01-03 慣れつつある


 こういう場面でいちばん悪い対応が、意味のないことを考え続けることだと気付いたのは最近だ。


「どうしてこうなる?」「なぜこんな目に遭う?」「いつになったら終わる?」


 聞いたって答えなんてどこからも返ってこない。起きたことはもう起きている。それを考えるのは今じゃない。


 やるべきことはもっとシンプルだ。


 俺はとりあえず果てのない廊下を歩き続けるのをやめた。どうも、正解じゃない気がする。立ち止まって適当な教室に入ると、そこは最初にいた自分の教室だった。廊下がベルトコンベアかなにかだったのかもしれない。


「うーん」


 とわざと声をあげる。


 教室でなにかしろってことか? というか、廊下になにもないならそうなんだろう。


 月明かりに照らされる教室を、改めて見渡してみる。当たり前だけど教室だ。変なところなんて……。


「やあ」


 人間がいる。まあ人間だ。いるんだろうな、人間くらい。……と、普通に夢を見ているときなら、「そんなこともあるか」くらいに受け入れる(と思う)のだけれど、なにぶんこちらはそこそこ現実的な感覚でこの場にいるのでびっくりしてしまう。さっきまで誰もいなかったし。


 制服姿の男子生徒……のようだ。誰だろう。驚いたままとりあえず彼の姿を眺めていると、


「さっき中庭で見たよ」


 と声をかけられた。


「中庭?」


 何を? と問いかけそうになって、やめた。たぶん市川だ。


「ありがとう」


 とだけいって、俺は彼に背を向けて教室を出た。


 出たら、真昼の中庭だった。


「……」


 もうなにも言うまい。


「や」


 市川はまったりとした様子でベンチに座っていて、こちらに気付くとひらひらと手を振ってきた。


「……」


 校舎からは誰かの笑い声が聞こえた。強い既視感のあと、俺はようやくいくらかほっとする。


「なんかさ」


「うん?」


「今日の放課後会ったとき、こんな感じだったよな」


 市川は少し笑った。俺は彼女のいるベンチに近付き、隣に座る。


「そうだね。記憶の整理ってやつだね」


「そうかな」


 頭がくらくらするので、とりあえず少し瞼を閉じる。……夢の中でも瞼を閉じれば視界を覆えるというのは、いくらか救いかもしれない。考えてみれば、今まで普通の夢を見ていたときに、瞼を閉じるということができた記憶がない。


「今日は会えるまでけっこう時間かかったね」


「そう?」


「けっこう待ったよ」


 待ったらしい。考えても無駄なので、「待たせたな」と適当に返事をしておく。俺たちには支配できない。俺たちにはどうにもできない。そういうもののなかを当て所なくさまようというのは、結局どういうことなんだろう。市川が俺と会うまでのあいだどんな夢を見ていたのか、俺にはわからない。


「そういえば放課後に会ったときは忙しそうだったね。部活?」


「ああ。部誌の原稿、締切今週末だって」


「ふうん」


 市川はいかにも興味なさげだった。当然と言えば当然だ。去年からずっと、彼女は文芸部の部室に顔を出していない。一度も。


「市川は書かないの? なにも」


「ん。書いてもいいけど……」


 と、市川は一瞬、考えるような素振りを見せた。


「いいけど、なに?」


「わたしじゃなくて、三枝くんじゃないの?」


「なにが」


「書かないの。っていうか、書けないの」


 俺は返事に困った。中庭の欅の木が風に揺れて音を立てる。


「『夢が見る者に何かを求めている』って言われるとさ、イメージとしてはこう、自分と向き合うとかそういうイメージになるよね」


「たしかにね」


 夢は俺たちに何かを求めている。俺たちがそれに応えないかぎり、この夢は繰り返される。雅さんに言われた言葉について、俺と市川は何度も考えてみた。けれど、どれだけ考えてみても、考えるだけでは答えは出て来ない。


 ひとりならば、いくらか話は簡単だった。夢が示すなにかから、自分自身に対する求めを推測することもできたかもしれない。

 

 問題は、ふたりだということ。


 俺と市川鈴音は、先月まで話したこともなかった。けれど俺と彼女の夢はつながった。


 話したこともない人間同士が、同じ夢に、何かを求められている。こうなると途方に暮れるしかない。


「わたしたちが、共通の何かから逃げてるってことなのかな?」


「まあ、そういうふうに考えないとどうしようもないよな」


 夢だの無意識だのってものを、意識と理屈で考えるというのは、どこか自家撞着じみている。それでも俺たちはそのようなかたちでしか、夢の求めに接近できない。

 

 夢が、俺と市川に何かを求めているなら、俺と市川は言葉を交わし、お互いと向き合うしかない。


「歩いてみるか?」


 と俺は聞いた。


「どこに向かって?」


「どこでもいいけど、何か見られるかもしれないだろ」


「なんだかそれって、逃避めいてない?」


「顔つき合わせて話してばかりなのと、歩き回るの、どっちが逃避かわかったもんじゃないだろ」


「……たしかにね」


 二人でベンチから立ち上がる。本当に変な話だ。こうして夢の中で一緒に行動することにも、いくらか慣れてきた。


「今日は何か聴こえた?」


「ううん、まだ」


「そっか」

 

