どこかで、誰かが見ています(一)
「おいおい、何だよこいつは……」
同心の渡辺正太郎は、不思議そうに首を捻る。
彼の目の前には、男の死体が転がっていた。それ自体は、特に珍しいことではない。同心である以上、死体の検分は避けて通れないからだ。
しかし、その死体の状態は尋常なものではなかった。背骨がへし折られ、首は奇妙な方向に曲がっている。さらに、その顔は恐怖に歪んでいた。間違いなく他殺だろうが、やり方が普通ではない。まるで、怪談話に登場する妖怪にでも襲われたのようだ。
「凄い力だな。こいつは、物の怪にでも殺られたのか?」
渡辺の何気なく洩らした一言を、岩蔵は鼻で笑ってのける。本来なら、目明かしが同心にこんな態度をとったなら、確実にただではすまない。しかし、この二人の場合は別だった。力関係は対等……いや、ある意味では岩蔵の方が上なのである。
「旦那、なに馬鹿なこと言ってるんですか? こいつは紛れもなく、人の手による殺しですよ。物の怪が下手人だとしたら、完全にお手上げでさあ。あっしらに出番はないですから。そん時は、坊主でも呼んで来ますよ」
「まあ、そうだよな。しかし、こんなことを素手で出来る奴がいるのかね?」
渡辺の言葉に、岩蔵は難しい顔になる。
「あっしには、心当たりは無いですよ。ただ、江戸は広いですからね。どんな奴が潜んでいるか分からねえですよ。旦那も、気を付けるんですね」
その頃。
町外れの材木置場に、三人の男たちが集まっていた。
「
言いながら、数枚の小判を手渡す中年男。すると、小柄な男と雲を突くような大男のふたりが頭を下げ、小判を受け取る。
「ありがとうございやす。ところで勘兵衛さん、次の仕事はいつですか?」
小柄な男が、下卑た笑みを浮かべながら尋ねた。ぼさぼさのざんばら髪と猿のように腕の長い体つきが、見る者に不気味な印象を与える男だ。
「明日、雲衛門がひとり殺ったら、当分は店じまいだ。今はまだ、ほどほどにしておかねえとな。これ以上、派手にやると、蛇次の奴に目を付けられるぞ」
そう言った後、
「いい加減、巳の会にでけえ面されんのも考えものだな。雲衛門、おめえはどう思う? 巳の会と殺り合う気はあるか?」
勘兵衛のその言葉に、大男は頷いた。身長は、七尺(約二百十センチ)はあるだろうか。肩幅も広く、腕は丸太のように太い。まさに、子供向けの絵物語に登場する鬼のようである。
「いい。勘兵衛さんが殺れと言うなら、誰でも殺る」
この勘兵衛は、江戸の片隅で大工を営む中年男である。と同時に、裏の世界では
そんな勘兵衛が得意とするのは、配下の人間を使った殺しだ。小柄な伝七は、素早い動きで相手の急所に
このふたりに加え、勘兵衛には他にも多くの手下がいる。そんな手下たちを使い、情報収集や、殺しのための下準備などをさせているのだ。
そんな勘兵衛にとって、他の商売人たちの存在は邪魔であった。特に、上から物を言ってくる蛇次の存在はうっとおしくて仕方ない。いずれ、仕留めてやろうと爪を研いでいたのである。
・・・
壱助は揉み療治の仕事を終え、ひとりで歩いていた。辺りはすっかり暗くなっている。
そういえば、最近では昼間に出歩いていても、子供たちに石を投げられることも少なくなったように思う。これも権太のおかげかもしれない。
杖を突き、道に沿って歩いていた彼だったが……妙な気配を感じ、足を止める。これまでに遭遇したことのない巨大な男が、すぐ近くにいるのがわかった。大柄な権太よりも背が高い上、横幅も広い。
さらに、血の匂いがしている──
「お前、めくらなのか?」
突然、聞こえてきた声。ぶっきらぼうで、知性は感じられない。むしろ、幼さすら感じさせる。
だが壱助は、心臓が止まりそうな衝撃を感じていた。間違いなく、大男はついさっき人を殺したのだ。どこかに死体が転がっている。対応を間違えば、さらに死体が増えることになる。大男か、あるいは自分か。
