03-04 夜空
「えっと、どうする。ふたりとも行く?」
「……どっちにしても、一度俺だけが降りて確認してくるよ」
「男の子……」
「……」
どんな顔をすればいいのかわからず、とりあえず苦笑するしかない。
「瀬尾はここで待ってて」
「懐中電灯とか、必要じゃないかな」
「とりあえず確認するだけだし、スマホのライトで十分じゃないかな」
というと、自分の感覚としては正確じゃない。
むしろ、『どのような準備をしたところで、それは無駄ではないか』という感覚がする。
どうしてだろう。
ましろ先輩が異境と言ったからでもなく、ちせが現にいなくなってしまったからという理由でもなく、七不思議とか、奇妙な扉とか、そういうことの不可解さに戸惑っているというわけでもなく、この扉は、この梯子は、そういう種類のものではない、と感覚が告げている。
「……とりあえず、行ってみるよ」
「気をつけてね。梯子、こわれたりするかも」
「……逆にそれくらいで済んだほうがいいかもな」
「それくらいじゃないよ。怪我するよ」
「そのときは誰か助けを呼んでくれ」
冗談まじりに言うと、瀬尾は真面目に「うん」と頷いた。
「待ってるね」
「うん」
俺は梯子にゆっくりと体重をかけるところから始めた。人一人がようやく上り下りできそうなくらいの大きさの穴は、少しでも降りると真っ暗になりそうだが、降りれば降りるほど目が慣れて、上からの光でどうにか様子がわかるようになる。
そして、思ったよりはその梯子が浅い部分で終わっていることがわかった。そうは言っても、三メートルほどはありそうだが、少なくともアリスが落ちた穴ほどではない。
スマホのライトをつけて周囲を照らす。光源としてはあまりに心許ないが、とりあえずは大丈夫そうだ。
梯子を降りた先は小部屋のようになっていた。天井は低く、左右は壁に囲まれている。正面には、無機質な扉があった。
俺はその扉に近付いて、ノブを回してみる。
空回りしそうな頼りない感触で、けれどそれはちゃんと開いた。
すると、扉のむこうから、薄暗いが光が漏れた。
扉を開けきると、その先は通路のようになっていた。
左右にはやはり壁。天井は少し低いが、あきらかに不自然な、切れかかった裸電球が等間隔でぽつぽつと、通路を照らしていた。あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音がやけに大きく響いた。
どうしてだろう。
俺はここに来たことがあるような気がする。
そこで、
「やめとけよ」
と、声が聞こえた。
……どうして、今。
「考えてもみろ」
と、声は言う。嘲るような、白けたような、それでいてどうしてか――どうしてなのだろう?――苦虫を噛みつぶしたような声で。
「おまえのためを想っていってるんだ」
いつか聞いたような言葉を、声は繰り返す。
「罪の重さを、考えてもみろ」
立ち止まり、俺はじっと耐えた。
やがて、耳鳴りだけを残して声は去っていく。
俺は一度梯子のところに戻り、瀬尾に声をかけた。
「聞こえるか?」
「ん」
「とりあえず大丈夫そうだから進んでみようと思うけど、どうする?」
「ひとりで行く気?」
「まあ、そのほうが安全かなと」
瀬尾は考えるような間を置いたあと、
「行く」
と言った。
「あの、副部長」
「ん」
「下向いててくれる?」
「梯子を踏み外したら危ないから、目を離さないほうがいいと思うけど」
「……わざと言ってるだろ。スカートなの!」
「そうだったな」
俺は頷いた。
「暗くてみえないけど、下見てる?」
「うん」
「信じてるからね」
かつかつと音がして、瀬尾がゆっくりと降りてくる。
少し降りてきたあと、
「上見てるじゃん!」
と怒鳴られた。
「つい」
「ついじゃないよ……」
瀬尾は片手を離してスカートを後ろ手に抑えた。
「……わざとじゃないんだ。つい」
