04-03 迷路に悩め


 森のなかからひとまず通ってきた道へと戻ると、俺はちせの話を聞くことにした。

 

「例の七不思議のことを調べてたんです」


 俺たちは、さっきのエレベーターのほうへと、道を遡っていく。その途中で、ちせはぽつぽつと話し始めた。


「地下迷宮図書館。誰かが迷い込んだら危ないって、話をしましたけど。まさか自分が迷い込むことになるとは思いませんでした」


「大変だったな。まあ、見つかってよかった」


 とつぶやいたのは、俺ではなく菊池のほうだ。


 ちせの話はこうだ。


 友達に教えられた手紙の内容を手がかりに、「桜の木の下」を探し始めた彼女は、梶井基次郎の「桜の木の下には」の中に、「桜の木の下で酒宴をひらいている村人たち」というフレーズを発見する。つまり、「桜の木の下」には「死体が埋まっている」ほかに、そこでは「酒宴が開かれているのではないか」、と。


  つまり、「酒宴が開かれている場所」こそが、「桜の木の下」なのではないか、とちせは考えた。


 そして彼女は「酒宴」を探した。七不思議は高校のなかのものなのだから、学校のなかにそれにあたるものがあると考えるのは自然なこと。「地下」というからには一階を探すのが筋だろうと考えた彼女は、酒宴、という言葉に接近するためにあちこちを歩いた。けれど見付かったのは、酒宴や花見ではなく、桜の写真だった。


 本校舎一階、職員室前の通路にはポスターや掲示物、年間行事のさいの写真などが貼られるスペースがある。その掲示板の一カ所に、彼女は桜の写真を見つけた。誰が、いつそこに貼ったのかもわからない写真。普段ならば気にもとめていなかったであろうその写真に、彼女はやけに惹きつけられた。なにか考えなきゃいけないことが、そこに含まれている。たしかに。確実に。


 不意の思いつきで、彼女はその桜の写真の下に視線を動かした。


 そこにあったのは、オカルト研究部の部員募集のチラシだった。


「それでわたし、オカルト研究部の部室を訪ねてみたんです」

 

 オカルト研の部室は東校舎の三階、文芸部室からそう遠くない教室のひとつだ。ちせが部室に入ったとき、そこには誰もいなかったし、誰かがそこでなにかをしていたような痕跡もなかったという。


 ただ、


「絵が飾られていました」


「絵?」


「はい。鏡を覗き込む女性の絵でした」


 そして彼女は、吸い寄せられるようにその絵に触れた。すると、


「気付いたら、この森の中にいて……」


 鏡。

 鏡をさがして、とましろ先輩は言っていた。


 考えることは、いまはできそうにない。ひとまず先程のエレベーターの前まで辿り着くと、菊池は躊躇せず上を示すボタンを押した。


「よくわからんね、全部」


 彼の言葉通り、俺たちには何もわからない。


「さっきの犬、なんだったんだろうな」


「……わかりません。ただ、直前に誰かに会いました」


「誰か?」


「はい。うちの学校の制服を着てた、たぶん女子。先輩なのかな。それと、女の子をふたり連れてました。小学生くらいの」


「……」


 市川だ。


「何か言ってた?」


「えっと。なにかよくわからないことは、言われました。もう覚えてません。警告、みたいに聞こえたけど」


「警告」


 瀬尾と一緒にいたときに会った市川も、なにか奇妙な雰囲気だった。すくなくとも、ここに迷い込んで、出口をさがしているという風ではなかった。


「ただ、隼さんのことを知ってるみたいでした」


「俺?」


「はい。えっと。『三枝くんに会ったら、次はひとりで会いにきてって伝えて』って。たぶん、隼さんのことだと思うんですけど」


「……だろうな」


 どうしてだろう。


 ずいぶんと奇妙な話だ。


 俺と市川は、アルラウネの夢の中で会うことができていた。その夢の中で市川と会えず、今、ちせと会っている。反対に、ちせを追いかけて桜の木の下の梯子を下りた先で、俺は市川に会った。そのときは、ちせは鏡のむこうにいた。

