03-02 諸刃の斧
翌週の月曜は低く重く垂れ込むような曇り空が朝から続いていた。五月は終わり、もう六月に入っていた。俺と瀬尾は昼休みに部室に集まり、窓からの光さえ薄暗い灰色の空気のなか、定位置のパイプ椅子に腰掛けて、さて、なにから考えたものやら、と互いに互いの言葉を待つ。
「まだ、よくわかんないんだけど」
と、先に口火を切ったのは瀬尾だった。
「けっきょく、ちせちゃんを探すって、どうするの?」
瀬尾の疑問も、もっともなことだろうと言うほかない。俺たちに与えられた手がかりは、「七不思議」と「予言の手紙」もどきのメモだけ。はっきりいって「ない」と言ってもいい。
「一応、思いつく方法はあるけど」
「うん」
瀬尾は真面目な顔で俺のほうを見た。こんなふうに部室にふたりでいると、賑やかだった去年までとも、大野やちせがいた今年に入ってからとも違う、妙な雰囲気を感じてしまう。二人きりでいる時間がなかったわけではないにせよ、どこかしらよそよそしいような、けれど不愉快ではないような空気が部室に流れている気がする。
「ひとつは、ちせがいなくなった日の、ちせの足取りを辿ること」
「ちせちゃんがいなくなったのって、いつだったっけ」
「部誌を発行した翌週。で、先週」
「……そうだね。ましろ先輩に呼ばれたのが先週の金曜日。具体的に何曜日だったっけ」
俺は慎重に記憶を辿った。
「最後に会ったのは火曜だな」
ちせを最後に見たのは火曜の放課後の部室だった。部誌を発行した直後だったということで、俺も部室に顔を出していたが、ちせはここ最近、例のメモについて気になることを調べていたのか、放課後はちょっと部室に顔を出したあとすぐにいなくなることが多かった。
「次の日は学校に来てなかったのかな? 部室に来てないだけ?」
「実は」
そこについてはもう聞き込みをしてあった。
「今朝、ちせのクラスに話を聞きにいった」
「副部長、仕事早いね」
「……その、『副部長』って呼び方やめない?」
「いまその話するんだ」
瀬尾はくすくす笑った。真面目な話をしているときに言うことではなかったかもしれないが、今更ながら少し気になってしまった。
「で、ちせと仲のよかったらしいクラスメイトに話を聞いた。たぶん水曜から学校に来てないって話。で、ましろ先輩に、ちせがいつから家に帰ってないのかって聞いたら、やっぱり火曜の夜からってことだった」
「てことは、やっぱりちせちゃんがいなくなったのは火曜の放課後?」
「おそらく。それで、ちせの友達いわく、最後に会ったのは火曜の放課後になってすぐ。つまり、部室に行く前」
「……ってことは、いまのとこ最後に会ったのはわたしたちってこと?」
そういうことになる。ほかに目撃者がいないともかぎらないとはいえ、言ってしまえば、友人や知り合いでもないかぎり、誰とどこでいつすれ違ったかなんてなかなか覚えてもいないだろう。これ以上詳しい目撃情報を探ろうとしても、上手く整理できるとはかぎらない。仮に先週ちせを見かけたと言っている人物に会えたとしても、その人が月曜に会ったか火曜に会ったか、そのどちらなのかちゃんと思い出せるという期待もあまり持てない。
と、ここまでが一段階目。
「なので、次は、火曜の放課後に部室を出たちせがどこに向かったかを考えてみる」
「心当たり、あるの?」
「なくはない」
「ふむ?」
「とりあえず行ってみるか」
「どこに?」
「図書室」
◇
ちせは七不思議に興味を持っていた。そして彼女自身の言うところによると、図書室の「幻獣辞典」には、俺に相談したあとにも何度か同じ内容のメモが挟まっていた、ということだった。つまりちせは、『本にメモが挟まっていないか、何度も確認していた』と思われる。
だとすれば、火曜の放課後、部室から早々に退室した彼女は、図書室に向かった可能性がある。
というような話を、廊下を歩きながらすると、瀬尾は感心したような呆れたような顔になった。
「なにか言いたげだな?」
「ううん。副部長って基本やる気ないくせに、いちおう筋道立ててものごと考えるよね」
