02-05 観葉植物
二階の渡り廊下で、市川鈴音は本を読んでいた。
「よう」と声をかけると、彼女は視線をこちらに向けて頷きだけを返してくる。
「なにか用事?」
「そういうわけじゃないんだけど」
そういうわけじゃない。そう言ってから、でも、と考える。俺は、市川がここにいるだろうと思って、わざわざここを通ることにした。なぜだろう。
「気になることでもあるの?」
「そう、だな」
気になることがあるから、だ。
「今日は何読んでるんだ?」
一応の確認をすると、今日は「伝奇集」だった。わざわざ本の表紙を見せてくれるあたり、こいつもなかなか物分りがいい。
「『幻獣辞典』は?」
「返した。図書室に」
「……なにか挟まってた?」
彼女は訝しげに眉を寄せる。
「あるいは、挟んだか?」
「……何の話?」
とぼけている様子ではない。本当にわからないらしい。
「幻獣辞典、いつまで借りてた?」
「……えっと、一昨日かな」
「何も挟まってなかったんだな?」
「……うん。全部読んだけど、特に。栞もなかったし」
メモが見つかったタイミングについて、ちせから詳しい話は聞いていない。けれど、犯人が市川でないとするなら、他の誰かが一昨日から今日までのどこかのタイミングでメモを挟んだことになる。
「……なるほど」
なんとなく状況が見えた気がする。
「なにか困りごと?」
「いや。……どうだろうな」
とりあえず俺が調べられるのはここまでだろう。
「……三枝くん、顔色悪いよ」
「ん」
「休めてないでしょ」
「まあ」
わかるだろ、と言いたい。
寝ても寝なくてもおんなじだ。
「あの夢さえ終われば、もうちょっと休めるんだけどな」
市川は呆れたみたいに溜め息をついてから、少し考える素振りを見せた。
「三枝くんにこんなこと言うのもなんなんだけどさ」
「……なに」
「……ううん。人間って、おんなじところぐるぐるするよね」
どういう意味? と問いかけたところでまともな答えが返ってくる気がせず、返事を保留していると、彼女は言葉を続けた。
「三枝くんは、たぶん、夢のことがなくても、きっと大変だと思う」
今度こそ、「どういう意味?」と尋ねるはめになる。市川は困り顔をした。
「怒らないでほしいんだけど」と苦笑いしてから、「好きで苦しんでるみたいに見えるからね」と言った。
言葉を何度重ねられても、「どういう意味?」と聞きたくなるものばかりだ。
「よくわかんない」
と返事をすると、市川はまた少し考える素振りをした。
「これは単なる質問なんだけど」
「うん」
「三枝くんは、幸せってものがイメージできる人?」
「……」
返事に窮する。市川は、答えが来ないのを見越していたみたいに言葉を続けた。
「生活に目的や目標がある人? 人並みの日常みたいなものがイメージできる人?」
「なにそれ」
俺はわざと笑った。市川は笑わなかった。
「わたしは違うよ」
と彼女は言う。
「わたしは違う」
と繰り返し、また言葉を重ねる。
「だから、大野くんとのことも、ほんとうはどうだっていいし、どうだってよかったの。ピンと来ないから。誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって、それで付き合って、それで……そのあとどうなるのか、わたしにはピンと来ないから。そのさきにあるのは、やっぱり当たり前の日常、当たり前の景色じゃない? でも、だって、その当たり前の景色が、ぜんぜん幸せって感じじゃないのに、誰かとどうにかなったところで、幸せなんかイメージできる? だからわたしはどっちでもよかったの。わたしにとって、好きとか嫌いとかっていうのは、そういうことなの」
「……」
俺はまだ返事をしない。
「三枝くんは、夢さえ終われば休めるって言う。わたしは違うかなあって思う。きみもわたしも、たぶんどうなったって休めたりはしないと思うよ。それとも、三枝くんにはなにかある? 当たり前の日常を、書き換えてくれるなにかがある? ほんとうに?」
市川の言葉は静かで、穏やかで、押し付けがましくならないように注意を払っているかのように丁寧だった。言葉を選ぶように、言葉が足りなくならないように、慎重に重ねているように見えた。彼女の言葉は突然で、だから、俺は笑い飛ばすこともできた。何の話をしているんだと、そう言ってやることもできた。でもちがう。そうじゃない。彼女が言っているのは、そんな言葉で避けられる種類のことではない。
返事をできない俺の顔をちらりとうかがうと、市川は気まずくなったみたいに立ち上がった。
「部誌、わたしも原稿出そうかな」
「……それがいいんじゃない」
かろうじてそれだけ言うと、彼女はうなずきを返してくれる。それから俺に背を向けて、「じゃあね」と去っていった。いつもとは立場が逆だ。俺は彼女が去ったあとのベンチに腰掛け、少し考える。あそこまで言われなきゃいけないような振る舞いを俺はしていたっけか。けれど……彼女の言葉は的を射ていた。
