02-02 部誌『薄明』平成二八年夏季号にまつわる裏事情


 文章を書くというのはどういうことなのか。どうして、文章を書かなくてはいけないのか。あるいは、文章は書かれなくてはならないのか。


 俺がそんなくだらないことばかり考えるようになったのには単純な理由がある。


 文章がうまく上手く書けなかったからだ。


 何かを語ること、書くこと。子供の頃からずっとそれが苦手だった。自分が何を好きで何を嫌っているのか、何が楽しくて何を素晴らしいと思い、何を忌避し何を憎んでいるのか。それを語ることがなぜかできない。


 今でこそだいぶ改善された(と思っている)が、当時は喋ることさえ上手くできなかった。


 そういう人間がどういう振る舞いをするようになるか。


 嘘をつくようになる。


 自分の意見のなさを見透かされないために、偽物の意見をそれらしく口に出す人間になる。


 そのような小器用な嘘があたかも自分自身であるかのように振る舞う。


 だから、今となっては、俺は文章が書ける。


「頼みたい」


 放課後の教室、目の前には文芸部員兼図書委員の大野辰巳が立っている。


「承った」


 彼はほっとした顔になる。


 大野辰巳はおもしろい。俺に、月に一度ほど、こんなふうに頼み事をする。器用でなんでもできるやつなのに、俺はこいつに勝てるところなんてきっとひとつもないのに、唯一それだけは大野辰巳にはできない。


 大野辰巳もまた文章が書けない。


 図書委員をやって、文芸部に入ったのに、文章を書くことを徹底的に忌避している。理由に関してはさほど興味がない。図書委員会でなにか文章を書く必要が出た場合は、俺が彼から頼まれこっそりと代筆している。


 大野から聞くかぎりだと、まあ俺の文章は評判が良かったり悪かったりまちまちらしい。


 一度だけ大野は、


「差出人を誰も気にしていない」


 と、その状況を皮肉った。文章の書き手は、その名を偽ることができる。

 

 文章を読むものは、本当の意味では、差出人が誰かということも、差出人がほんとうに文章の通りのことを考えているかも、気にしていない。


 あるいは、気にすることが出来ない。文章それ自体に記名はされていないからだ。


 大野辰巳と俺の文章の書けなさというのは少し似ている。


 大野は差出人の偽装によって文章に対する信頼を失い、俺は文章の書き方がわからないがゆえにそれらしい文章を偽造するしかなかった。


 結果はある意味皮肉なのかもしれない。大野辰巳は自分で書いていないものを自分の書いたものとして提出し、俺はそれを偽造するゴーストライターになったのだから。


 大野辰巳は本来、文芸部に入るつもりはなかった。二年の春という奇妙なタイミングで入部したのは、新入部員探しに難航した俺が部の体裁を保つために、「代筆継続」を盾に頼んだからだ。


 だから俺が大野の頼みを断るわけがない。それなのに大野はいつもほっとした顔をする。やましさを感じているからかもしれない。おおかたの嘘はいつもやましさを纏う。



 あるいは問題は、「書けなさ」、俺や大野に固有の「文章が書けないこと」ではなく、むしろ、文章の普遍的な「読めなさ」にあるのかもしれない。



 大野からの頼みを受けた後、俺は放課後の屋上に向かい、いつものように鞄を枕に寝転んだ。


 瞼のむこうからさすあたたかな日差し。なににも邪魔されないあたたかさ。ほんの少し埃っぽい風。余計なものはなにひとつない。


 ここではすべての音が遠い。余計な情報はなにもない。


 校舎裏の雑木林のざわめきも、運動部の掛け声も、吹奏楽部の練習の音も、適切な距離がとれて心地いい。

 視界を覆うのは太陽の光に透けた瞼の薄橙だけで、余計なものはなにもない。


 この五月の日差しのもと、風は冗談のように穏やかで、──きっとこの時間を幸福と呼ぶ──いつまでだって眠っていられる。


 ……本当に眠れるものならば。


 闖入者はいつもひとり。訪れるのは宮崎ちせだけだ。


 鉄扉の開く音のあと、「いましたね」とちせの声が聞こえる。俺は返事をせずに寝転んだまま手を挙げてひらひらと振った。


「青葉さんの機嫌がいいから、サボってるわけじゃないかと思ったんですけど、寝てますね」


 ちせの苦笑混じりの声に、また返事をせずに起き上がる。


「サボってたわけじゃない」


 と俺は答えた。


「眠れるのは幸せなことなんだ」


 そうですかあ、と、ちせはピンとこないような声をあげたあと、なにか言いたげな顔をした。


「なに?」


「隼さんなら知ってるかもって思ったんですけど、聞きたいことがあって」


 どうしてか、話そうとすることを恥じるような顔つきだった。


「この学校、怪談があるじゃないですか」


「怪談?」


「はい。知りませんか、七不思議」


「いや、知ってる」


 そう、うちの高校には代々語り継がれていることになっている七不思議がある。


 ほとんどは口伝の間にかたちを変え、いくつものバリエーションが生まれ、拡散し、反射し、合一し、混同され、どう数えても七つ以上に増えているのだが、それでも七不思議と呼ばれる、ことになっている。