 どちらも似たような景色なのに、あべこべだ。


「ちせは、ここに来てから俺や瀬尾の姿を見た?」


「……? いえ。さっき隼さんを見たのが初めてです。青葉さんもいるんですか?」


 なにもかもがわからなくなりそうになったとき、エレベーターの扉が開いた。俺たちは何も考えずに乗り込む。どうなるかと思ったが、無事にエレベーターは動き始め、ささやかな不安のあと、さっきと同じように夜の校舎へと戻ってくる。


 来た場所に、来たとおりに戻れる。それがかえって俺を不安にさせた。


「ま、今考えたってしょうがねえよ」


 と菊池だけが軽やかな口調だった。


「このあとどうすんの」


 少し考えたあと、本校舎の、例の鏡を目指すことにした。二階と三階のあいだの踊り場。少なくとも瀬尾と来たときは、そこが出口だった。


 ちせは夜の校舎の雰囲気に怯えた様子で、俺と菊池のうしろにぴったりとついてきた。


「怖がることないよ」と菊池は言う。


「なるようにしかならないさ」

 

 なぜ、と、問うことを今はしない。それが正しいように思える。


 そして鏡の前に辿り着いたとき、ちせはその中を覗いて少し怯えたようだった。なにが映っているわけではない、鏡は鏡だ。

 

 鏡は見えない。

 鏡そのものは見ることができない。

 鏡を見たときに見えるのはいつも鏡に映った景色だけだ。


 俺は、この前と同じように、鏡に触れてみる。けれど、以前のようなことにはならない。鏡は鏡で、月明かりの校舎をかすかに薄暗く映しているだけだ。俺を真似て、菊池が同じように鏡に触れたが、何も起きない。

 

 別の出口を探さなければならないのか、と思ったときに、ちせが鏡に触れて、その目に驚きが宿った。


「え」


 となにかを言いかけて、彼女は俺のほうを見た。


「隼さん……?」


 もう一度、彼女は鏡を見る。俺には、当たり前の景色にしか見えない。


「どうした」


「隼さんが、映ってます」


「……」


 そりゃ、映るだろう、といいかけたとき、彼女の手が鏡のなかへと飲み込まれていることに気付いた。


「隼さ、」


 一瞬、鏡が液体のように溶けたように見えた。ちせの体はみるみるのみこまれ、やがて彼女の姿は鏡のむこうへとさらわれていく。俺と菊池はそれを呆然と眺めていたが、耳鳴りのするような静寂のあと、その場にちせはいなかった。


「……なんだ、いまの」


 さしもの菊池も真剣な顔で息をのむ。俺はもう一度鏡に触れてみるが、やはり何も起きないし、鏡は当たり前の景色を映しているだけだ。

「……またはぐれたか?」


 と、そう声をあげたとき、菊池の姿は消えていた。


 そして、


「考えてもみろよ」


 別の声が、耳鳴りのように響いた。


「罪の重さを、考えてもみろ」


 その聞き慣れた声に、今回は続きがあった。


「思い出せたら、また来い」


 言い含めるような、たしなめるような口調。


「マンドラゴラが誰なのか、思い出せたら、また来い」


 俺は思う。

 夢が覚めるのだ。


 そう気付いたときには視界は真っ暗で、目を開くと俺はアルラウネのベッドの上だった。頭痛のしそうな状況の変化に混乱したままでいると、不意に暗い部屋に光がさす。


「おや。ちゃんと起きたね」


 それが雅さんの声だと、俺は遅れて気付いた。


「ぴったり十五分。さすが」


 なにがさすがなのかはわからないが、俺は額を抑えるしかない。菊池も、ちせもいない。


「鈴音ちゃんは、やっぱり起きないか。会えなかった?」


「……はい」


 隣のベッドには、まだ市川が眠っているのだろう。俺は雅さんに礼を言って起き上がった。早めに頭を整理しないと、またおかしくなりそうだ。


 ひどく頭が痛んで、耳鳴りがやまない。雅さんは俺の様子を見て、しばらく休むように言い、俺は素直に従う。彼女は飲み物を用意して、俺の背中を軽くさすった。そういう種類の人のふるまいというものに、俺はひさしぶりにめぐりあったような気がする。


