと大好きだから、俺がこんなとこにいたら」


「……」


 何も言わずに俺は歩き始めた。菊池はへらへらとついてきた。


 扉の先は、今度は校舎ではなかった。昼の森だ。このあいだ来たのと、少しだけ似ている。あの地下の森。

 マンドラゴラが誰か、思い出せたら……。


 マンドラゴラ。


 絞首刑になった罪人の精液から生まれた植物。


 不意に、菊池はなにかを思い出したように声をあげた。俺はわざと無視して、森のなかの小路を進み始める。宛があるわけじゃない。でも、奥に奥に進む。

 市川鈴音は、どこにいるのだろう? ここで見つかるのだろうか。わからない。


「いいじゃん、べつに。いや、よくはないか」


「どっちだ?」


 森のなかを……林冠の徐々に狭まる木立の奥へと、より鬱蒼と暗くなる、風もない森の奥へと進む。菊池はなおも何かを考えるように俺の斜め後ろをついてくる。


「……どうでもいいさ。隼のほうこそ、なんだってそんなに必死に人探ししてるんだ? べつにどうだっていいだろう、どうでもいい相手だろ?」


 ……探しているのはおまえの娘だ、と。

 そう言ったら菊池はなんと言うのだろう。


 そうかもしれない、というだけだ。

 どうして死人が、会ったこともない死人が夢に出るのだろう。

 もしかして、市川は……菊池淳也を、自分の父親を探しているのかもしれない、と、そんな連想が不意に浮かんだ。


 それは妄想なのだろうか。


 鳥の声もしない森のなか、俺と菊池はただ歩く。問いのかたちも明確じゃないのに、どうして答えが見つかるだろう。


「おまえは……」


 と、俺は思わず口に出した。


「市川鈴音の父親なのか?」


 そんな問い、この菊池淳也にしても仕方ない。そんな馬鹿げた質問はない。それなのに、振り返ると、菊池淳也は笑っていた。にんまりと、三日月のような笑み。思わず背筋が寒くなるのを感じた。

 菊池淳也は笑う。……違う。彼は、菊池淳也ではない。なぜだか、そう思った。


「考えてもみろ」と、彼は笑う。


 ――罪の重さを、考えてもみろ。


 そして瞬きの合間に、菊池淳也の姿は消えて、

 そこに、市川鈴音が立っている。


「……や」


 当たり前みたいに、夢のシーンの切り替わりみたいに、市川鈴音と、彼女の背に隠れた、小さな少女がいた。

 森のなかで、俺たちは出会った。

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