04-06 魔力の解ける日





 どうしたい? と問われても、どうしていいのかわからなかった。


 翌週からも市川鈴音は登校せず、『アルラウネ』で眠ったままだった。起きたことはすべてわけがわからないままで、何がどうなっているのかはさっぱり見当もつかない。


 瀬尾もちせも、ましろ先輩さえも、俺に何かを訊ねてくることはなかった。訊いてはいけないことだと思ったのかもしれない。


 俺は、何かを求めるようにボルヘスの『幻獣辞典』を飽きもせずにめくりはじめた。そしてすぐに、そのなかに、『鏡の動物誌』という項を見つけた。

 

「当時、鏡の世界と人間の世界は、今日のように切り離されていなかった。さらに、双方がまるで異なっていた。存在も色彩も形も同じではなかった。双方の王国、つまり鏡の王国と人間の王国は円満に共存していた。鏡を通って行き来できたのだった。ある夜、鏡の人々が地上に侵入した。彼らの力は強大だったが、血まみれの戦いの終わる頃、黄帝の魔力が支配した。彼は侵入者たちを撃退し、彼らを鏡の中に閉じ込め、あたかも一種の夢の中でのように、人間のすべての行為を反復する仕事を課した。彼は彼らの力と形とを剥奪し、彼らをたんに奴隷的な反射像にしてしまった。しかしながら、いつかその魔力の解ける日がやってくる。」


 

 

 挟まれたメモ用紙もなにもない『幻獣辞典』から俺がかろうじて受け取れたものがあるとしたらその文言だけだった。

 

 いくつかの考えたいことはそれぞれが頭の中で粒子のように散り散りとなり、浮かんでは薄れ、離れては近付いた。ばらばらのまま、それらはなにひとつ繋がり合いそうになかった。


 瀬尾はそんな調子の俺を見て、


「そんな調子で過ごしてたら、すぐテスト期間が来るよ」


 なんて苦笑いした。


 考えるべきこと、なんていくつある? 俺がじっさいに手を出さなければいけないことなんて? でも、こういうことだ。俺は思う。


 市川鈴音はこのまま目を覚まさないかもしれない。そしてそれは。たぶん、今のところ、わかっている範囲では、わかっている限りでは。けれど、それでいいのだろうか。俺はなにかをしなければいけないのではないか。このままでは何かよくないことが起きるかもしれない。だって、それは現に起きたことがある。俺が何もしなかったことで死んでしまった人間がいるのだから。だから俺は何かをしなければいけないのではないか。……それはつまり、あのもうひとつの校舎へ、もう一度踏み込むことを意味しているのかもしれない。でも、そこで何をすればいい? 市川鈴音を、俺は、探せばいいのだろうか。そもそも彼女は、どうして帰ってこないのだろう。


 『幻獣辞典』をめくりながら、俺は、その本のどこかのページに以前のようなメモ用紙が挟まれていないかを何度も何度も確認した。そこになにかの、俺がどう行動するべきかのヒントが書かれてはいないかと期待していた。けれどなにもなかった。考えるヒントなんてどこにもない。


 そして考えるのは同じことだ。罪の重さ、菊池淳也、市川鈴音、鴻ノ巣ちどり。図書館、鏡、桜の下、アルラウネ、夢、マンドラゴラ、幻獣辞典。なにもつながらない。なにもはじまらない。なにも終わらない。


 ちせが無事に帰ってきたことを、俺は素直に喜んでいる。ましろ先輩も瀬尾も、ちせ自身も同じだろう。けれどみんな思っている。「あれはいったいなんだったのか」。あの場所で起きたことは、あの場所は、いったいなんなのか。その説明が可能なのだろうか。


 そして、その週のある放課後、俺の携帯が鳴った。




 待ち合わせに指定されたのは駅ビルの一階にある有名なカフェチェーンだった。夕方の店内はひどく混雑していて、とても落ち着いて何かをするような気分にはなれない。俺がコーヒーだけを買って席を取っていると、少し遅れて待ち人がやってきた。


「待たせたね」


 と、やってきたのは、幼馴染――ちどりをそう呼ぶなら、こいつをそう呼んでもかまわないだろう――の泉澤怜だった。


 ちどり、怜、俺の三人は、子供の頃にはずっと三人で過ごしていた。時折、俺の妹の純佳も一緒になって遊んだ。ちどりがいなくなった翌年、怜の家は引っ越して別の学区になり、中学時代も、高校に入ってからも、ろくに連絡をとらなくなった。ちどりがいなくなったのが無関係とは、俺は思わない。


「ひさしぶりだな」


 俺の返事に頷きながら、怜は静かに椅子を引いてテーブルの真向かいに腰掛けた。当然、会うのも小学校以来ということになる。ほんとうにときどき、電話のやりとりはしていたけれど、会うのは子供のときぶりで、俺は彼女の変化に少しだけ驚いた。少年のようだったのに、髪を伸ばし、女子の制服を着こなし、普通の、どこにでもいる女子高生のようになっている。もし相手がそうだと知らなければ、俺は彼女が怜だと気付かなかったかもしれない。


「とつぜん呼び出してごめんね」


 喋り方さえ、女の子めいていた。


「いや。べつに……」


「びっくりした? 急に連絡したから」


「まあ」


 驚いた、というのとは少し違う。俺は、何かを期待していたのだろう。俺の判断の規準になるような何かを、こいつが連れてきてくれるのではないか、と。


 だから二つ返事で呼び出しに応じた。何年も会っていない相手なのに。

 