「……ちょっとどころじゃなく意外でびっくりしたけど、とりあえず下向いて?」
言われたとおり、今度は顔を伏せておく。変な悪戯心を発揮する場面ではなかったようだ。
瀬尾は梯子を下りきって、ふう、とひとつ息をついたあと、俺の顔を恨めしげに見た。
「なに」
「……や。副部長、わたしのスカートのなかとか覗きたいのかなって。ていうか、うれしいものなの?」
「……様式美かなあと」
あえて多くは語るまい。
納得のいかないようなすねた視線をこちらに向けたあと、瀬尾はあたりをきょろきょろ見回して、すぐに扉に気付いた。
「暗いね」
彼女の声は少し怯えているように聞こえる。
「扉のむこうは通路になってて、照明があった」
「照明?」
「うん。電気は通ってるみたいだ」
「……へんなの」
ほんとうに、その一言に尽きる。
なにかの設備がこんなところにあるとも思えないし、電気がつけっぱなしというのも奇妙だ。
一度梯子の上を見上げる。さっきまでと変わらない、外からの光はまだ差し込んでいる。
「どうするの?」
「進めるところまで進んでみるしかないんじゃないか」
「でも」
と、瀬尾はなにかをいいかけて、やめた。
俺だってわかっている。
もし仮にここにちせが来ていたとしたら。まさかこんなところで生活しているわけもないだろう。どう考えたって何かが起きてもおかしくない。
桜の木の下の死体。
俺たちがそうなったって、もしかしたらおかしくないかもしれない。
ここまでならまだ引き返せる。でも、どこかで引き返せなくなるかもしれない、戻れなくなるかもしれない。だって、ちせは現にいなくなったままなのだから。
あるいは、俺たちが出会うのは、ちせの死体かもしれないのだ。
「進んでみるしかない」
「……うん」
あきらかにおかしい空間。あるはずのない空間。
それでも、調べてみるしかないだろう。
俺が扉を開け、先に進む。瀬尾はおそるおそるといったふうに、けれど俺から離れないようについてきた。
裸電球のあかりのおかげで、通路を歩くのはむずかしくなかった。向かう先にある扉はひとつだけなので迷うこともない。それなのにひどく頼りない気持ちだった。ひとりだったら飲み込まれていたかもしれない。
次の扉は、まだ開けていない。
瀬尾と俺は一度立ち止まる。俺は静かにノブを回した。
やはり、扉は開く。
「行くぞ」
「うん」
そのむこうもまた、小部屋のようになっていた。部屋の天井からは裸電球がつり下がっている。中央には、黒い竹編みの椅子が置かれていた。あたりを見回すが、誰も居ない。薄暗いけれど、何もないことはすぐにわかる。椅子のむこうには、また扉がある。
ちかちかと、電球の明滅だけが妙に寒々しい。
「……椅子」
「だな」
椅子。主を待つような、あるいは、主の去ったあとのような、椅子。
「……瀬尾、座ってみる?」
「遠慮しておくね。気味悪いし」
「……だな」
俺たちはその椅子を素通りし、次の扉へと向かう。
「ここまでは一本道だな」
「……なんか、『注文の多い料理店』みたいなきもち」
「べつに注文はないみたいだけど」
けれど、たしかにそんな感じだ。
あきらかに不穏で、扉をひとつ進むごとに、不安が増していく。
扉をあけようと、手を伸ばしたとき、
「やめておけよ」
と、うしろから声が聞こえる。
俺は思わず振り返った。けれど、そこにはやはり椅子があるだけだ。
無視しようと思ったところで、瀬尾が俺と同じ方向を振り返り、怯えたような顔をしていることに気付く。
「副部長、いまの……」
「……なに」
まさか、と思いながら、俺は瀬尾を見た。
「きこえた?」
「……なにが」
どう答えるべきか迷う。
「いま、声がしなかった?」
「……どうかな。気のせいかもしれない」
「……そっか。そうだよね」
あきらかに、瀬尾は動揺していた。
「引き返すか?」
「……ううん」
