01-02 アルラウネ


 家で夕食をとったあと、純佳に出かけてくると告げて家を出た。


「気をつけてくださいね」という、いつもの言葉を聞き流しつつ、駅へと向かう。


 時刻は一九時半過ぎ。少し早く出過ぎたかもしれない。最寄りの駅から地下鉄に乗り、二つ隣の駅までいけば、この時刻はまだ賑わう繁華街へとたどり着く。地下鉄を降りて駅のホームを出る。建物を抜けて、デッキを歩く。賑わいはあり明るいが、歩く人の姿は少ない。平日の夜だし、飲み歩く人たちも今はどこかの店の中にいるのだろう。デッキの階段を降りて五分ほど歩き、立ち並ぶ雑居ビルのテナントのひとつ、地下へ向かう階段の前に『アルラウネ』という胡散臭い看板がある。入口の前には市川が立っていた。


「早いな。なんで外にいるんだ?」


 尋ねると、彼女はぼんやりと首をかしげた。カジュアルな私服姿の市川を見るのももう何度目かで、初回のときほど緊張はしなくなってきた。


「待ってた」


「俺を?」


 うん、と市川は頷いた。俺はスマホを取り出して時間を確認する。四十五分過ぎ。彼女はいつからここで待っていたのだろう? 変に危なっかしいやつだ。


「とにかく入ろっか。もうお客さんいないみたいだし」


 市川の言葉のとおり、それ以上その場で話すのをやめて、階段を降りて店の扉を開く。

 狭く短い通路を抜けた先にまたひとつ扉がある。通路の壁にはよくわからない何かを宣伝しているポスターがいくつも貼られている。地元のイベントやバンドや食べ物、そういうものだ。


「このラーメン美味しそうだね」


「そうだね」


 などと、本気で言っているかどうかもわからない言葉に相槌を打ちつつ、奥の扉を開けると、妙に照明の薄暗い部屋に出る。中央にはテーブルと椅子。むこう側にはひとりの女性が座っている。


「こんばんは。ふたりとも早いね」


 いつものように、座ったままで挨拶をされる。


 占い屋『アルラウネ』の店主、雅さんに出会ったのは、市川鈴音と話すようになってすぐのことだった。占い屋なんて普段だったら近付かないし、地下にある怪しげな店舗なんてなおさらだ。それでも俺たちはふたりでここに来た。ここに来なければならないと思った。ここに来る以外なかった。


「こんばんは」


 返事をすると、雅さんは静かに立ち上がって部屋の奥の扉へと向かう。


「じゃあ今日もはじめようか」


『アルラウネ』は占い屋だ。もっとも、占いという言葉について、俺は多くを知らない。




 雅さんが「店」と呼ぶ部屋の奥は、学校の保健室のような作りになっている。カーテンで仕切られたベッドがあり、雑多に書類の並べられた机があり、その上にはパソコンがある。戸棚にはよくわからない薬品、本棚には分厚い書籍がずらっと並んでいる。青白い蛍光灯の明りがやけに寒々しい。初めてここに来たときは、さすがに少し後悔した。こんな胡散臭い店に入って、なにかよからぬことをされてしまうのかもしれないと心の中で純佳に謝った。その感覚が今はないかと言われると、微妙なところだ。胡散臭くて信用できないのは相変わらずだが、起きることは既に起きている。


「昨夜はどんな夢を見た?」


 と、雅さんは尋ねる。俺と市川はそれぞれ隣り合ったベッドにカーテンを挟んで腰掛けた。


「学校の夢でした」


 市川が答える。


「学校のどこ?」


「渡り廊下」


「ふうん。会った?」


「会いました」


 と今度は俺が答える。「そっか」と雅さんはなんでもなさそうに頷いた。


「最近は聴こえる?」


「ときどき」


「俺もときどきです」


「そっか。止まないねえ。まあ、始めたばっかりだしね、今日もやっていこうか」


「はい」


「じゃあ、横になって。電気消すね。何かあったら声かけて」


 そう言って、雅さんは扉を開けて「店」の方へと出ていく。残されたのは暗闇のなか、カーテンを挟んでベッドに横たわる俺と市川だけだ。


「今でこそ慣れたけど」


 と、市川は不意に暗闇のなかで声をあげた。


「最初は緊張したよね、同じ部屋で寝るの」


「嘘だろ」


「なんで?」


「初日から二秒で寝息たててたから」


「そんなことないはずだけどなあ」


 市川はいつものように、掴みどころのない言い方でそんなことを言う。緊張したのは俺のほうだ。

 この奇妙な儀式も、もう五度目になるだろうか。初めてここに来たのが先月の上旬だから、かなり頻繁に『アルラウネ』を訪れていることになる。


「馬鹿なこと言ってないで、寝るぞ」


「はーい」


 静かな薄暗い部屋のなかで、互いの呼吸の音とシーツのこすれる音だけがやけにうるさい。それを意識しないように、いつものように瞼を閉じて、俺は呼吸に集中する。


 馬鹿げた話だ。こんなことで何かがどうにかなると思うなんて、どうかしてる。

 

