03-05 鏡のむこう


 瀬尾と俺は手をつないだまま、階段を降り廊下を歩いた。いつもの屋上を降りたときの景色。ここは東校舎の三階だ。見慣れたはずの景色も、時間が変われば急に不気味に思えてくる。もっとも、俺は夢のなかで、こんな景色のなかを歩いたことがある。


 いやに肌寒さを感じる。


「さっきの声、なんだったのかな」


「わかんない」


「……そりゃそうだよね」


「そう」


 考えたって仕方ない。

 

 放課後、桜の木の下で変な梯子を見つけて、地下に降りた先で夜の屋上に辿り着いた。この時点でおかしいのに、そこで子どもの声を聞くなんて、常軌を逸している。

 

 俺がひとりだったら夢だと思っていたことだろう。

 あるいは……これは夢なのか?


 短くかぶりを振ると、「どうしたの?」と瀬尾がこちらを窺う。俺は「なんでもない」と答えた。瀬尾はきゅっと俺の左手を握る手に力をこめた。俺は反射的に、その力に応えるように握り返す。


「ふふ」


 と、不意に彼女は笑う。


「なに」


「ううん、こんな状況だけどさ」


「……?」


「……やっぱ、なんでもない。ね、どこにむかってるの?」


「部室」


「……なるほど」


 瀬尾を先導するみたいにして、俺は歩く。目的地はとりあえず、いつもの部室。誰も居ない、時折子どもの笑い声が遠くに響く校舎のなかを、俺と瀬尾は歩き続ける。


 東校舎三階の隅、文芸部の部室の扉はいつもどおりの様子だった。

特に考えもせず扉を開ける。やはりそこは文芸部室だ。中庭だったり図書室だったりはしない。


「……部室だね」


「まあな」


 誰も居ない。俺と瀬尾がいるだけだ。さて、ここからどうするか。

 どうするか、というか、どうできるのか、が正しい。

 

 瀬尾が言っていたとおり、状況としては二重遭難みたいなものだ。このままちせを探してさまよってもいいけれども、見つけたところで帰り道がわからない。そもそもこんな異様な状況で、ちせが当然のようにこの謎の校舎のどこかにいると考える方がおかしな発想かもしれない。


 ポケットから携帯を取り出す。圏外。考えるまでもない。

 

「……そうだな」

 

「わたしたち、出られるのかな」


「さあ」


 閉じ込められただけならまだ抵抗もできる。

 でも、通ってきた扉の先が屋上ならば、校門を出て街に出たとしても、そこは元の街でもないかもしれない。ただこの夜の風景が続くだけかもしれない。ある意味で完全な密室だ。


「……瀬尾、鏡ってどこにある?」


「鏡? 七不思議のやつ?」


「七不思議?」


 そんなのあったっけ。


 俺が疑問に感じているのを表情から読み取ったのか、瀬尾は説明をくれた。


「ましろ先輩の去年の原稿にあったやつ。鏡のむこうの異界、っていうの」


「そういえば」


 信憑性が薄い、と書いていたそのなかに、そんなのがあったっけ。


「……信憑性が薄い」


 などと言っているわりに、彼女は俺にむけて、「出られなくなりそうだったら鏡をさがして」と言った。


 それをどう受け止めればいいかはわからないけれど、いずれにしてもヒントがあってよかった。もちろんそれが正解だとはかぎらない。そうだとしても、期待が持てる。


「あの鏡は、たしか、本校舎だよ。二階と三階の階段の踊り場」


「行ってみるか」


「なんで鏡?」


「ほかに手がかりがないから」


 瀬尾はむっとした顔で唸った。


「行くっていうなら、ついてくけどさ」


 そう言って、瀬尾はふてくされたみたいな顔で頷いた。どういう感情なのかはわからない。


 部室を出て、今度は渡り廊下へとむかう。その途中で不意に、窓のむこうに誰かの姿を見た気がした。


「いま」


 と声をあげると、瀬尾もまたそちらを見ていることに気付く。


「渡り廊下に誰かいた?」


「……うん」


 どうせ目指している方向だ。怖くはあるけれど、ここまで来たら何に出会っても仕方ない。


 そう思ってただ歩く。

 近付くたびに、それがたしかに人のかたちをしているとわかる。


 やがて、その顔が見える。その顔がわかる。


「や」


 と彼女は言う。

 

「……なんで」


 不思議そうな顔で首をかしげる彼女を見て、俺はそれ以外言えなかった。瀬尾は俺の手を引っ張って、どうしたのかという顔をする。


「……市川」


「ひさびさだね、三枝くん」


 ここで会うのが当たり前みたいな顔で、彼女は言った。

 

「なんでここにいる」


 問いかけると、また彼女は不思議そうな顔をする。


「なんでって……いまさら?」


「……ね、副部長、この子だれ?」


 不安そうな声で、瀬尾がそう訊ねてきた。彼女たちは初対面なのか、どうだったか、そんなことさえ覚えていない。


「三枝くん、いつもと様子がちがうね。それに、そっちにいるのは、瀬尾さん?」


「……」


 名指しされて、瀬尾は俺の背中に隠れるように市川と距離をとった。


「やっぱり、仲いいんだね」


 と、彼女はくすくす笑う。


「おまえ、急に学校来なくなったと思ったら、こんなとこでなにしてるんだ」


 湧き上がった疑問を、市川にぶつける。どうしてここにいるのか。ここでなにをしているのか。その問いは本当に湧き出たものだ。でも、なにか違う、そうじゃない、という感覚が強い。なにか間違っている。俺はそれに気付いている。