 考えるな、考えるな、考えるな。そう頭のなかで繰り返す。


 心配しちゃいけない、俺は今疲れてるんだ。余計なことを考えるのは、暗くものごとをとらえるのは、きまって疲れ切ったときだ。だから隙を突かせちゃいけない。


 隙を見せたら一瞬で、ぜんぶがわからなくなる。考えない、考えないほうがいい。


 不意に携帯がポケットのなかで震える。俺はようやくそのことに気付く。ましろ先輩からの電話だった。


「後輩くん、いまどこにいるの?」


「どこって……あれ、まだ時間は……」


 どう、なんだ。雅さんは、十五分後に起こしに来る、と言って、ぴったりに俺が目覚めたと驚いていた。だから、まだ時間は平気なはずだ。


「そうじゃなくて。えっと、後輩くん、もし近くにいるなら、いますぐ高校に行ってくれない?」


「……ちせから連絡がありましたか?」


「うん……うん! ……きみがなにかしたの?」


「……」


 考えるな。


 なにも。


「いま駅なんで、ちょっと遠いかもしれません。ましろ先輩は?」


「むかってるんだけど、まだかかりそうだから、もし後輩くんのほうが近かったらって思ったんだけど、じゃあいいや」


「いや、俺も向かいます」


「ごめんね。青葉ちゃんにも連絡いれたら、来るっていうから、とりあえずそっちで合流しよう。とりあえず、ちせは大丈夫そうだから」


 そう言って、電話を切る。


「ごめんなさい、すぐ行かないと」


「……もうちょっと休んだほうがいいと思うけどなあ」


 雅さんはあきれ顔をしたあと、眠ったままの市川の前髪を撫でた。


「夢のなかでなにかしたみたいだね」


「……どうですかね」


 考えるな、考えるな。


 あれは夢か、とか、現実か、とか。

 この現実はほんとうに現実なのか、とか。


 そんなことを考えてどうなる?


「とにかく、行きます。またあらためて来ます」


「そうね。鈴音ちゃんのこともあるし。車、出そうか?」


「……」


 市川はどうするんだ、と訊ねかけて、そもそも彼女の家に連絡が行っているのかどうか、いまさらのように疑問に思う。


「市川についていてあげてほしいですけど」


「ああ」、と彼女は頷いた。


「大丈夫だよ」


 それは確信のこもった口調だった。


「大丈夫って?」


「大丈夫なの」


 彼女はそう繰り返すだけだった。

 俺は、そこではじめて、なんとなく、彼女を怖いと思った。


「……じゃあ、お願いしてもいいですか」


「うん。もちろん」




 車のなかで、俺と雅さんは少し話をした。夢の内容について、俺が見る夢について、現実について、雅さんが、夢を診ることについて。


 アルラウネと、マンドラゴラの話をした。


「絞首刑になった罪人の精液からうまれ、絞首台の下に芽生えた植物」と雅さんは言った。


 引き抜けば悲鳴をあげる、人のかたちをした怪物。


 また、俺の夢のなかの景色についても話した。


「地下迷宮図書館」だと言っていたはずなのに、どうしてかそこは森だった、と。そう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。


「本は、木で、根だからね」


 その言葉の意味は俺にはわからない。


「文字は手紙で、文章は編み上げられたもの。文章を編み上げるのは繊維で、繊維は植物でできているから」


 と彼女は続ける。俺はその言葉の意味がわからなかった。


「だから、本は植物で出来た木。繊維で編み上げられたものの集合体。『手紙で編み上げられた木』。本は、だから木で、植物なんだよ」


「……」


 俺は不意に、ましろ先輩にいつか言われた言葉を思い出した。文藝の、文芸の字義。


 そして、マンドラゴラのことも。なぜだろう、ずっと植物の話をしている。


 

 


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