それでも、やはり彼女は戻ろうとはしない。
「変なことが起きるかもっていうのは、ある程度覚悟してたから」
「そっか」
「進もう」
俺たちは扉をくぐる。その先には階段がある。
けれど、違う。
さっきまでの景色とは、違う。
ここは……。
「……ねえ」
相変わらず薄暗いけれど、さっきまでのような埃と黴の臭いはしない。光源も、もう裸電球ではない。
景色はさっきまでとは変わってしまった。
「どういうこと?」
と、瀬尾は声をあげた。
「わからない、けど」
リノリウムの階段を少し降りた先には踊り場があり、そこには窓がある。窓の外からは月の光が差し込んでいる。空が見えるのだ。けれどそれも、さっきまでの曇天の夕空ではない、夜空だ。
俺たちは、わけのわからないまま、自分の目に映る景色をたしかめるように、一段ずつ階段を降りていく。
踊り場からは中庭の様子が見えた。大きな欅が夜の静寂のなかでひっそりと佇んでいる。月明かりは奇妙に明るくあたりを照らしていた。俺と瀬尾の影が、階段にそってジグザグに長く伸びる。
「学校、だな」
「……」
瀬尾は、はっとした顔をしてうしろを振り返る。
「どうした」
「……扉、閉めてないのに」
言われて振り返ると、たしかに鉄扉は閉ざされていた。
俺たちは階段を昇る。そしてまた扉のノブを回す。
ドアは開いた。けれど、
「……」
そのむこうは、もうあの奇妙な地下の小部屋ではなかった。広がるのは星空だけ。そこは夜の屋上だ。いつも俺が休んでいる、あの場所があるだけだ。
まいったな、と俺は思った。
こんなことは、夢のなかだけで十分だ。
状況が理解できずに佇んでいると、不意に、どこかから誰かの声が聞こえた気がした。
「……ね、副部長」
「今のも聞こえた?」
「……うん。遠かったけど、たぶん」
「子どもの笑い声だったか?」
俺の言葉に、瀬尾はこくこく頷いた。少し顔色が悪いようにも見える。彼女は寒さでも感じているかのように両腕で自分の体を抱いた。
ひとつため息をついて、俺は彼女の頭をぽんぽんと手のひらではたく。
「……なんだよう」
すねたような、心細いような声で、瀬尾は強がって笑ってみせた。俺はポケットから携帯を取り出す。圏外だ。
「まあ、現実逃避してても仕方ないから、言葉にするぞ」
「……ん?」
「たぶんここは、異境ってやつだな」
「……そんなこと言われたって」
「どうせ戻れないみたいだ。行こう」
「……副部長、あんまり怖がってない?」
「まさか。めちゃくちゃ後悔してる。帰りたい」
瀬尾は呆れたみたいな顔をした。
「ほら、いくぞ」
実際、怖いに決まってる。意味がわからない。でも、言葉にしたとおりだ。戻れない。そして、ここに立ち尽くしていても仕方ない。俺がパニックになれば、瀬尾が不安がる。ましてや、そう、俺たちはちせを探しにきたのだ。ここはアタリかもしれない。
「こういうの、二重遭難っていわない?」
「そのときは、ましろ先輩もこっちに探しにきてくれるかもな」
「……ちせちゃん、いるかなあ」
「まあ、歩き回ってみよう」
「……うう」
「瀬尾」
「ん」
「手、貸せ」
「え」
戸惑った声をあげて、瀬尾はおずおずと、こちらに向けて右手を差し出してくる。俺はその手を黙って左手で掴んだ。
「な、なに……?」
「気にするな。念のためだ。嫌だろうけど」
「……や。いやってわけじゃなくて」
よっぽど怖いのか、瀬尾はいつもの数倍頼りなさげだ。なにか言いたげなまま、ただ俯きがちになって抵抗もしない。
そんなとき、どこかから、また子どもの笑い声が聞こえる。
俺は、こんな景色を知っている。
俺は、夢のなかで、こんな光景を見た。
「大丈夫だ」
と、俺が根拠もなく言うと、瀬尾はどこかすねたような、不服そうな顔で頷いた。
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