03-06 眠り姫


 ましろ先輩にはあとで直接報告をすることにして、一度通話を切る。


 考えるべきこと、話し合うべきことはたくさんあるように思えた。共有しなければいけない情報もまた、たくさんある。けれど俺と瀬尾は、とりあえず帰ってきたという安心感をゆっくりと味わうために、ひとまずそのまま部室に戻ることにした。


 途中、自販機でカフェオレを買って、すれ違う生徒たちの様子を眺めながら、その現実らしさを感じ取る。その現実らしさ……らしさ、という頼りなさ。さっきまでと、なにひとつ変わることのない感覚を引き連れて、俺たちは口に出さなくてもお互いにわかるくらいに混乱していた。

 

 その説明のつかなさにとらわれながら、けれど一歩踏み出して、その足がちゃんと床につくこと、そんなことをおそるおそる確認して安堵しながら、俺たちは部室まで辿り着く。


「とんでもないことになったね」


 と、瀬尾は言う。「とんでもないところだったね」ではない。とんでもないことになった、と。その感覚は、俺にも理解できる。


「ここは、現実、なんだよね、たぶん」


「……そうだな」


 たぶん、そうだ。


 この現実が夢だったとか、幻覚だったとか、そんなのは実感に反する。そんなことを認めてしまえば、認識の足場さえなくなる。何も語ることができなくなる。


 目の前に木がある。触れられる。匂いがする。それならば、木はそこにあるのだろう。

 

 目の前に木がある。たしかに見える。けれど手をすり抜け、匂いはしない。ならばそれは幻覚なのだろう。


 そういう種類の見分け方は、可能なのだろう、おそらく。……おそらくは。


 さっきまでの景色と今の景色、なにが違うのだろう。どこに差があるんだろう。人がいる。音が聞こえる。突然夜になったりしない、突然昼になったりしない、誰かがいなくなったり、あらわれたり、消えたりしない。奇妙な、得体のしれない声が聞こえたりはしない。鏡のむこうに、自分の姿が映ったり映らなかったりは、しない。


 当たり前に人がいて、当たり前に声が聞こえて、当たり前に時間が流れる、この当たり前さ、その連なり、不測の何かが起きてその当たり前が破られないかぎり意識さえされない当たり前さ、その当たり前さのなかの認識、これが現実なのだろうか。


 ほんとうに、それだけの違いなのだろうか。


 だとしたら、俺たちはさっきまでどこにいたんだ?

 

 ……そんなことを考えはじめたらきりがない。


 起きたことを、整理しなきゃいけない。


「整理」


 ホワイトボードを用意して、瀬尾はペンを持った。こういうとき、頭の中でごちゃごちゃと考えたくなる俺にとって、瀬尾のこういう一面は意外であると同時に頼りになった。


「梯子を下りて、扉の先に小部屋。変な声」


「うん」


「なんか、やめとけよ、みたいなこと言われた気がする」


「うん、だな」


 もともと七不思議についての調査だ。不思議なことに出会っても、まあ、そういうことが「あるのだろう」と思ってしまうしかない。


「で、進んだ先が夜の学校」


「うん」


「あきらかに現実じゃなかった気がする」


「……現実じゃないなら?」


「……わかんないけど!」


「……異境、とでも呼ぶしかないか、ひとまず」


「うむ。我々探検隊は異境に足を踏みいれたのである」


 茶化しでもしないと変になりそうな出来事ではある。


「んで、夜だった、学校だった、それで……」


 そう、そこからだ。


「通ってきた扉が、別のとこにつながってた」


「夜の校舎の屋上だな」


「うん。閉じ込められたね。それから渡り廊下で……女の子」


「市川だ」


「……市川さん」


「うちの部の幽霊部員」


「……あ、市川鈴音さん?」


「そう」


「副部長、知り合いだったの?」


「まあ」


「ふうん……?」


 なにか不思議そうな顔だったけれど、今はどうでもいいことだと思ったのか、追及されない。


「どうしてあそこにいたんだろ?」


「……」


 どこまで話すべきか、迷う。けれど、すぐわかる事実がひとつある。


「市川鈴音は、ちせがいなくなったのと同時期に学校に来なくなった」


「……それって」


 と、瀬尾は言葉を止め、


「……どういうこと?」


 と首をかしげる。


「わからん」


 わかるわけがない。


 瀬尾の文字がホワイトボードに踊る。梯子、部屋、声、夜の校舎、屋上、渡り廊下、市川さん。


「そういえば、鏡。どうして出口が鏡だってわかったの?」


「入る前、ましろ先輩に言われた。出られなくなりそうだったら鏡を探せって」


「……そのへんのこと、ましろ先輩に聞いた方がよさそうだね」


「うん」


「市川さんと一緒にいた女の子は、誰だったんだろう」


 女の子。見覚えのある、女の子……。


「迷子って言ってたな」


 そんなはずはない、と割り切って、市川の言葉を思い返す。

 

 でも、そっくりだった。

 瀬尾には言えない。


 そう思ったのに、彼女が口を開いた。


「なんか、見覚えがあったんだよね」


「……」


「誰かに似てなかった?」


 似ていた。

 まっすぐにこちらを見て、訊ねてきた瀬尾には言えない。


 あの女の子は、俺の幼馴染に似ている、と。

 彼女は六年前、俺が小学生だった頃に、ある日とつぜんいなくなってしまったのだ、と。


 そして、彼女は、鴻ノ巣ちどりは――瀬尾青葉によく似ているのだと。

 あの子は、ほかでもないおまえに似ているのだと、そんな話を今してどうなるというのだろう。

 自分でだって、よくわかっていないことなのに。


「……それで、渡り廊下で、急にふたりとも消えちゃったね」


「……だな」

 