褒められているのか褒められていないのかわからないし、言葉の前後がつながっているかどうかも微妙だが、聞き流しておく。
部室を出て渡り廊下を通り、本校舎へとむかう。今日も今日とて、中継地点のベンチに市川鈴音の姿はない。それについては特に何も言わず、俺たちは図書室へと向かった。
扉を開けると埃っぽい本の匂いが俺たちを迎えた。さいわいというべきか、今日の昼の担当は、我らが文芸部員、大野辰巳だった。
「珍しいな。それも揃って」
「ちょっとな。聞きたいんだけど、先週の火曜の放課後、カウンター担当の図書委員って誰だったんだ?」
大野は、突然の質問に訝しそうな顔をしたあと、曜日を考えてそれがちせに関することだと気付いたのか、小声で応じてくれた。
「覚えていないけど……。たぶん三年の先輩じゃないか」
「なるほど」
「必要なら確認してみるけど」
「いや、とりあえずいい。ところで、ボルヘスの『幻獣辞典』ってどこだかわかるか?」
大野は、少し考える素振りを見せた。
「辞典か?」
「違う」
「ハードカバー?」
「……」
どうだったっけ、と俺は考えて、ふと市川鈴音がベンチでそれを読んでいたときに背表紙を見せられたことを思い出した。あれは、
「文庫本だ」
「ふむ」
そしてデザインから考えるに、
「たぶん河出文庫」
……だと思う。
「そこまでわかってるなら自力で探せそうだけど」
と、大野は少し呆れた素振りをした。
少し考えて、俺はスマホを取り出してこっそりと検索をかけた。ボルヘス、幻獣辞典、河出文庫。
「堂々とスマホをいじるな、図書室で」
小声で注意してくる大野に、俺は返事をせずに頷いた。これくらいは見逃せ、と目で合図を送ると、渋々と言った様子で彼も頷く。
ショッピングサイトの発売日を調べると、河出文庫版の『幻獣辞典』の初版は二〇一五年。三年前だ。図書室にある本にしては、かなり最近購入されたものだということになる。
「比較的新しい文庫本なら、向かって右手の、いちばん目立つ本棚に並んでるはずだけど」
「ふむ」
それにしても、『幻獣辞典』なんて、わざわざ文庫版を図書室に置くような本でもないような気もするが……などと考えてしまうのは図書室に対する冒涜かもしれない。ひとまず大野に礼を言い、俺と瀬尾はめぼしい棚を探してみることにした。
棚の裏手に回って、それらしい背表紙を探しているうちに、瀬尾が「あった」と声をあげた。「でかした」と声をかけると、瀬尾は胸を張って「どうだ」という顔をした。「褒めてつかわす」と適当に言うと、「もっと褒めて」と調子に乗る。俺は彼女から文庫本を受け取り、ぱらぱらとページを扇ぐように広げた。
途中、一カ所でその動きが止まる。278ページ……かと思ったら、違う。282ページだ。
メモ書きが、そこに挟まっていた。
右側のページは注釈だ。内容は「rune」「創世記」「ディオスコリデス」と並んでいる。深く考えずに、ページをさかのぼると、それははたして「マンドレイク」の項だった。
俺は紙面の内容に軽く目を通す。
「そして大地から引き抜かれるマンドレイクのごとき金切り声、
生ける者がそれを聞けば気が狂い……」
どうやらそれはシェイクスピアからの引用らしい。メモ用紙を取り除いて本を閉じると、四つ折りになったその紙を広げてみた。
さて、と俺は思う。
俺が知っているとおりなら、ここには梶井基次郎の引用が記されているはずだ。
けれど、俺は思わず内容を見て顔をしかめた。
俺の表情を見て取ったのか、瀬尾もまたメモ書きをのぞき込む。
そこには、
『騙されないものはさまよう』
という記述があった。以前見た、署名のような絵は今回も描かれていた。
「……」
「なにこれ」
「内容が、俺が知ってるのと違うな」
「ふむ? これどういう意味?」
「わからん」
「暗号かな?」
「いや、たぶん何かからの引用だと思う……」
何かはわからないけれど。ネットで検索すればヒットするだろうか。
「その、右下の、天秤みたいなのなに?」
「天秤?」
「あれ、天秤じゃない?」
天秤……。
「俺には、双葉に見える」
