01-04 聴こえる


 

 


 俺と市川は、図書室には入らずに踵を返した。聞かされた話については、あまり考えないことにした。考えても意味がない。


「それで? 三枝くんは?」


「ん」


「どんな秘密があるの?」


「なんでそうなる」


「べつに無理強いする気はないよ。わたしのはわたしが勝手に話しただけだからね」


 だから話さなくてもいいと言った。聞いたらなんとなく答えなきゃいけない気がするからだ。フェアじゃないのはよくないと、そう思ってしまうからだ。


 廊下を歩きながら窓の外をぼんやり眺める。こうしているとここが夢だか現実だかもわからなくなるくらい、当たり前の景色でしかない。


「秘密らしい秘密なんてそう多くもないけど」


「まあ、話したくないならいいよ、ほんとに」


 俺は少しだけ考えて、口を開いた。このまままっすぐ歩けば渡り廊下につく。文化部の部室が並ぶ部室棟につく。


「瀬尾青葉は知ってるよな」


「うん。文芸部の部長さん」


「俺の幼馴染に瓜二つなんだ」


「……?」


「それはまあいいんだけど」


「いいんだ?」


 別に瓜二つなこと自体はあまり関係ない。世界には自分そっくりな人間が三人はいるっていうし、珍しくもない話なのかもしれない。


「それで……」


 と、言いかけたときに、耳鳴りがした。


 来た。


「市川、悪いけど」


 言いながら彼女の方を見ると、もうすでに彼女の姿はなかった。


 急に廊下が暗くなる。

 まただ。また夜が来た。


「遅かったな」


 と声がする。

 廊下を見渡すまでもない。もう夢の中には誰もいない。また聴こえた。繰り返しだ。


 声だ。


「まあ、そろそろ俺の話を聞けよ」


 


 最初に聴こえたのは去年のクリスマスイヴだった。そのとき、俺は夢を見ていなかった。


 マフラーを巻いて、コートを着て、出かけようとした。日曜日だった。映画を観に行く予定だった。玄関を出て、駅まで向かって、地下鉄に乗った。時間を少し気にしながら、吐く息の白さに少しだけ冬らしさを感じて高揚しながら。地下鉄に乗って、数分が経った頃だった。突然耳元にその声が聴こえた。


 突然誰かに話しかけられたと思って、俺はあたりを見回した。けれど、誰も俺のほうを見ていない。気のせいか聞き間違いだと思っていると、また響く。やはり誰も俺のほうを見てはいない。


「どうするつもりなんだ?」


 とその声は言った。近くから話しかけられているようにしか思えなかった。俺がきょろきょろとしていると、隣に座っていた買い物袋をさげた女性が怪訝げに視線をよこした。


「馬鹿馬鹿しいよ」

 

 と、また響く。俺はなるべく目立たないように、うつむいて視線だけを動かした。けれどやはり、あきらかに、どこにもいない。俺に話しかけている人間なんて、どこにもいない。状況に戸惑い、強く動揺する鼓動を落ち着けようとしながら一度目を閉じた。


 それからその声は、話すもののいない静かな地下鉄の車両の中で俺をひどく罵った。固いもので打ち付けるように、目に光を当てるように、何度も何度も罵った。降りるべき駅で降りそこねたことに気付いたのは終点についてからのことだ。俺は体を引きずるようにして車両を降り、通路の壁に体重をあずけながら、一度ホームを出ようとした。途中で誰かが心配そうに声をかけてくれた気がしたけれど、返事をできたかどうかは自信がない。たぶんしたんだろう。とにかく聞こえる音はその声で埋まっていた。


 駅の構内から出る。知らない駅を降りて、知らない街に出る。外では雪が降っていて、俺の手はひどく冷え切っていた。


 罵倒の内容は、汚らしい言葉や激しい怒声なんかではなかった。声は、ただ論理的に、どうあがいても正しく聞こえるような言い方で、俺を罵り続けた。間違っているとは、とても思えなかった。


 その日から時折聴こえる声。どう考えても現実のものとは思えないのに、振り払ってもどうしても聴こえてくる声。


 止んでもまた訪れる嵐のような罵倒。


 夢でも、夢じゃなくても、ずっと響く声。





「俺はおまえのためを想っていってるんだ」


 と声は言う。


「ここいらで諦めたほうがいい」


 何を? と、問いかけそうになる。けれど返事をしてはいけない。耳を塞いで、やり過ごすしかない。耳を塞いでも聴こえるとしても。目を閉じて耳を塞いで、やり過ごすしかない。


「考えてもみろ」


 何を? と、問いかけてはいけない。


「罪の重さを、考えてもみろ」


 一瞬だけ頭の中に声が鋭く響き、急にすべてが止まった。


 視界が途切れ、瞼を開けると、見えたのは天井だ。無性に息苦しく、からだが重い。頭が、きしむように痛む。


「だいじょうぶ?」


 ベッドのすぐ脇に、市川が膝をついてこちらを覗き込んでいた。


 見覚えのないような、見慣れたような景色。


「……どこ」


「『アルラウネ』」


「……」


 理解するのに、少し時間がかかる。


「……あー、さめたか」


「たぶんね。さめたと思うよ」


 悪い冗談だ。……冗談になっていない。


「うなされてたよ」


「最後の二、三分が最悪だったよ」


「聴こえた?」


「ああ」


「そっか」


 少し考えたような顔をしたあと、市川は俺の額を手のひらで軽く撫でた。


「……なに」


「や。お疲れ様ーって感じ?」


「……思うんだけど」


「うん?」


「『アルラウネ』で寝たあと、帰ってまた寝るって、割と地獄じゃない?」


「そうだね」


 市川はいつもどおりの様子だった。



 多少調子を整えてから、ベッドを抜け出して「店」に行くと、雅さんは机にもたれて居眠りをしていた。というか、俺たちが出てくるとだいたい居眠りしている。まあべつに、それがいけないとは言わない。

 本当に介入できないのか? 実は俺たちの夢の中に紛れ込んでるんじゃないか? と疑いたくもなるけれど、確かめようもない。もしそうだったとしてもどうにもできない。


「雅さん、終わりましたー」


「……んー? お、おお。おはよう」


「おはようございます」


「お疲れ。どうだった?」

 

「最後が最悪でした」


「ふむ。聴こえた?」


「はい」


 雅さんは顎に指をあてて考えるような仕草をしたあと、「とりあえずお疲れ」と笑った。


「なにか飲む? コーヒーとか」


「……いただきたいですね、俺は」


「デカフェのやつあるならわたしも」


「鈴音ちゃんカフェインだめなの?」


「ううん。この時間に飲んだら寝れなくなっちゃうし」


「……」


 寝たくないからほしいんだよ、とは言わなかった。





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