市川が、どんな状況でも飄々と、どこかどうでもよさそうに振る舞っている理由が、今日わかった気がした。
何かがひとつのことが解決したところで、あいつの日常はどこまでも、居心地の悪いものでしかないのだろう。
それはたぶん、俺にとってもそうだということだ。
「履かれなかった靴のように、
どこにもむかうことのない
捨てられる日を待つだけの
わたしの
靴箱のなかの生活」……。
◇
眠れない日は続いた。
瀬尾に与えられた二週間の猶予を使い、俺は文章を、なにかの文章を書き上げようと必死になった。ノートに向かって、ああでもないこうでもないと唸りながら、憎しみと怒りと悲しみと罪悪感と、許されていることへの申し訳なさと、そういう種類のあれやこれやと向き合いながらペンを動かした。大抵の文字はゴミで、かろうじてゴミじゃないものも、ギリギリ食えなくはない食べ物という程度だった。
ちせは相変わらず七不思議について調べているようで、俺はその報告のようなものを、何度か屋上で聞かされた。結局のところ、何かはっきりと異様なことが起きているわけではないらしい。ただ、ちせが確認したところによると、その後も二度ほど、このあいだのものとまったく同じ内容のメモが(『桜の樹の下には……』)、『妖獣辞典』のまったく同じページに挟まっていたという。
どのページなのか、と訊ねると、
「278ページ」
とちせは教えてくれた。
それは「マンドレイク」の項だった。一度ちせは、そのページを俺に読ませてくれた。「アルラウネ」は、架空の妖花だと思っていたが、そうではないことを俺はボルヘスに教わった。マンドレイクをドイツ語でアルラウネと呼ぶのだと言う。「囁き」「ざわめき」を意味するruneという語を含んだその名は、「謎を……書かれたるもの」を意味するとボルヘスは言う。
謎を、書かれたるもの。
そしてボルヘスの記述においても精液、経血、悲鳴、絞首刑のいずれかが関わっていた。
マンドラゴラ。人に似た怪物……。
俺はいつのまにかマンドラゴラのイメージに囚われていた。マンドラゴラ、絞首刑になった男の精液から生まれた、絞首台の下の植物。引き抜けば悲鳴をあげ、聴いたものを心神喪失に至らしめる小人。罪人と売春婦の子。
例のメモにはやはり署名めいた奇妙な模様が書かれていた。俺にはやはり植物の双子葉にしか見えなかったけれど、ちせには蝶の羽のように見えるという。
その週、雅さんからの呼び出しはかからなかった。俺は学校と家を往復し、四六時中マンドラゴラのことを考えながら文章を書いた。
思い出すのはいつもと同じようなことだ。夢のこと、部活のこと、幼馴染のこと、中学のときのこと、去年の冬のこと……。
そんな日々の果てに出来上がったのは、短い小説だった。こんな内容だ。
「あるところにひとりの男がいた。
男は一鉢の観葉植物を愛した。
水をやり、ほほえみかけ、朝めざめ、夜眠るたびに見つめた。
その樹のために彼は祈った。そんな日々がしばらくは続いていた。
ある日、男は、観葉植物が自分に感謝しないことに腹を立てた。
水をやり、ほほえみかけ、見つめているのに、返事のひとつもしないことに。
私から私の時間を奪っているのに、私の水を、私の視線を、私の微笑みを、祈りを、奪っているのに、
お前はなにひとつ返そうとしない、と。
男は腹を立て、観葉植物を虐待した。
その植物に水をやらず、ほほえみかけず、見つめることもなくなった。
やがて観葉植物はしずかに潤みを失っていく。
葉は萎れ、枝は力なく垂れ……。
男はもはや植物を気にしなくなった。
楽しむことを楽しみ、大いに酒を飲み、女を愛し……。
男は自由になり、自分を許した。じっさい、そうしていけない理由はなかった。
観葉植物は、なおも男の部屋で、枯れ果てもせずに生きている。
けれど男の頭からは、その植物が離れない。
遊び、食い、飲み、騒ぎ、踊り、歌い、けれど離れない。
やがて男は、遊ぶのをやめた。飲むのをやめた。騒ぐのを、踊るのを、歌うのをやめた。人を愛することもやめた。
食うことと眠ることだけが、静かにくりかえされた。
男は、また植物を見つめている。もはや水をやりはしない。
葉は萎れ、枝は力なく垂れ……。
観葉植物はやはり返事をしない。男は観葉植物から何も受けとることができない。
観葉植物はなにも語りはしない。
どうして返事をしてくれないのか、どうして答えてくれないのか、
どうしてこれだけのものを与えた私に振り向いてはくれないのか、
どうして私をこんなふうに縛り付けるのか、そんな問いにも、やはり答えはない。
男はやがて、萎れ、枯れ果てていく。その植物をみつめたまま……。」
そういう話だ。
部誌『薄明』には、最終的に、俺と瀬尾、それから市川、ちせが原稿をあげた。
その翌週、市川鈴音は学校から姿を消し、連絡がとれなくなった。
宮崎ちせもまた、同時期に行方をくらませた。
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