どこかで、誰かが見ています(二)

 翌日、壱助は上手蕎麦にて蕎麦をすすっていた。お禄に会いに来たのだが、あいにく今は留守のようである。


「すまないねえ、壱助さん。お禄さんは一度飛び出したら、なかなか帰って来ないから……」


 蘭二の言葉に、壱助は苦笑した。まあ、仕方あるまい。なにせ彼女は、小さいとはいえ裏の組織を束ねる身なのだ。自分たちにはわからない苦労も、いろいろとあるのだろう。


「そうですかい。だったら、気長に待たせてもらうとしますか。構わないですかね?」


「ああ、私は構わないが……何かあったのかい?」


「いやあ、ちょいと困ったことになりましてね。昨日、化け物が出たんでさあ」


「化け物?」


 蘭二は不思議そうな顔をした。


「ええ、恐ろしい奴が出ましてね」


 言いながら、壱助はにやりと笑う。つるつるに剃りあげた頭、閉じられた眼、痩せてはいるが筋ばった体つき……彼もまた、見ようによっては化け物である。だが、蘭二はにこりともしなかった。




 しばらくして、戻って来たお禄と壱助は地下室に行った。

 そこで壱助は、夕べの出来事を話す。


「大男? なんだいそりゃあ?」


 お禄が尋ねると、壱助は顔をしかめる。


「わからねえんですよ。ただ、歩くだけで地響きが起きそうな大きな男が、人を殺していた……ということしか、わからなかったんです。お禄さんは、そんな奴に心当たりはありますか?」


「ないこともないね。一応、確認しておきたいんだが、あんたはそいつに面を見られたのかい?」


 真剣な様子で尋ねるお禄に、壱助は頷いた。


「あっしに気づいていたのは間違いないです。めくらだから、見逃してくれたみたいですがね。ただ、あっしの勘だと……あいつは、ご同業じゃねえかって気がするんですよ」


 壱助の言葉に、お禄は顔をしかめながら答える。


「ああ、そうさ。そいつは多分、鼬の勘兵衛の手下だよ。ご同業さ。ただ、そいつは普段、地下の座敷牢にいるらしいんだけどね」

 

「地下牢、ですか? 本当に、絵物語にでも出てきそうな奴ですね」


「そうなのさ。噂によると、そいつは図体はでかいし、力も熊なみに強いらしいよ。けど、頭は恐ろしく悪いって話だ。野放しにしとくと、何をしでかすか分からない……だから、勘兵衛は滅多に外に出さないらしいんだよ」


「参りましたね、そんな奴が江戸にいたんですかい。あっしは、ちっとも知りませんでしたよ」


「まあ、あたしも実物を見た訳じゃないからね。本当に、そんな奴がいるのかはわからない。でもね、勘兵衛だとしたら気をつけた方がいいよ。あの野郎は、かなりしつこいらしいから。あんたも、しばらくはおとなしくしてるんだね」


 お禄の言葉に、壱助はため息を吐いた。


「そうですかい。面倒な場面に出くわしたもんですなあ。あっしはめくらだから、下手人の面なんか見えやしねえのに」


「いや、勘兵衛はね……相手がめくらだろうと、何だろうとお構い無しだよ。殺る時は、きっちり殺る男さ」




 その翌日。

 お禄が店で、蘭二とともに蕎麦を打っていた時だった。


「お禄さん、いるかい」


 声と同時に、店に入って来た者は見覚えのある若者だった。ざんぎり頭で小柄、人当たりのよさそうな顔立ちである。お禄は思わず眉をひそめた。


「おや、捨三すてぞうさんじゃないか。まだ店は開けてないんだけどね」


「いや、こりゃすみませんでした。しかしねお禄さん、うちの元締が至急あんたに話があるって言ってるんですよ」


 言いながら、捨三は面目なさそうに頭を下げる。

 この若者は巳の会の一員であり、蛇次の使い走りだ。見た目は軽薄そうであるが、巳の会の後ろ楯があるからといって、他の者たちに無闇やたらと横柄な態度を取らない賢さも持っている。


「蛇次さんが? どんな話だよ?」


 お禄が尋ねると、捨三はちらりと蘭二を見た。


「うーん……お禄さん、明日なんですが、ちょいと来てもらえないですかね」


「明日? 何の用だい?」


「それは、あっしの口からは言えねえんでさあ。とにかく、来てもらえると助かる、と元締は言ってます」


「そうかい」


 お禄は考えた。いったい何の用なのだろうか……まあ考えるまでもない。あの蛇次が、単なる茶飲み話で自分を呼び出すはずがないのだ。

 確実に仕事の話だ。それも、裏の仕事である。本音を言えば、行きたくはない。しかし、蛇次の申し出を断るというのも、良い選択とは思えない。


「わかったよ。明日だね」


「ええ。明日の戌の刻(午後七時から九時の間)に、辰巳屋で待っているそうです。よろしくお願いします」




 捨三が帰った後、お禄は眉間に皺を寄せ思案する。すると、蘭二が案じるような表情で覗きこんできた。


「お禄さん、明日は私も行くよ」


「いや、来なくていいよ。あんたがいなきゃ、店が成り立たないからねえ」


 そう言って笑ったが、蘭二はにこりともしない。


「いや、駄目だよ。私も行く。こいつは、妙な話だと思わないかい? 急すぎるよ。考えすぎかもしれないが、ひとりでは行かせられないね。あなたに何かあったら、仕上屋はおしまいだ。店なんか、一日くらい休んでも構わないよ」


「大げさだねえ。大丈夫だよ……」


 お禄は言いかけたが、蘭二には引く気配がない。その端正な顔からは、不退転の決意すら滲ませているのだ。さすがの彼女も、目を逸らし黙りこむ。

 確かに妙な話ではある。蛇次からの呼び出しなど、ここ数年なかった。

 仕上屋と巳の会……ふたつの組織は、お互いの存在を意識しつつも、これまで交わることなく活動していた。たまに蛇次が牽制してきたり、警告してきたりすることはあったが、基本的にはほとんど関わったことがない。接点も持たずにいた。

 それが、いきなりの呼び出しとは、どういう料簡なのだろうか。いずれにしろ、用心するに越したことはない。


「わかったよ。明日は、あんたにも来てもらうとしようか。頼りにしてるよ」





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