だが、金にもならない殺しは、なるべくならしたくない。
「ええ、あっしはめくらですよ」
何事もなかったかのような口調で答える。だが、その手は仕込み杖の柄を握りしめていた。間合いはまだ遠い。向かってきたとしても、こっちの抜く方が早いだろう。
だが問題は、相手の突進の勢いを一太刀で止められるかどうかだ。この男の目方は、三十貫(約百十二キロ)を軽く超えているだろう。熊並みの大きさだ。ぶちかましを喰らったら、ひとたまりもない。
壱助の体は簡単に吹っ飛ばされ、直後に踏み殺されるだろう──
そんなことを考えながら、壱助は少しずつ間合いを空けていく。大男は、武器は何も持っていないようだ。しかし、体の大きさがこうまで違うと……素手で自分を捻り潰せるだろう。壱助の額から、一筋の汗が流れ落ちる。
その時だった。
「そうか。めくらなら、いい。さっさと行け」
間延びした口調で喋り、大男は去って行った。歩くだけで、地響きが起きているかのような錯覚に襲われる。
大男が立ち去って行ったのを確認すると、壱助も杖を突き、足早に歩いて行った。背中には、びっしょりと汗をかいている。
彼はまず、己の住居である廃寺へと向かった。
「どうしたんだよ、あんた。汗だくじゃないか」
目を丸くするお美代は、急いで壱助の着物を脱がせた。手拭いで体の汗を拭く。
「ああ、すまねえな。あんなのと出くわすとは思わなかった。江戸のどこに隠れていやがったんだよ。悪いが、水をくれないか」
「うん。ほら、飲みな」
差し出された湯のみを、壱助は震える手で口に運ぶ。喉の渇きにすら、今まで気づいていなかったのだ。
「あんた、どうしたんだい? 化け物でも見たような面になってるよ」
尋ねるお美代に、壱助は首を縦に振る。
「そう、その化け物に遭ったのさ」
「はあ? 何だいそりゃあ?」
お美代のすっとんきょうな声に、壱助の表情が和んでいった。
「ああ、化け物さ。怖かったぜ、お美代」
言いながら、壱助はお美代の体を抱き寄せる。
「ちょっと! こんな時に、なに考えてんだい馬鹿!」
「いいじゃねえか。俺は、怖い思いをしたんだ。ちょっとは優しくしてくれよ」
とぼけた口調で言いながら、壱助はお美代を抱きしめた。
お美代はもともと、飛騨の山奥に暮らしていた。
壱助が聞いた話によれば、彼女は幼い頃に行商人である両親と飛騨飲の山中を旅をしていた。だが、そこで手負いの月の輪熊に襲われたのだ。
不意を突かれて両親は死亡、お美代も全身にひどい傷を負った。しかし、月の輪熊を追っていた猟師が熊を撃ち殺した。彼女は猟師に助けられ、以来ずっと彼に育てられてきたのだ。
熊に襲われた傷は癒えたものの……それ以来、お美代の顔は醜く変形してしまっている。唇はおかしな形に歪んでおり、顔全体には太い線のようなぎざぎざの傷痕が、何本も張り付いていた。傷痕は、体にも残っている。
その傷のせいで、お美代は筆舌に尽くしがたい差別を受けてきた。化け物などと呼ばれ、子供たちに石を投げられるのは、まだましな方なのである。
結局、彼女はまともな仕事に就くことなど出来なかった。
そんなお美代に、裏の仕事を紹介したのが壱助だ。親代わりの猟師──流行り病で亡くなっている──に仕込まれた銃の腕は、一発必中だ。今では、名人の域に達している。しかも、銃の構造にも詳しい。事実、壱助の持ってきた竹の切れ端を細工して、有り合わせの短筒をこしらえてしまえるくらいなのだから。
こうして、壱助とお美代は組むこととなり、お禄の下で働くようになった。
そんなふたりは、いつしか恋仲になり、今では夫婦同然であった。お美代にとって、盲人である壱助は……自分の顔のことを気にすることなく付き合える、初めての男だったのだ。
今では、お互いになくてはならない存在となっている。夫婦として、仕事の相棒として。
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