02-03 櫻の樹の下には

 まったくもって理解に苦しむ話ではある。

 しかしとにかく、それは起きている、っぽい。そうちせは言う。


「わたしの友達から聞いた話なんですけどね」


 そんな始まりをこのご時世になって聞くとは思わなかったが、彼女の表情は至って真面目。茶化すのも悪い。


 ちせはいくつか、彼女の友達から聞いたという七不思議について語ってくれた。


 いくつかは単純なものだ。桜の木の守り神、差出人不明の予言めいた手紙、降りても元の階に戻ってきてしまう階段。


「そんな内容だったっけ」


「です」


 出来事についてのインパクトが大きかったせいか、内容をあまり覚えていなかった。


「それで、起きてるってどれが?」


「んと、『手紙』です。といっても、悪戯だと思うんですけど、図書館の本に、誰が書いたかわからない手紙、ていうかメモみたいなのが挟まってたみたいです」


「悪戯かな」


「かも。あとは単なる噂だと思うんですけど、校門の桜の木の下に女の子の姿が一瞬見えて、ふと目を離すとまた見えなくなるとか、階段についても、何組の誰々って人が実際にどうこうとか、そういう感じの曖昧なやつ。で、いちばんやばそうなのか……『地下迷宮図書館』っていうやつですね」


「……やばそうって、どういう意味?」


「え? 迷宮で地下なので、迷い込む人とかいたらまずいですよね」


「なんか、ほんとに起きてるみたいな言い方だな」


「だから」


 とちせは少し悲しそうな顔になった。


「ほんとに起きてるっぽいんです」


 冗談を言っているわけではないらしい。彼女は制服のポケットから一枚のメモ用紙をとりだした。


「それは?」


「『手紙』です。例の。挟まってたみたい」


 ああ、そういうことか。友達から聞いた話、というのは、友達から噂を聞いたというわけではなく、「実際にそういうものに遭遇した友達から聞いた話」という意味か。なるほど、誤解していた。


「けど、それだけなら」


「隼さん、読んでみます?」


 俺は差し出されたメモを受け取って広げた。そこには、


「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」


 とある。


「……これが?」


「どう思います?」


「どうもこうも。悪戯じゃなきゃ間違って挟んだんじゃないか。これ、梶井基次郎だろ」


「ですね。友達は気味悪がってたんですけど、わたしもそう思います。単なる悪戯かなって。いえ、悪戯だとしてももちろん気味は悪いんですけど。でもちょっとだけ気になることがあって」


「……なに」


 ちせは、ましろ先輩の妹だ。そりゃあましろ先輩の妹という立場は難儀なものだろう。とはいえ、短い付き合いでも十分すぎるくらいに学んだ。こいつはこいつで恐ろしい。こいつの「ちょっとだけ気になる」は、俺にはそれだけでは済まないことのように思える。そう思うのは、俺が考えすぎているからだろうか。


「そのメモ、たぶんノートの切れ端かなにかだと思うんですけど、右下になにか描いてありません?」


 言われて、メモをもう一度眺める。四つ折りにされた跡の谷間になって見えにくかったが、そこにはなにかの絵が描かれていた。


「これ……」


「ね、なにか描かれてますよね」


「ああ、でも、これ……」


「ね、先輩。それ、何に見えます?」


 俺は答えに詰まった。なにに見える?


「わからない」と俺は答えた。


「ですよね」


 ちせは笑う。


「しいていうなら、双葉かな」


「双葉。双葉ですか」


「ちせは?」


「わたしには、蝶に見えます」


「蝶」


 なるほど。


「なるほど、蝶ね……」


 たしかに、そういう風にも見える。けれど……これがいったいなんなのだろう。


「これが、気になること?」


「はい。なんなんだろうって」


 それだけのことなのだろうか。誰かの悪戯。その隅に、なんなのかわからない影絵のような絵。隅。そう、隅。隅に描かれているということは、これは主題ではないのだろうか。主題は、梶井基次郎の引用なのだろうか。とすれば、この絵はなんなのか。


「……署名か?」


「……なのかもしれませんね」


 双葉、あるいは蝶。何かに似せた絵。あるいは、その両方か。それとも、なにかまた別のものなのか。


「……まあ、考えたって書いた奴にしか意図はわからないな」


「ですね」


 肩をすくめて、考えるのをやめる。それからふと気づく。もしかして、「起きてるっぽい」って、これだけのことか? ……だが、たしかに。去年の部誌の内容を真似て、誰かが悪戯をしているのだとしたら、それはそれでどうしてそんなことをするのかと思う。