「双葉か」
「ちせには、蝶に見えたらしい」
「……ロールシャッハテストみたいだね?」
俺は少しだけ考えた。なにかおかしい、なにか間違っている。そう思った。ちせは、このメモを見つけたのだろうか。
俺はメモをポケットに入れ、一度図書室から出るように瀬尾を促し、一緒に廊下に出た。それから階段の踊り場まで降り、携帯で写真を撮ってましろ先輩に送信する。既読がつく。「なにか心当たりはありますか」と訊ねると、一分も待たないうちに返信が来た。
「ラカン」と短く返信が来る。
「Les non-dupes errent」
「騙されない人々はさまよう」
「あるいは」
「Les noms-du-Pere」
「父の名」
「らしいよ」
やはり引用であったらしいが、内容はまったくピンと来ない。ましろ先輩も、さほど詳しいというわけでもないらしく、ただ調べるかぎりだとそこからの引用だろう、というふうに判断したらしい。ラカン、ラカン……。その名前、最近どこかで聞いた。どこだっただろう。
――だいたいはフロイトやラカンとそんなに変わらないかな。
……『アルラウネ』だ。雅さんが、そう言っていた。
スマホを覗き込んできた瀬尾が、「ラカンって、誰だっけ」と首をかしげた。
「……そんな詳しくないけど、フロイトの弟子、みたいな」
「フロイト」
「……マンドレイクのページに、ラカンの引用か」
まったく意味がわからない。俺がため息をつくと、瀬尾が不思議そうに「マンドレイク?」と首をかしげた。
「マンドレイクだったよな?」
「えと、勘違いじゃないと思うんだけど」
彼女はおそるおそるといった調子で言葉を重ねた。
「挟まってたのは、ミノタウロスのページだよね?」
あ、と俺は驚いてしまった。そうだ。282ページに、メモは挟まっていた。右側のページは注釈で、俺は「rune」の文字を見て、またちせから「278ページ」と聞いていたのを覚えていて、結局はマンドレイクの項を挟んでいるものだと思った。
ふたりですぐに図書室にもどると、大野はまた訝しむような視線を向けてくる。それにかまわずさっきの棚に戻り、『幻獣辞典』を広げた。
283ページは「ミノタウロス」の項だ。
ミノタウロス。
『迷宮』に住む、半人の牛、半牛の人。
「騙されないものはさまよう」、と俺は口のなかで小さく繰り返した。ちせはこれと同じメモを見つけたのだろうか。
『地下迷宮図書館』。ちせが言っていた七不思議のひとつ。ちせが気にしていた七不思議。
――迷宮で地下なので、迷い込む人とかいたらまずいですよね。
それっぽいなあ、とましろ先輩は言っていた。
騙されないものはさまよう。『さまよう』。どこを? ……迷宮を?
このメモと同じ内容を、ちせが仮に見つけ、「ミノタウロス」の項を読んだとして、ちせはどこに向かったのか。
「……副部長、なんかわかった?」
「……いや」
考えが空転していることに気付き、瀬尾に本を手渡すと、彼女もまた「ミノタウロス」の項を読んだ。
「……ふうん。そういえば、ね、さっきのメモ」
「うん?」
「天秤って言ったけど、斧みたいにも見えるね」
「斧?」
「ほら、ここに書いてある」
瀬尾の言葉のとおり、「ミノタウロス」の項には斧についての記述があった。「諸刃の斧(labrys)は、迷宮(labyrinth)の語源だったらしい」との記述。
斧、斧、斧……怪物が持つ諸刃の斧。
斧ってなんだ。斧は……。
木を伐採する道具だ。
――桜の樹の下には、死体が埋まっている。
“桜の樹の下には”。
俺は、不意に、どこかで聞いた言葉を思い出した。
『あそこは異境の入り口だから』
なにかを思い出せそうだった。そこで、昼休みが終わりかけていることを知り、俺と瀬尾は図書室から出ることにした。その直前に、俺はカウンターへと『幻獣辞典』を持っていき、大野に手続きをしてもらって貸し出してもらった。瀬尾はなぜだか俺を心配そうな顔で見ていた。
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