 でも俺たちは大真面目だった。こんな馬鹿げたことをしてでもどうにかしたいことがあった。




 マンドラゴラが実在の植物でもあるのに対し、アルラウネは架空の妖花、怪物だ。

 俺はこの店の名前を知ったとき、純佳にもらったキーホルダーのことを思い出して怖気を覚えた。


 一種のシンクロニシティという奴なのかもしれない。


 植物。人に似た怪物。




 “目をさます"と、俺は夜の学校に立っている。音はしない。変な静けさのなか、数秒耳鳴りだけが頭の奥で響いた。それもやがて消えていく。

 どうやら、自分の教室にいるみたいだ。周囲は暗いが、窓の外から差す月明かりのおかげであたりの様子くらいは見える。


 とりあえず、教室のなかを見渡すが、人の気配はない。夜なのだから当然だという気もするが、実のところそうではなく、人の気配があることもある。


「とりあえず」


 と暗闇の心細さから声をあげて、弱気を振り払う。ここに来るたびに、俺は臆病な自分を見つけずにはいられない。


「動くか」


 俺は今、『アルラウネ』のベッドの上からここに来た。それはわかっている。ひんやりとした校舎の空気の冷たさと暗さは、慣れはしないけれど知らないものではない。


 要するに、夢だ。


 俺と市川鈴音は、現実よりも先に夢の中で言葉を交わした。最初に出会ったのは三月の末頃。


 年の瀬にいろいろあって、それから妙な夢を立て続けに見るようになった。変な生々しさ、現実感、夢なのに『見ている』のではなく『動かしている』実感。その、現実との区別のつかなさ。最初の頃は奇妙な世界に迷い込んだのだと本気で思った。そのくらい、感覚も、認識も、日常と変わらない。「夢だとわかる夢」を明晰夢と呼び、明晰夢のなかでは自分の好きなように夢を支配できるというが、そうだとしたらこれは明晰夢ではない。


 夢だとはとても思えず、自分の力ではどうにもならない何かに支配されている。

 それでもさめてしまえば現実が現実で、夢は夢だったのだと理解できる。だから俺は、奇妙な夢を見続けているのだと思った。毎晩のように。おかしくなりそうなくらいに。


 そのなかで俺は市川鈴音と出会った。だから最初、俺は市川が、ただの夢の登場人物に過ぎないのだと思った。


 それは他者ではなく、自分のなかにある何かなのだと。


 けれど違った。


 市川鈴音は市川鈴音として、俺の夢の中にいた。

 同じように、俺は俺として、市川鈴音の夢に登場した。


 俺たちが話すようになったのはそれがきっかけだった。


 渡り廊下で本を読んでいるだけの少女、彼女と夢の中で話し、そして現実でも声をかけた。思い返してみても馬鹿げている。「もしかして、夢で俺と会わなかったか?」なんて。でも彼女は頷いた。


「夢のなかできみに会った」


 と彼女は言った。そして俺たちは気付いた。自分たちの身になにか奇妙なことが起きていること。それが俺たちの生活を苛み、蝕み、疲弊させ、削り取っていること。


 夢のように思えない夢からさめたあと、俺たちは疲れ切っている。ちょうど寝不足のように頭はうまく働かず、夢と現実との区別がつかなくなる。それがひとりの夢なのであればまだしもよかった。ふたり同じものを見ているというのはひどく厄介なことだ。


 もちろん夢は夢だ。意味なんてない。けれどこの夢を俺たちはどうにかしたかった。


 出来うることならば普通に眠り、ひとりきりの夢を見たい。


 そうしなければ俺たちは夢の中を現実のように生きるはめになる。休まるものも休まらない。


「都市伝説みたいなのがあってね」


 と市川はそのとき言った。


「夢をみる人の話。ネットの噂なんだけど……」


 夢をみる、というのは一般的な意味ではなく、夢を診る、と書くのだと。


 要するに夢占いみたいなもん? と聞き返すと、そうではないと彼女は首を横に振った。


「もうちょっとオカルト」


 夢占いも十分オカルトだろ、と思ったけれど言い返さなかった。俺たちの現状が十二分にオカルトだったからだ。


 そういうわけで俺たちは『アルラウネ』に辿り着いた。

 

 夜の学校の廊下はどこまでも伸びていた。普段見ているより随分長い。果てがあるように思えない。こういう景色を生々しく見ていると本当に、たまらない気持ちになる。


 何の罰でこんな目に遭わなきゃいけないのか。


 いちばん最悪なのが、夢というのが現実の時間通りには流れてくれないことだ。


 数時間耐えれば朝日が必ず昇るというものでもない。いつ終わるのか、よくわからない。


 無目的に、俺は果てのない廊下を歩く。立ち並ぶ教室にはやはり人影も気配も音もない。そしてどこまで歩いても階段がない。


 昨夜は市川と渡り廊下で出会った。彼女もそこに向かっているかもしれないと思ったが、今日はそこに行き着けそうもない。


 雅さんいわく、こういう夢を見る人間は多くはないが前例がないわけではないという。こういう夢、つまり、誰かとつながってしまう夢。生々しく、自分がそこにいるとしか思われない夢。診るといっても、雅さんはそうしたものについての知識がいくらかあるだけで、介入したり覗きみたりできるわけではないそうだ。彼女にできるのはただアドバイスだけなのだと。


 彼女は言う。このような夢は見る者に「何かを求めている」。そしてその求めに応じない限り「夢は繰り返される」。


 そういうわけで、俺と市川は夢の中をさまよう。さっさと終わってくれないと、いつか本当に気が狂ってしまいそうだ。


 けれど、本当に馬鹿げた話だ。どうして夢が人に何かを求めたりするだろう?


 そう思いながら、けれどさまようしかない。

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