 けれど……。


「なんでそんな話、俺にしたんだ?」


「はい?」


 ちせは、きょとんとした顔になった。


「七不思議。俺、興味ありそうに見えた?」


「いえ。ただ、姉さんが、気になることがあるなら隼さんに聞いてみたらって」


「……ましろ先輩が?」

 

 どういうことだろう。どういう意味だろう。どうしてそこで、俺が出てくるんだ? まさか、俺が悪戯した当人だと思われている、というわけでもないだろうけど、ましろ先輩がそう言った、という言葉は、単純に気にかかる。

 けれど、


「……ま、俺にはわかんないや」


 投げ出すしかない。実際、わからないものはわからない。


「そうですよね」


「そういや、挟まってたって言うけど、何に挟まってたんだ、それ」


「ああ、これですか」


 そんなことか、というふうにちせは笑った。


「図書室の、ボルヘスの『幻獣辞典』です」


「なるほど、ボルヘスの……」


 ……「幻獣辞典」。




 とりあえず、話をそれ以上聞いたところでどうしようもなかった。というよりも、どうでもよかったというべきか。

 

 ちせは「部室に行く」と言い残して屋上をあとにした。俺は鞄からノートを取り出す。大野からの頼みを受けたばかりだ。早めに仕上げるに越したことはない。文章、文章を書かなければならない。部誌だって、瀬尾を待たせている。書かなきゃいけない、書かなきゃいけない。


 少し迷ったあと、手早く済みそうな方から手をつけることにした。部誌の原稿のほうは、いま考えを巡らせてもうまく思いつきそうにない。であれば、大野の頼みのほうを済ませよう。

 大野からの依頼は、図書新聞に寄せる図書委員たちの本の紹介の文章。うんざりするほど重い頭で考え続けるのが嫌で、俺はさっきの話に出てきた梶井基次郎の『櫻の樹の下には』の紹介文を書くことにした。


 わざわざ図書館に行かなくても、著者の没後から五十年が過ぎたものはネットで読める。これがいいことなのか悪いことなのかはわからない。必要なことなのか不要なことなのかもわからない。便利であるというだけだ。

 

 


「桜の樹の下には、屍体が埋まっている。

 

『俺』が『お前』に語りかける形式で描かれるこの短い散文は、小説であるようにも詩であるようにも読める。あまりにも有名なので、梶井基次郎の名を知らない人でも、聞き覚えがあるだろう。語り手は、桜の美の秘密に気付いたと気炎を上げる。理由がわかったのだと息巻く。これは信じてもいいことなんだと力強く繰り返すたびに、その語りには狂気めいた恍惚が、あるいは恍惚めいた狂気が宿っているように思えてならない。

 

 不安と憂鬱すらをも誘う美しさの盛り、その爛漫は、俺をかえって不安にさせ、気鬱にさせる。うつくしさ、なにか信じることのできないうつくしさ。俺はそのうつくしさとおそろしさの正体に勘づく。その理由が冒頭の一文だ。『桜の樹の下には、屍体が埋まっている!』。桜が美しいのは、その伸ばした根から死を、あるいはかつてそこにあった生を吸い上げているからなのだと。語り手は、その様子を詳細に描写する。屍体から吸い上げられた生が桜の花を爛漫と咲き誇らせる。その爛漫は、『よく廻った独楽が完全な静止に澄むように』、神秘的な静けさを湛える。我々が桜の花を見上げたときに感じるあの静寂と神秘は、死の気配ではなく、他の生を吸い上げてまで充溢した生の過剰によってかえって静止して見えるのだと。その下に埋もれた屍体の醜さ、その醜さの背面こそがあのうつくしさなのだと。そう考えてはじめて、俺は桜を直視することができるようになる。聞き手であるお前は、その語りに冷や汗を流す。惨劇がなくては不完全な心象、見たままの景色だけでは完成されない憂鬱。語り手はその心象におぼれているように思える。


 この文章が、単に美を叙述したものだろうか。生の裏にある死が美しさを際立たせるのだと、ただそれだけの話に思えるだろうか。

 これは美についての記述ではないのではないか。毎晩の帰路の最中に安全剃刀の刃が思い浮かんで離れない、その神経症めいた憂鬱。うつくしさをおそれ、その影に惨劇がなくてはそれを直視できず、その惨劇を透視することによってはじめてうつくしさを直視できる。


 これはむしろ、桜のうつくしさをそのままに享受できないひとりの人間が、そのおそろしさをごまかすために妄想のなかにうつくしさをのみこみ、どうにか酒宴に混ざろうとした、孤独と疎外の物語ではないか。


 この文章がうつくしいのか、醜いのか、俺にはよくわからない。ただもしこの文章がうつくしいのであれば、それは描かれたものの醜さゆえにではないか。

                          (二年・大野辰巳)」

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