第四章 ~『ハラルドとクルツの闘い』~


 クラリスの鋭い視線が、かつて愛した王子へと向けられる。目尻から溢れる涙は燃えるように熱を帯びていた。


「どうしてこんな酷い事を……っ……」

「どうやら俺は間違えたようだな」

「悔やんでも遅――」

「正気に戻ったと誤解していた。どうやらアルトの洗脳はまだ解けていないようだ」


 ハラルドの自己本位な思考が、クラリスの怒りを都合の良い結果に解釈する。この人には何を言っても無駄だと悟る。涙を拭った彼女は、ここには居られないと走り出した。


「俺から逃げられると思っているのか?」

「思いません! ですが、あなたの傍にはいたくないのです!」

「無意味なことを……」


 軍隊で鍛えられたハラルドの足からか弱い少女が逃げられるはずもない。余裕の笑みさえ浮かべて、追いかけるために足を踏み出す。だがその余裕が事態を変えた。森から人影が飛び出してきたのだ。


「無駄じゃない。なにせ俺が助けに来るだけの時間が稼げたからな」

「クルツ様っ!」

「聖女の娘さんの声が聞こえたからな。走ってきて正解だったぜ」


 獅子のように茶髪を逆立たせたクルツが、腰から剣を抜いてクラリスを背中へと庇う。


「なんだ、お前は? 俺の敵か?」

「敵じゃねぇよ。俺はただ聖女の娘さんの味方なだけだ」


 二人の視線が交差し、火花を散らす。両者の身体から溢れる魔力が、敵意を証明していた。


「聖女の娘さん、あんたは逃げな」

「ですがクルツ様を置いてはいけません」

「……やっぱり、あんたは良い女だな。だからこそ守ってやりたくなる。川沿いに真っ直ぐ進めば、ゼノの奴がいる。合流して、アルト公爵の元へと送り届けてもらえ」

「で、ですが」

「早く行け! 俺は一人の方が戦いやすい」

「――っ……必ず助けを呼んできます!」


 足手纏いになるのはクラリスの望むところではない。クルツを残すことを悔やみながらも、背中を向けて駆けだした。


「俺たちの愛の邪魔をするつもりか?」

「はっ、言い間違えるなよ。正しくは一方的な愛だろ」

「王子である俺を侮辱するのなら容赦はせんぞ」

「王子ね……兄貴からも聞いているぜ。王宮では馬鹿王子として有名らしいな」

「兄貴だとっ」

「グスタフ公爵は俺の兄貴なのさ。残念ながら母親違いで、俺に王族の血は流れていないがね」

「あの男の……ははは、これはいい。グスタフ公爵には鬱憤が溜まっていたのだ。丁度いい意趣返しになる」

「やれるものならやってみろよ」


 クルツは帝国との戦争を戦い抜き、元負傷兵たちを束ねていた実績を持つ。只者ではないと、ハラルドも気づいていた。


 だが異常なほどの自己評価の高さが、敗北の恐怖を感じさせない。掌に魔力で生み出した水弾を浮かべると、高速に回転させる。


「クラリスの知人だ。命を奪うことだけは勘弁してやる」

「もう勝った気でいるのかよ?」

「当然だ。なにせ俺は王子だからな」


 ハラルドの掌から水の弾丸が発射される。それをクルツは紙一重で躱して、間合いを詰めようとする。だが彼の前進は竜巻にでも巻き込まれたかのような突風によって邪魔される。近寄りたくても近づくことができずに、クルツは舌を打つ。


「さすがは王国最強の自然魔法だ。敵にするととんでもなく厄介だな」

「降参するのなら今の内だぞ?」

「俺も武人の端くれだ。戦わずに負けを認めるようなことはしねぇよ」

「だが勝機はないぞ。王族でないと聞いた時点で確信した。領主を兄であるグスタフ公爵に奪われたことを踏まえても、お前の母親の爵位は高くない」

「……俺の生まれが、今ここで何の関係がある?」

「ははは、関係あるさ。つまりお前は母から受け継いだ非戦闘向けの魔法しか扱えない。剣で斬るしか能のない男に俺は負けん。なにせ近寄らせなければいいだけなのだからな」


 ハラルドの魔力に反応して、川の水が氾濫を始める。穏やかな川の水量が増し、人工的な津波が生み出された。


「おいおい、嘘だろっ」


 背よりも高い津波がクルツに迫る。彼はハラルドに近寄ることさえできないと知り、最後の手段に打って出る。


 手に握った剣をハラルドへと投げつけたのだ。慌てて投げられた剣は狙いも定まっていない。ハラルドは魔法さえ使うことなく、顔を逸らして剣を躱す。


「悪足搔きが俺に通じるものか」


 最後の抵抗もむなしく、クルツは津波に飲み込まれてしまう。水の勢いに押される形で、彼は森へと流されていった。


 邪魔者は排除した。だがハラルドの機嫌は悪いままだ。流されていくクルツは無力感に悔しがるでもなく、仕事をやり遂げた達成感で笑っていたからだ。


「思った以上に時間を無駄にさせられたな」


 クラリスの背中はもう見えない。最初からクルツは時間稼ぎが目的だったのだ。


「まぁいい。こちらは馬だ。追いつけない距離ではない」


 すぐにでも追いかけようと待機させていた愛馬へと視線を向ける。振り返った先には、地面に刺さった剣と、足の斬られた愛馬の姿があった。


「あいつの本当の狙いはこれかっ!」


 斬り傷は致命傷ではない。時間を置けば自然治癒する程度の軽傷だ。しかし怪我をした箇所がマズイ。速度を出すための足を斬られては、愛馬に無理をさせるわけにもいかない。


「クソ、俺をコケにしやがって!」


 悔しさに雄叫びをあげるが、怒りの対象は水に流されて森の中だ。下唇を噛みながら、ハラルドは川沿いを走る。クルツの活躍は彼から時間と体力を奪ったのだった。

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