 中庭をあとにして、本校舎と東校舎のどちらかに向かおうとする。


「どっちがいい?」


 と尋ねると、市川はふむと溜め息をつき、


「本校舎かな」


「ふむ」


「今日のところはね」


 なるほどね、と頷いて歩き始める。校舎に入ると、さっきまでと違い、もう夜ではない。人の気配とざわめきがあり、教室からは生徒たちの笑い声が聞こえる。


「心当たりある?」


「ん? 何の?」

 

 俺の曖昧な質問に、市川は首をかしげた。


「つまり、向き合わなきゃいけないものの」


「んー。ないことはないけど」


「ないことはないのか」


「そんなの、誰だってそうだと思う」


 そうかもしれない。誰だって夢は見る。誰だって何かを抑圧する。「あなたは何かと向き合っていない」と面と向かって誰かに言われたら、そんな気がする。俺だってそうだ。


「でもね、ここまでしなきゃいけないほどじゃない。こんな夢を見せられなきゃいけないほど、大げさな逃避なんかじゃない」


「うん」


「だからね、やっぱり、そういうことじゃないんだと思う。この夢の中にはなにかのルールがあって、わたしたちはそれを達成しなきゃいけないんだと思う」


 でも、夢だよ。そう言おうと思って、やめた。脱出ゲームみたいなものだと思っていたほうが、いくらか対応しやすい。というより、そうしなければ対応なんてできない。検証することができず、検証されていないことだったとしても、それを前提にして行動しないかぎりなにもできない。


 何か探しものをしている。引き出しを開ける。ない。そう確認したあとに、いや、もう一度引き出しを開けたらそこにあるかもしれない、と思って、もう一度開ける。それを繰り返す。前提がないというのはそういうことだ。


「で、なんで本校舎なの」


「図書室にいきたいの」


「そういや夕方なんか読んでたな」


「『幻獣辞典』だね。アルラウネについて書いてあったから」


「どんな内容?」


「あんまり内容なかった。語源くらい」


「語源?」


「アルラウネの」


「へえ」


 俺はあんまり興味がなかった。


 今度は廊下も普通で、階段も普通で、だから俺たちは迷わずに図書室に到着した。


「フェアじゃないと思うから、わたしが何から逃げてるかを教えておくね」


「いいよ。どうせ意味ないから」


「べつにたいしたことじゃないよ。たぶん、いつか話すことになると思うし。まずはジャブみたいなもの、一個目ね」


 本当は聞きたくなかった。他人の秘密なんて、聞いてどうする?


「あそこ」


 図書室の入り口から、市川は貸出カウンターのほうを指さした。俺は仕方なくそちらを見る。


「……あれ、大野か?」


「うん。文芸部に入ったらしいよね」


「ああ」


 大野辰巳は文芸部員で、図書委員だ。

 貸出カウンターの向こうに座って、暇そうに本を読んでいる。たぶん、芥川龍之介とかそういうのを。「或阿呆の一生」とかを。


「詳細は省くんだけど、中学が一緒でね」


「うん」


「大野くんからラブレター? みたいなのをもらったことがあってね」


「それ俺が聞いてもいいやつ?」


「でね、わたしも大野くんのことけっこう好きだったから、お返事書いてね」


「ほんとにそれ俺聞いていいやつ?」


 大野、女なんて興味がないという顔をして、けっこうやることはやっているのか。いや、この場合手紙のやりとりという点で、「らしい」と思うべきなのかもしれない。


「大野くんの机に、手紙を入れておいたんだったかな、詳しいことはもう覚えてない。でも、そしたら大野くんがね、わたしの手紙をわたしに返してきたの」


「……?」


「『間違えて入れてたみたいだよ』って」


「……話がぜんぜんわからないんだけど」


「わたしもわからーん」


 話しにくいことを話したあとだからか、市川はわざとおどけたように言葉を間延びさせた。


「そのあと大野と話したの?」


「何も。そのまま中学卒業、高校入学、今に至る。って感じ。正直時間も経ってるし、大野くんが文芸部に入ったって聞いたときは、ああ幽霊部員でよかったなって思ったけど、大野くんにはあんまり近寄りたくないなあって思ってる」


「聞いてもいい?」


「うん?」


「それはどういう意味で?」


「ていうと?」


「怒ってるとか悲しいとか、嫌な思い出なのか、それともそういうの抜きに、なんとなく避けたいって感じなのか」


「恥ずかしさかな。うん。時間がすぎればすぎるほどね、実は手紙なんてもらってなかったのかもしれないと思って」


 自分しか認識していないもの。

 自分にしか見えないもの。自分しか覚えていないこと。

 

 その真偽の判断を、人はどのように行うのだろう。


「だから、大野くんとは話したくない。話したほうがいいのはわかってる。でも、確かめたくない、し、もう確かめるには時間が経ちすぎているから」


「なるほど」


「これが一個目。でね、もし大野くんとちゃんと話さないとこの夢から出られないって言われても、わたしは話すつもりはないよ。ごめんね」


「いいよ」


 話すことだって余計なことだ。

 完璧に生きられなければ拷問に遭うような世界なら、世界のほうが間違っている。

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