「なんでもなにも」


 なんでもないことみたいに、市川は鈍く苦笑した。


「いつもどおりだよ。知ってるとおり」


 なにか言いようのない落ち着かない感覚に、俺はそれ以上考えるのをやめた。市川がいる。夜の校舎に。こういう光景を、俺は何度も見た。……夢のなかで。


 市川は、くすりとまた笑う。すると、彼女の背中から、ひとりの少女が、おそるおそるといったふうに顔をのぞかせた。


 小学生くらいの女の子だ。怯えるように、こちらを見ている。俺と目が合うと、なにか驚くような顔をした。


「……それ、誰」


「わかんない。迷子みたい」


 市川が視線を向けると、少女は彼女の制服の裾を掴み、眉をよせてこちらを見た。なにかをたしかめるような、そんな雰囲気だ。


 俺は、その顔に見覚えがある。


「……知ってる子?」


 市川の質問にどう答えるか迷っていると、不意に窓の外で大きな鳥が羽ばたくような音が聞こえた。

 一瞬だけ月が遮られ、渡り廊下にさす月光が途切れてまた浮かぶ。


 視線を戻すと、渡り廊下の先に立っていた二人の姿はなかった。


 瀬尾が、何も言わずに俺の手のひらをきゅっと握った。

 俺は深くため息をついて、瞼を閉じる。これ以上考えるのは今はよそう。


「瀬尾、大丈夫?」


「ぜんぜん大丈夫じゃない。かえりたい」


「だよな」

 

 俺もそんな気分だ。


 いずれにしても、俺たちは渡り廊下を抜け、本校舎へとむかうしかない。


 もう子どもの笑い声もきこえない。


 例の鏡に辿り着いたとき、瀬尾は泣き出しそうな声を出した。


「もうやだ」


「大丈夫だから」


 根拠はなかったし、大丈夫だなんて思ってもいない。

 でも、とりあえずそう言うしかない。


 鏡をさがして、それで、ましろ先輩はどうしろって言うんだろう。


「夜の鏡って、なんでこんなに不気味なのかな」


 わかんないよ、と答えようとして、やめた。


「大丈夫だから、もうちょっとだけがんばれ」


「……じゃ、がんばったら、ご褒美ちょうだい」


「なにそれ」


 苦笑しつつ、俺は鏡に近付いた。


「……ずっと聞きたかったこと、あるの」


「ん」


「がんばったら、ご褒美に、きいてもいい?」


「……いいよ。べつに今でもいいけど」


 鏡に、ほっとしたような顔の瀬尾の表情が映った。それを眺めながら、俺は鏡に触れようとする。


「去年のクリスマスイブ」


「……」


 瀬尾の声は少し震えていた。


「副部長の身に、なにが起きたの?」


「……なにって」


「どうしてあの日、約束の時間に、副部長は来なかったの?」


 俺は、答えあぐねつつ、鏡に触れた、そのとき、

 鏡のむこうの景色が変わった。


「……え」


 と、うしろで瀬尾も声をあげる。


 けれど、変わったのは景色ではなかった。映っている人物が変わったのだ。背景は、夜の校舎の階段。こちらとむこうで、当たり前にそのとおりを映している。


 けれど、

 鏡のむこうにちせがいる。ちせと、目が合った。

 彼女はあきらかにこちらを見て、驚いた顔をして、助けを求めるように手を伸ばしてきた。


 俺の指先が鏡に触れる。まるで水のように、鏡の面が揺らぐ。その指先がのみこまれていく。


 俺のからだが、なにかに引っ張られるように鏡にのみこまれそうになった。瀬尾は俺の手を強く掴んで、逆らうように力をこめる。けれど、引きずるようなその感覚は徐々に強くなっていく。


 やがて、俺の体が完全に飲み込まれ、その勢いで、手をつないだままの瀬尾が俺の体にぶつかってきたのがわかった。


 とっさに閉じた目を開いたとき、俺たちの耳にきこえたのは雨音だった。俺と瀬尾は階段の踊り場に鏡から飛び出してきたように重なって転んでいて、窓の外の曇り空からは雨が降っていた。いつから聞こえていたかもわからない耳鳴りが止むと、校舎のなかから誰かの話し声が聞こえる。


 俺のポケットの中で携帯が震えた。画面を開くと、ましろ先輩からいくつものメッセージが届いている。「大丈夫?」「鏡をさがして」「返事して-!」と、何件ものメッセージが時間をおいて送られていたのが、いま一気に届いたらしい。なかには着信の履歴もあった。


「……」


「ここ、は……」


 俺は、とりあえず、ましろ先輩に通話をつなげた。彼女は二コールくらいで出た。スピーカーにして、瀬尾にも聞こえるようにする。


「もしもし」


「もしもし?」


 慌てたようなましろ先輩の声を、俺は初めて聞いた気がする。


「えっと」


 なにから話せばいいかわからなくて、俺は数秒考えたあと、


「ここは現実ですよね?」

 

 と訊ねた。ましろ先輩はほっとしたようにため息をついた。


「もし傍にいたら、ほっぺたをつねってあげるんだけどね」


 それを聞いた瀬尾が、真剣な顔で俺のほっぺたを軽くつねった。瀬尾とつないでいた手を離して、俺も彼女のほっぺたをつねってみた。


 痛いことは痛い。


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