しとやかな霊

02-01 一日十食限定ホイップクリームパン



 昼休みにぼーっと自販機の横に立っていると、パンの入った袋を抱えて、瀬尾青葉が廊下を通っていく。そういう日がけっこうあって、今日もその日だった。


「や」


 と声をかけられて、ストローをくわえたまま手をかざして応じる。


「お昼たべた?」


 うなずく。


「副部長って何食べてるの?」


「おべんとう」


 ここでカフェオレを飲みきって、俺は返事をした。瀬尾は少し眉を寄せた。


「食べるの早くない?」


「そうかも」


「暇?」


「まあ」


「いまから部室にいくけど、一緒にいかない?」


「なんで?」


「なんで……」


 うーん、という顔を瀬尾はした。


「なんとなく?」


「なんとなくか」


 俺は少しだけ考えたあと、紙パックをゴミ箱に捨てて頷いた。


「瀬尾はパン?」


「うん。いつも。副部長は妹さんにつくってもらってるんだっけ」


「そう」


「愛妹弁当」


「はじめて聞く言葉だ」


「いま考えました」


 適当なことを喋りつつ、渡り廊下へと向かう。いつものような奇妙な感覚、奇妙な皮膜。

 それに気持ちを吸い寄せられないように気をつける。


 ここが夢か現実か、ときどきわからなくなりそうになる。

 現実だと、思っている。その根拠は希薄だけれど、そう信じるしかない。


 いつか本当にわからなくならないように、注意深く、過ごす。


 渡り廊下のベンチに市川はいなかった。


「副部長はさ」


「うん」


「いや」


「……?」


 珍しく、瀬尾は何かをいいかけて、口ごもる。


「なに?」


「ううん。そのまえに、昨日はごめん」


「……昨日?」


「なんか機嫌悪くて」


「……」


 別に謝られるようなことはないような気がする。


「俺が悪い」


「うん。うん、そうなんだけど」


 そこに異論はないらしい。


「でも、ね。わたしもね」


「……まあ、気にすんな」


 どう考えても俺が真面目に部活に出ていないのが悪い。


「でもさ、あのさ」


 渡り廊下を過ぎ、俺たちは階段を昇る。東校舎の隅っこの文芸部室まで。通り過ぎた教室のドアの向こうから誰かの笑い合う声が聞こえた。


「なにかあるなら、聞くから……」


 努めて、普通に言おうとしたような、そんな声で瀬尾は言う。


「なにかあるなら聞くから、言ってほしいな」


 階段の途中で立ち止まって、瀬尾は真顔でそう言った。俺はどうしたって目をそらせない。じゃんけんみたいなものだ。グーはパーに勝てないように、俺は瀬尾の顔に弱い。


 黙ったままでいると、彼女は顔をそらして、階段を昇るのを再開した。俺はその斜め後ろをついていく。


「わたし、なんで副部長に避けられてるのかわからなくて。なんか怒らせちゃったなら、謝るから」


「避けてなんて……」


「でも、部室に来なくなっちゃったし」


「……」


 返事がいまいちできないまま、俺たちは部室にたどり着く。中には誰もいない。大野は図書室、ちせは友達とどこかで食べているのだろう。


 瀬尾は定位置のパイプ椅子に小走りで近寄り、腰を掛けて長机の上に袋を置いた。俺は手持ち無沙汰のまま、自分用の椅子に座る。


「えと、パンを食べます」


「どうぞ」


 瀬尾は購買で買ってきたらしいパンの袋を開ける。


「これはですね」


 と瀬尾は口を開く。


「はい」


「一日十食限定の、購買のホイップクリームパンです」


「ほう」


「なかなかの美味」


「そうですか……」


「あげないよ!」


「とらないよ」


 空気を変えようとしているのかなんなのか、瀬尾のふるまいは若干おかしかった。あえてそれにはツッコまず、俺は窓の外の空の色に目を向ける。雨こそ降っていないものの、今日は曇り模様だ。


「ん。おいしい」


 そう言いこそするものの、なんとなく彼女の声は苦しげで、おかげで俺まで胸が詰まるような思いがした。


「うん。よく味わいな」


 なるべくゆっくり、静かな声になるように努めてそう言うと、瀬尾は変なものを見るような目でこちらを見る。


「なに」


 と聞くと、彼女は視線を落として「なんでもない」と言う。


「副部長」


「ん」


「ちょっとたべてみる?」


「……なんで」


「……や、せっかくだし」


「せっかくの意味がわかんないけど」


「でもでも、けっこう買うのたいへんなんだよ、これ」


「そうなんだ」


「……たべる?」


「……まあ、じゃあ、ひとくち」


 じゃあ、はい、と、瀬尾はパンをちぎってよこした。指先でつまむように受け取って、注目されていることに気付き、そのまま口に運ぶ。


「……どうでしょうか」


「……うむ。美味である」


「そか。よかった」


 瀬尾は本当にほっとしたような声でそう言った。なんだこれは。


「あ、ウェットティッシュ使う?」


「あ、どうもご丁寧に」


「どうぞ」


 受け取ったウェットティッシュで指先を拭いつつ、俺は視線を彼女の方からそらす。なんなんだこのやりとりは。


「あのね……」


 と、少しあと、瀬尾はなにかを言いかけてまたやめた。何を言えばいいのだろうと俺は考える。いったい何を言うべきなんだ? ……それがわかれば苦労はしない。


「瀬尾、あのさ」


「……うん」


「部誌の締切。伸ばせないかな」


「……えっと?」


「もうちょっとかかりそうなんだ」


「……」


「悪いんだけど」


 彼女は一瞬あっけにとられたような顔をしたあと、


「……うん。うん! いいよ」


 なんでか嬉しそうにそう言った。

 怒られるかと思ったのに。


「どのくらい必要?」


「……一週間、か、二週間」


「じゃあ、二週間とろう」


「いいの?」


「いいよ。出しさえすれば先生も文句言わないもん。締切なんて暫定で決めてただけだし、副部長が書けるなら、全然いいよ」


「書けるか、まだわかんないけど」


「いいよ」


 と瀬尾は言った。


「わかんないよ、書き終わるまで、書けるかどうかなんて」


 当たり前のことを言うみたいにそんなことを言う。


「わかんないって思ったまま書けるのが最強なんだよ」


「……そうかも」


「あ、あと。……書けたらちゃんと、編集手伝ってね」


「うん」


「約束ね。絶対だからね!」


「うん。書けなかったら手伝わない」


「……いまそういう流れじゃなかったと思う」


 呆れたあと、瀬尾は少し笑った。


 

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