「超常現象って感じ」


「そう思うしかないな」


 ここまで変なことが立て続けだと、現実的に考えるのは馬鹿馬鹿しい。俺たちはそこに常識を挟むのをやめた。


「で、極めつけは鏡だね。飲み込まれて、出てきたら現実……って言っていいのかわかんないけど、あっちじゃなかった」


「うん。問題は、鏡のむこうだな」


「ちせちゃんだったね。一瞬だったけど」


 何がなんだか、わからないと言ってしまえばそれまでだ。でも、つまりはそういうことだろう。


「ちせは閉じ込められてるんだろうな」


「……いちおう聞くけど、どこに?」


 俺は少しだけ考えた。


「鏡のなか?」


「……鏡のむこうは、異界だっけ」


「異境とどう違うんだか、いまいちわかんないけど。そのへんはましろ先輩に聞いてみるしかないか」


「ましろ先輩はなんて?」


「夜、こないだのファミレスで会おうって。時間は連絡待ち」


「そか。じゃあ、わたしたちも一回帰った方がいいね。なんか疲れたし」


「……だな」


「そだ」


 と、瀬尾は思い出したように声をあげ、


「聞いてなかった。答え。去年のクリスマスの話」


「……ああ」


 そういえば、聞かれていたっけ。

 あの日、俺に何が起きたのか。


 どこまで話すべきなんだろう。今の俺には判断がつかない。全部を話すのは、とてもじゃないけどできそうにない。それでも、聞けと言ったのは俺だ。


「どう説明すればいいのか、わからないけど。ぜんぶ、言い訳みたいになるし」


 あのクリスマスイヴの日、マフラーを巻いて、コートを着て、出かけようとした日曜日。待ち合わせをして、瀬尾と映画を見る予定だった、あの日、地下鉄に乗って数分後に、聞こえた声、聞こえ始めた声。

 馬鹿馬鹿しいよ、と声は言ったのだ。


 ――罪の重さを、考えてもみろ。


『アルラウネ』の雅さんは言った。夢は見る者に「何かを求めている」。その求めに応じない限り「夢は繰り返される」。


「変な声が聞こえるようになって、変な夢を見るようになって、それで……」


 どうにか言葉にできるのは、せいぜいその程度のことで、瀬尾はぴんと来ないような顔で、俺を見る。


 どんなふうに説明できるだろう。


「あのとき、急に身動きがとれなくなって、立ち上がれなくなって……」


 あのとき、俺は瀬尾に会うつもりだった。声はまるで、それを止めるみたいだった。


 俺が、クリスマスイヴに、瀬尾青葉と会うことを、いさめるような。間違っているというような。そう、それは間違っていることだ。俺も、そう思った。声を聞いているうちに、そうとしか思えなくなった。


「うん」


「……悪かったな」


 ううん、と瀬尾は言った。


「わかった。もう大丈夫」


 本当はそれだけじゃない、言いたいことも伝えていないことも、たくさんある。でもそれを今の俺には言うことができない。


「……とりあえず、解散にしよっか。ましろ先輩から連絡があったら、わたしにも教えて」


 そう言って俺たちはひとまず別れた。




 瀬尾と別れた俺は、この現実の現実らしさを確認しながら駅へと向かった。


 怪しげな地下への階段を抜け、何枚かのチラシが貼られた通路を通り、扉を開ける。


『アルラウネ』の扉は開かれていた。


「おや。まだ営業時間中だよ」


 雅さんはいつものような飄々とした様子で俺を迎えてくれた。


「暇そうじゃないですか」


「うん。まあね。そろそろ来る頃かなあと思ってた」


「……どういう意味ですか?」


「聞きたいことがあるんでしょ?」


 奇妙に落ち着いた笑みを浮かべられて、俺は落ち着かない気持ちになる。 


「とりあえず、見てもらったほうが早そうだね」


「……なにがですか?」


「奥の部屋へどうぞ」


 椅子から立ち上がって、雅さんは俺を手招きして扉を開けた。


 何度もくぐった扉。そのときはいつも市川がいた。


 ベッドが並んでいる、その薄暗い部屋。


 そのベッドの上に、市川鈴音は眠っていた。


「……いや」


「うん?」


「さすがに、意味がわからないです」


「うーん……」


 どう言ったもんかな、という顔を、雅さんはする。


「実はね、ずっと眠ったままなんだ」


「ずっと、って、いつから?」


「……先週の火曜日くらいかな?」


 ……ちせがいなくなったのと同じ日だ。


「そこからずっと、こいつは寝たきりですか」


「うん。困っちゃってね。ほっとくわけにもいかないから、わたしも最近はここで寝泊まりしてるんだけど。鈴音ちゃんのことで来たんでしょ? 夢のなかでは会えた?」


「……」


 夢のなか。夢のなか?


「いや。俺はさいきん、あの夢は見てなくて……でも、会いました」


「……どこで?」


「異境……?」


「……異境ね。そっちは専門外だな。ま、とにかくさ」


「はい」


「これ、わたしにはどうしようもないから」


 と言って、雅さんは市川を見た。


「どうにかできるのは、きみだけなんだと思うよ」


「……って、言われても」


「どうする? 寝てみる?」


「……今日は、このあと用事が」


「十五分くらいなら大丈夫でしょ。わたしが起こせば平気じゃない?」


「……」


 たしかに、夢のなかでの時間は、現実とは少し違う。けれど、


「俺が起きられなくなったらどうします?」


「わたしが床で寝ることになっちゃうなあ」


 雅さんは苦笑した。俺は、眠ったままの市川の姿を眺める。


「どうする?」


 と、再度雅さんは訊ねてきた。

 俺は少し考えたあと、小さく頷く。

 

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