 そんな時代遅れの産物がなぜ存在するかと言えば、


「あれはましろ先輩の創作だよ」


「ですよね」


 ちせの姉、宮崎ましろが、校内新聞のネタに困った新聞部の部員に頼まれて適当にでっちあげたからだ。


 文芸部の発行する部誌『薄明』のバックナンバーには、七不思議の原型となる文章がいくつも存在する。それもまた当時の部員たちが面白がって書いただけだろう。実際に存在したものとは考えにくい。


 要するに、誰かの作り話をかき集めて、ましろ先輩は「七不思議」としてまとめて新聞部にネタとして提供した。去年の夏頃のことだったと思う。それが意外なほどに生徒に受けて、ましろ先輩は『薄明』に、調査や考察の過程を含む架空の検証を寄稿した。


「今となっては途絶え語られることがなくなった怪談」としてそれらを語ることで、「有名ではないもののたしかに出典を辿ることができる事実」であるかのように。


「姉さんから聞いてはいたんですけど、ほんとにそうなんですね」


「ましろ先輩の伝説のひとつだな」


「伝説?」


「知るものの多くはないことだけど、やったことだけ見れば伝説」


 単にそれらしい怪談を七つ集めた、というわけではない。ましてや、『七不思議』と呼ばれていたもの、として集めたのではない。


 文芸部の部誌に残るわずかな情報の断片から、ましろ先輩は七つ以上の怪異の存在を捏造した。そしていくつかのものについては、校舎の構造や記録に残る改築の歴史や実際に起きた出来事との齟齬の有無、当時の世相の影響までを考慮し検証したふうを装い、あえて否定したりもした。


 たとえば平成十一年度の部誌『薄明』秋季号に載っていた「屋上から飛び降りる集団亡霊」については、「ノストラダムスの大予言にまつわる言説の影響が見られる記述」であり、「実際にそのような事件や事故は起きていない」ことを鑑みて創作の類であろうと推察した。「目撃者がいたとされる位置からでは角度的に屋上の様子は見ることが難しい。また、落下地点を考えるにもし屋上から飛び降りたとすれば校舎二階の屋根に邪魔されて地面までは到達しないだろう」云々。


 更に平成四年度の夏季号に登場する「鏡のむこうの異界の森」に関しては、その原稿を書いた人間が春季号・夏季号にモーパッサンや江戸川乱歩をあからさまに剽窃した小説を寄せていたこと、秋季号以降はその名が部誌から消えていることから、「剽窃癖のある部員がどこかから拝借したアイディアによる作り話を行った」ものとした。「異界のイメージの描写から見るに、H.G.ウェルズの『白壁の緑の扉』から着想を得たものだろう」とまで彼女は付け加えた。このような検証的な記述が含まれていることで、本筋である七不思議に奇妙な説得力が生まれたのだ。


 

「嘘をつくときに大切なのは大胆であること、執拗なほど微に入り細を穿つこと、そしてなによりも、できるだけ嘘をつかないこと」、という逆説めいた箴言が、弟子である俺が師である彼女から受け取った数少ない教えだ。


 このときの原稿の影響で、ましろ先輩はオカルト研究部の部員たちと対立し、最終的には新聞部を通しての対談をおこない、それもまた記事になった。一部の話題においてはましろ先輩に分があり、一部の主張に関してはオカルト研究部の言い分が通った。とはいえ忘れてはいけないのが、オカルト研究部の主張は「ましろ先輩の検証の穴や不足を指摘するもの」であり、要するに彼らの主張は「七不思議寄り」だったことだ。「宮崎ましろの検証ではこの現象を否定したことにならない」、というような対立の構造は、かえって彼女の作り話を加速させた。


 テクストにおいて、そのテクストの是非を検討するとき、人は常にテクストの「手のひらの上」にいる。その射程はおそろしく広大で、絡め取られていることにすら気付けない。オカルト研究部の人間たちは、「オカルト研究部の記録のなかにはそのような噂や怪談が存在しなかった」という事実を完全に思考の埒外に置いていた。「書かれていないことは、書かれていることを否定する根拠として引用することが原理的にできない」。書かれていないことがいかに不自然であるとしても、テクストの紛失や消尽の可能性もまた否定できない以上、根拠にはならない。結果的に彼らはましろ先輩の用意した一種の「偽典」に準拠した主張を行わざるを得なかった。そして自らその偽典の「厚み」となり果てた。


 書かれていないこと、その領域、空白には、書き換えることのできる過去が存在する。


 それが全部去年のことだ。


 という話をすると、ちせは青い顔をして頭を抱えた。


「お、お姉ちゃんなにやってるの……」


 なにやらショックを受けている。まあ、ああいう人を姉に持つというのは、やはり大変なのだろう。


「けっこうな大立ち回りだったよ。で、その七不思議が?」


「……ちょ、ちょっと冷静になるので待ってもらっていいですか」


「いくらでもどうぞ」


 俺は素直に待った。ちせが正気を取り戻すまでだいたい五分くらいかかった。


「気を取り直して……なんですけど」


「はい」


「あれって、ほんとに作り話なんですよね?」


「……どういう意味?」


「わたしにもよくわかってないんですけど」


 と、ちせは困り顔をして、


「なんか、ほんとに起きてるっぽいんですよね」


 と言った。


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