03-03 入口
放課後、俺と瀬尾が文芸部室で頭を抱えながら唸っていると、遅れて大野辰巳がやってきた。「ど、どうした」と驚いた顔をされてしまうが、こちらとしてはあまり気にしてもいられない。
「悩んでいる」
「なにをだ。……と、話してる場合じゃないな」
「うん?」
「ほら」
と、大野は俺の傍にやってきて、机の上にメモ用紙を置いた。日付と人の名前が四つほど並んでいる。
「仕事が早いな」
「それなに?」
「ここ二、三週間の間にボルヘスの『幻獣辞典』を借りた人間のメモだよ」
「ほう」
瀬尾が興味深そうに身を乗り出してくるが、その前に俺が一通り目を通す。
「早かったな」
「まあ、貸出カードから書き写しただけだからな」
このご時世に貸出カードというのもないものだと思わなくはないが、いずれにしても感謝はしておく。
しかし、取り立てて驚くようなことは書かれていない。
まず最初が市川鈴音。これは五月のこと。俺が目撃したのと時期は合致している。
次に並んでいるのが、小松ななみという名前。日付的には部誌を完成させる前の話。ちょうど、ちせが俺に七不思議の話を屋上でしてきた日の少し前だ。そしてこの小松という名前は、俺が今朝ちせのことを聞き込みをしたときに、「ちせと仲がよかった生徒」としてほかの生徒たちに紹介され、ちせを最後に見たのが火曜の放課後だと教えてくれた女子生徒のものだ。この小松ななみという生徒が、おそらく「予言の手紙」もとい謎のメモを最初に見つけた人物ということになる。借りていたのは一日だけだった。あとで話を聞きに行ってもいいかもしれない。
次に並んでいるのは、宮崎ちせ。つまり、ちせ本人。一応内容に目を通したのだろう。ちせからはあまり詳しく「いつメモが挟まっていたか」を聞いていないので、その日付から読み取れることは少ない。
いちばん最後の日付は今日。名前は三枝隼。つまり俺だ。
当然といえば当然だが、「幻獣辞典」なんて人気のあるようなタイプの本ではないから、貸出はこの四人だけだった。
「じゃあ、俺はもう図書室に戻るから」
「ああ、悪かったな」
カウンターの担当時間を放り出してきたらしい大野に礼を言う。彼は「珍しいものをみた」という失礼な顔であっさりと去っていく。
さて、こうなると貸出の履歴からメモを挟めた犯人を見つけるというのは難しい話になる。
「誰がメモを挟んでるんだろう?」
瀬尾もやはりそこが気になるのか、頬杖をついて眉をひそめた。そんな表情がいちいち子どもっぽい。
「……なに。なんでにやにやするの」
「……俺が? にやにやしてた?」
「してた」
「してないしてない」
「してたよ!」
俺はそっと瀬尾のほうから視線をそらし、さて、どうしたもんかな、と考える。
とはいえ、本当に考えなければいけないことは、『誰がメモを挟めたか』ではない。『ちせがどこにいるのか』だ。
今は月曜の放課後。彼女がいなくなってから、明日で一週間が経とうとしているわけだ。あんまり悠長にしてもいられない。時間がかかりすぎると、まずいことになるのかもしれない。……もっとも、どんなふうにまずいことなのかという想像はあまりつかないけれど。
「とりあえず」
「うん?」
「コントローラーに指示を乞うか」
「なるほど」
というわけで、今日の一連の動きのすべてをましろ先輩に報告することにする。
・ちせを最後に目撃したのは、おそらく火曜放課後の文芸部室。
・ちせは七不思議について調べていたものと思われる。
・ちせの足取りそのものについての芳しい情報は得られなかった。
整理すれば整理するほど進捗は芳しくはない。けれど……。
・図書室の『幻獣辞典』をちせは借りていた。
・『幻獣辞典』のメモの内容が新しくなっていた。
内容は、
マンドレイクの項→「桜の樹の下には死体が埋まっている」
から、
ミノタウロスの項→「騙されないものはさまよう」
に変わっていた。
さて。
これらの情報と呼んでいいかもわからない情報を、ひとまずまとめてましろ先輩に送る。すぐには既読がつかないが、そのあいだに少し考えたいことがある。
「騙されないものはさまよう」
という言葉の、その意味について。
「瀬尾、ちょっと聞いてもらいたいんだけど」
「うん?」
「『騙されないものはさまよう』ってどういう意味?」
「……わたしが知ってると思う?」