「いつ以来かな。小学校の頃からだから……」


「六年前だ」


 と俺は答えた。怜だって、別にわかっているはずだ。


「……そうだね」


 何かを言いあぐねるような、あるいは避けるような調子で、怜は口ごもる。俺の記憶の中の彼女は、決してそんな話し方をしなかった。でも、こいつもわかっているはずだ。俺と会って、思い出話をしたら、必ず、ちどりの話になる。こいつは、最後の日、ちどりを最後に見た人間なのだから。


「いくつか確認したいことがあるんだ、隼に。いやな話になるかもしれないけど」


「それはかまわないけど」


 それにしたって、タイミングがタイミングで、俺は奇妙な驚きを感じた。


「俺も、おまえに聞きたいことがある」


「うん。でも、まず最初に一個。瀬尾青葉さんって、何者?」


「……なんでおまえが瀬尾を知ってる?」


「なんでっていうか、ね。まあ、いろんな理由があるんだけど。ていうか、隼も気付いているんじゃないかと思ったんだけど」


 その言い方で、俺も、怜がわかっているのだと、わかった。それでも、一応の確認を、口に出す。


「瀬尾青葉が、鴻ノ巣ちどりに瓜二つなこと、だよな?」


 うん、と、怜は頷いた。


 そう。

 

 瓜二つ。


 瓜二つ、というのは、けれど、奇妙な話だ。瀬尾青葉は高校生で、別に小柄だとか、小学生みたいな容姿というわけではない。普通に年相応の容姿をした女の子だ。ちどりも、高校生みたいな容姿をしていたわけではない。俺が知っているちどりの容姿と、瀬尾青葉の容姿はかなり異なる。言えたとしてもせいぜい、「面影がある」「雰囲気が似ている」程度だろう。髪の長さも、体の曲線も、重なりはしない。


 それなのに俺は、瀬尾青葉は鴻ノ巣ちどりに「瓜二つだ」と感じる。

 そして、怜もまた、同じような印象を覚えたのだろう。どこで見たのかはわからない。それでも、「ちどりに似ている」と、「見たこともないはずの、ちどりと瓜二つだ」と。


 そんなことが、なぜ起きるのか。


「気のせいじゃないかって何度も思おうとしたんだけど、やっぱり、ね。前、たまたま隼を見かけてさ。そのとき瀬尾さんと一緒にいたから。そのあと、彼女がどうしても気になって、ちょっと調べた」


「直接、訊いてくれればよかったのに」


「私にもよくわからなかったんだよ。隼が気付いているのかもわからないし、そもそもそのときは動揺しすぎて、頭がこんがらがったし」


 私、と怜は言う。昔、こいつの一人称は「僕」だった。


「……俺もそうだったな」


 瀬尾青葉と、鴻ノ巣ちどりの、重なり方。


「これが、自分だけの感覚なのか、単なる思い込みか勘違いなのか、わからない。でも、私にはどうしても、彼女がちどりと関係のある人にしか見えない。だから、隼にはどうしても聞きたかった。あの子は……」


 ほんの少しだけ躊躇を孕んだ声色で、怜は息を整えたあと、


「あの子は、ちどり本人じゃないの?」


 そう、言った。


「……」


 俺も一度は考えたことがあった。考えないわけがなかった。

 失踪した鴻ノ巣ちどり。彼女が、なぜか別人として生きていた。彼女が記憶をなくすか何かして、どこかの家に引き取られ、そのまま成長した姿、それが瀬尾青葉ではないか。そう考えるほうが、俺には自然なことだった。


 けれど俺は、その答えを知っている。慎重に話さなければ見失ってしまいそうなほどのほんの少しの矛盾。


「瀬尾青葉は、鴻ノ巣ちどりとは別人だ」


「……どうしてそう言えるの?」


「ちどりがいなくなるより先に、瀬尾青葉はこの世にちゃんと存在したから」


「……」


 もし瀬尾青葉が、ちどりがいなくなったあと、どこかで記憶のない少女として発見されたとしたら、ちどりである可能性はある。けれどそうではなかった。瀬尾青葉は、それ以前にもちゃんとこの世界に存在していた。……いくつかの不審があるにせよ、ほんの少しのずれであるにせよ。


 怜に話すべきなのだろうか。……そうとは思えなかった。これは、瀬尾青葉に個人的に聞いた話だ。


 鴻ノ巣ちどりがいなくなったのは、六年前の五月のこと。

 そして、瀬尾青葉は、六年前の五月以前の記憶を持っていない。瀬尾はいま両親と暮らしているが、実の親ではなく養父母だという。

 六年前、彼女は記憶も持ち物もなく身一つで街のどこかに倒れていた。それをひとりの女性が見つけた。


 六年前の五月。どちらも六年前の五月のことだ。けれど、瀬尾青葉がその女性に見つけられた日は、鴻ノ巣ちどりがいなくなるよりも前の話。


 だから、瀬尾青葉が鴻ノ巣ちどりであるということは、ありえない。


「……なら、思い違いだね」


 俺はうなずく。

 普通に考えれば、そうなる。


 普通に考えれば……。

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