しとやかな霊
02-01 一日十食限定ホイップクリームパン
◇
昼休みにぼーっと自販機の横に立っていると、パンの入った袋を抱えて、瀬尾青葉が廊下を通っていく。そういう日がけっこうあって、今日もその日だった。
「や」
と声をかけられて、ストローをくわえたまま手をかざして応じる。
「お昼たべた?」
うなずく。
「副部長って何食べてるの?」
「おべんとう」
ここでカフェオレを飲みきって、俺は返事をした。瀬尾は少し眉を寄せた。
「食べるの早くない?」
「そうかも」
「暇?」
「まあ」
「いまから部室にいくけど、一緒にいかない?」
「なんで?」
「なんで……」
うーん、という顔を瀬尾はした。
「なんとなく?」
「なんとなくか」
俺は少しだけ考えたあと、紙パックをゴミ箱に捨てて頷いた。
「瀬尾はパン?」
「うん。いつも。副部長は妹さんにつくってもらってるんだっけ」
「そう」
「愛妹弁当」
「はじめて聞く言葉だ」
「いま考えました」
適当なことを喋りつつ、渡り廊下へと向かう。いつものような奇妙な感覚、奇妙な皮膜。
それに気持ちを吸い寄せられないように気をつける。
ここが夢か現実か、ときどきわからなくなりそうになる。
現実だと、思っている。その根拠は希薄だけれど、そう信じるしかない。
いつか本当にわからなくならないように、注意深く、過ごす。
渡り廊下のベンチに市川はいなかった。
「副部長はさ」
「うん」
「いや」
「……?」
珍しく、瀬尾は何かをいいかけて、口ごもる。
「なに?」
「ううん。そのまえに、昨日はごめん」
「……昨日?」
「なんか機嫌悪くて」
「……」
別に謝られるようなことはないような気がする。
「俺が悪い」
「うん。うん、そうなんだけど」
そこに異論はないらしい。
「でも、ね。わたしもね」
「……まあ、気にすんな」
どう考えても俺が真面目に部活に出ていないのが悪い。
「でもさ、あのさ」
渡り廊下を過ぎ、俺たちは階段を昇る。東校舎の隅っこの文芸部室まで。通り過ぎた教室のドアの向こうから誰かの笑い合う声が聞こえた。
「なにかあるなら、聞くから……」
努めて、普通に言おうとしたような、そんな声で瀬尾は言う。
「なにかあるなら聞くから、言ってほしいな」
階段の途中で立ち止まって、瀬尾は真顔でそう言った。俺はどうしたって目をそらせない。じゃんけんみたいなものだ。グーはパーに勝てないように、俺は瀬尾の顔に弱い。
黙ったままでいると、彼女は顔をそらして、階段を昇るのを再開した。俺はその斜め後ろをついていく。
「わたし、なんで副部長に避けられてるのかわからなくて。なんか怒らせちゃったなら、謝るから」
「避けてなんて……」
「でも、部室に来なくなっちゃったし」
「……」
返事がいまいちできないまま、俺たちは部室にたどり着く。中には誰もいない。大野は図書室、ちせは友達とどこかで食べているのだろう。
瀬尾は定位置のパイプ椅子に小走りで近寄り、腰を掛けて長机の上に袋を置いた。俺は手持ち無沙汰のまま、自分用の椅子に座る。
「えと、パンを食べます」
「どうぞ」
瀬尾は購買で買ってきたらしいパンの袋を開ける。
「これはですね」
と瀬尾は口を開く。
「はい」
「一日十食限定の、購買のホイップクリームパンです」
「ほう」
「なかなかの美味」
「そうですか……」
「あげないよ!」
「とらないよ」
空気を変えようとしているのかなんなのか、瀬尾のふるまいは若干おかしかった。あえてそれにはツッコまず、俺は窓の外の空の色に目を向ける。雨こそ降っていないものの、今日は曇り模様だ。
「ん。おいしい」
そう言いこそするものの、なんとなく彼女の声は苦しげで、おかげで俺まで胸が詰まるような思いがした。
「うん。よく味わいな」
なるべくゆっくり、静かな声になるように努めてそう言うと、瀬尾は変なものを見るような目でこちらを見る。
「なに」
と聞くと、彼女は視線を落として「なんでもない」と言う。
「副部長」
「ん」
「ちょっとたべてみる?」
「……なんで」
「……や、せっかくだし」
「せっかくの意味がわかんないけど」
「でもでも、けっこう買うのたいへんなんだよ、これ」
「そうなんだ」
「……たべる?」
「……まあ、じゃあ、ひとくち」
じゃあ、はい、と、瀬尾はパンをちぎってよこした。指先でつまむように受け取って、注目されていることに気付き、そのまま口に運ぶ。
「……どうでしょうか」
「……うむ。美味である」
「そか。よかった」
瀬尾は本当にほっとしたような声でそう言った。なんだこれは。
「あ、ウェットティッシュ使う?」
「あ、どうもご丁寧に」
「どうぞ」
受け取ったウェットティッシュで指先を拭いつつ、俺は視線を彼女の方からそらす。なんなんだこのやりとりは。
「あのね……」
と、少しあと、瀬尾はなにかを言いかけてまたやめた。何を言えばいいのだろうと俺は考える。いったい何を言うべきなんだ? ……それがわかれば苦労はしない。
「瀬尾、あのさ」
「……うん」
「部誌の締切。伸ばせないかな」
「……えっと?」
「もうちょっとかかりそうなんだ」
「……」
「悪いんだけど」
彼女は一瞬あっけにとられたような顔をしたあと、
「……うん。うん! いいよ」
なんでか嬉しそうにそう言った。
怒られるかと思ったのに。
「どのくらい必要?」
「……一週間、か、二週間」
「じゃあ、二週間とろう」
「いいの?」
「いいよ。出しさえすれば先生も文句言わないもん。締切なんて暫定で決めてただけだし、副部長が書けるなら、全然いいよ」
「書けるか、まだわかんないけど」
「いいよ」
と瀬尾は言った。
「わかんないよ、書き終わるまで、書けるかどうかなんて」
当たり前のことを言うみたいにそんなことを言う。
「わかんないって思ったまま書けるのが最強なんだよ」
「……そうかも」
「あ、あと。……書けたらちゃんと、編集手伝ってね」
「うん」
「約束ね。絶対だからね!」
「うん。書けなかったら手伝わない」
「……いまそういう流れじゃなかったと思う」
呆れたあと、瀬尾は少し笑った。
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