当然そうなる。俺たちはその言葉を、何かの引用だと思った。何らかの含意がある、何らかの暗号のようなものだと受け取った。
「そうじゃなくて、その言葉自体が、どういう意味かって話」
「……ん? どゆこと?」
「俺もうまく整理できてるわけじゃないんだけど」
「……うん」
「これ、つまり、『騙されるものはさまよわない』ってことなんじゃない?」
「……つまり……の続きの意味がわかんないけど。騙されるっていうのは、なにに?」
「『騙される』っていうのは、嘘を真に受けるってことだろ」
「うん……うん」
「『嘘を真に受けない人間』は、『さまよう』」
「えっと……」
「ってことは、『嘘を真に受ける人間は、さまよわない』」
「うん……?」
騙されないものはさまよう。
騙されるものはさまよわない。
さまようものは騙されない。
さまよわないものは騙される。
「つまり、何が言いたいの?」
「……仮に、七不思議とか、そういうのを脇においてさ」
「うん」
「これが単に暗号だとしたら、それがどこからの引用かなんていうのはどうでもいいってことなんじゃないかな」
「というと?」
「このメモ、『二通目』なんだよな。『騙されないものはさまよう』。でもこれだけだと、『騙されないって、なにに?』って話になる。でも、『一通目』のことを考えたら? 『桜の樹の下には、死体が埋まっている』。俺たちはこれを梶井基次郎の引用に過ぎないって思ってた。つまり、この文章が嘘だと思ってたわけだ」
「……何が言いたいの?」
俺もよくわかってない。けれど、二通目が一通目の補足だとしたら、『一通目の内容を真に受けないものはさまよう』とはならないか。
つまり、
「桜の樹の下には、ほんとうに死体が埋まってるってこと?」
一瞬、そう考えそうになる。けど、
「違う。それは嘘だ」
「……ぜんぜんわかんないんだけど」
「『騙されない』と書いている以上、それはやっぱり嘘なんだ。嘘だけど、それを『真に受ければ』『さまよわない』」
「……って、言っても。ううん。この場合だと、『騙されないものはさまよう』から、『騙されるものはさまよわない』なら、『桜の樹の下に死体が埋まってる』って嘘を真に受けると……」
「真に受けたらどうする?」
「……確認する? 桜の樹の下に、死体があるかどうかを?」
そういうことだ。
「えっと。つまり、さまよいたくなかったら、桜の樹の下を掘れってこと?」
「……と、なると思ったんだけど」
そして、ちせも同様のことを考えたなら、彼女は桜の樹の下を調べようとしたのではないか。
死体があると思って、ではない。そこに何かがあると思って、調べようとしたのではないか。
「……そういう考え方もあるか。そうだよね、だって、もしあのメモがなにかのメッセージだとしたら、誰かを桜の樹の下に誘導してるように見えるもんね」
桜の樹の下には、死体が埋まっている。そう聞けば、桜の樹の下に向かってみたくはなる。
「でもさ」と瀬尾は眉を寄せた。
「桜って、校門の桜かな? 中庭は欅だし。グラウンドにも桜はあるけど……でも、どっちにしても、ちせちゃんの靴はあった。なくなったままなのは上履きだよ」
「……ふむ」
「……まだ何か足りない気がするね。なんか、七不思議方面で真剣に考えるの、けっこう馬鹿らしい気もするけど」
「とはいえ、ほかに辿るべき道筋もないしな……」
「そうだけど……ね。うーん。逆に、引用元にヒントはないのかな?」
「……引用元、って言ってもな」
梶井基次郎の方はともかく、ラカンを辿るのはさすがに難しそうだ。
「『桜の樹の下には』だったら、ネットで読めるはずだけど」
「ふむ……」
瀬尾は自分の携帯を取り出して画面を睨んだ。目を通してみるつもりなのだろう。
桜の樹の下。
ましろ先輩からの返信はまだない。俺は立ち上がって、飲み物を買いにいくことにした。
「自販機行ってくるけど、瀬尾はなんか飲む?」
「カフェオレー」
読み始めたところなのか、瀬尾は顔をあげなかった。俺は部室を出て、階段を降り一階へとむかう。一階、中庭に面した本校舎と東校舎をつなぐ通路にも自販機がある。なんとなく外の空気が吸いたかったので、あえてそこへと向かった。
中庭をちらと覗いてみるが、やはり桜はない。欅しかない。
「ううん……」
第一、仮にほんとうに「桜の樹の下」だったとしても、ちせならばそこを掘るような真似はしない。というかその下には土しかない、というのはわかりきったことだ。
とはいえ、思いついたことは一応確認しておくかと、飲み物を買う前に昇降口に向かい、靴を履き替える。
校門へと向かうが、いまの時間はちょうど人気がなかった。みんな部活をしているか、委員会の活動をしているか、あるいは、帰るものはもう帰ってしまったのだろう。
校門の近くにある大きな桜の樹。その下に、『死体が埋まっている』。そんなわけはない。
六月ともなれば、桜はもうイメージのような桜めいてはいない。梶井基次郎や坂口安吾が描いたような、おそろしいほどの美ではない。それでも空には暗い雲が立ちこめて、雨がいまにも降り出しそうで、なんとなく俺は身震いした。
「……」
あそこは異境の入り口だから、という言葉を思い出す。
去年、ましろ先輩がそう言っていたのだった。
冗談めかして、桜の樹の下は異境の入り口なのだと。たしか、例の七不思議にまつわる部誌を発行した直後だった。
桜の木の守り神、というような胡散臭い七不思議。それについての話題だったと思う。
彼女は桜の木が特別なのだと言っていた。そこにはなにか「おそろしいものが宿っている」。
死体でも埋まっていると考えなければ納得がいかないほどに。
……死体。
「……え」
と、思わず声が漏れた。
はじめは気のせいかと思って、俺は桜の木の下へと近付いた。
少しだけ離れたところ、下生えに隠れて見えにくくなっているところに、鉄板のようなものが見えた。ちょうど、校門を通るときには、木か門の陰になって見えないような場所。
板には把手がついている。俺はかがみ込んでそれを握った。
さびた感触とずしりとした重さは、けれど思ったよりも簡単に持ち上がる。
こんなものがあるはずがない。こんなものはなかった。ましてや木の傍に。けれど、そこには穴と、梯子がある。
「……」
これがもともとあったもの、であるはずがない。なにかの理由で地下に空間が必要だったとしても、木の傍にそれを掘るわけがないし、こんなふうに施錠もせず、簡単な蓋だけをして放置しておくわけがない。
俺は自分が動揺していることに気付いて、立ち上がって息を整えた。それから、ポケットからスマホを取り出して、瀬尾にメッセージを送る。
「見つけたかも」
既読はすぐについた。文章を携帯で読んでいたなら、メッセージが来たことにはすぐ気付くだろうから当然だ。
「なにを?」
「入り口」
「どこ?」
「校門」
数分待って、瀬尾が校門にやってきた。
「……あるね」
と、やはり瀬尾も言った。俺にだけ見える幻というわけでは、どうやらないらしい。
そこで俺の携帯が震えた。ましろ先輩からだ。俺は彼女に、通話できるかと訊ねた。すぐに電話がかかってくる。
「どしたの?」
「なんか、謎めいた地下への入り口みたいなやつ、みっけちゃいました」
「……ふむ?」
「入ってみたほういいですかね……?」
「うーん」とましろ先輩は唸った。
「軽率に入らないほうがいい、と言いたいところだけど」
「はあ」
「わたしなら入る」
そんな気がしていた。
「真っ暗なんですけど」
「うん。怖い?」
「正直」
と俺は言葉を選ぼうとして、やめた。
「いやな予感がめちゃくちゃしてます」
「やばそうだったら、すぐ戻ればいいよ」
戻れるならば、そうだろう。
「……俺たちが失踪したら、ましろ先輩がなんとかしてくださいね」
「うん。信じてくれていいよ」
根拠もないのに、嫌味なくらいに信頼できる言葉だった。
「ちなみに聞いておくけど、どこ?」
「校門の、校舎側の、桜の木のそばです」
「異境の入り口か。オッケー。幸運を祈る」
軽い。呆れつつ、「それ、どういう意味なんです?」と訊ねる。
「異境の入り口? ……まあ、そういう場所だからね」
「ぜんぜん説明になってないです」
「もし出られなくなりそうだったら」とましろ先輩は言った。
「鏡をさがしてね」
「……意味わかんないけど、覚えておきます」
通話を切って、俺は瀬尾と顔を見合わせた。「本気?」という顔を、瀬尾はする。
「……まあ、ちせがここに入ってたらまずいし」
「……たしかにね」
せめてミノタウロスと出会わないことを祈るばかりだ。
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