第一章 ~『幸せになった二人』~


 クラリスが嫁いできてから一年が経過した。領内では鴛鴦夫婦として有名になった二人だが、まだ正式に婚姻は結んでいない。


「お茶を淹れたんですよ。召し上がってください」

「クラリスの淹れるお茶は絶品だからな」


 屋敷の窓から内庭の景色を眺める。手入れされた庭には公爵家に相応しい深紅の薔薇が咲いていた。


「使用人の皆さんが戻ってきてくれて良かったですね」

「これもすべてクラリスのおかげだ」

「いいえ、あなたが笑うようになったからですよ」


 以前のアルト公爵は醜い顔を卑下し、いつもムスっとしていた。そこに使用人たちは恐怖を覚えていたのだ。


 だが笑えば愛嬌のある顔になる。見慣れたクラリスは愛らしいとさえ思えるようになっていた。


「いいや、やはりクラリスの力は大きいさ。診療所の評判が広まり始めた時期と使用人たちの戻ってきた時期が一致しているからな」


 エリスの立案で設立された診療所は、アルト領で知らぬ者がいないほどの評判になっていた。


 安価な治療費で、どんな傷や病気も治してくれる。病気や怪我から救われた人たちは、聖女であるクラリスと、彼女のスポンサーである公爵に恩を感じるようになった。醜男だと、アルトのことを馬鹿にする者はもういない。偉大な領主として、崇められていた。


「君が来てからは毎日が本当に楽しいよ。こんな日々が訪れるなんて思いもしなかった」

「アルト様……」

「宮廷に招かれれば、貴族たちから醜いと後ろ指を差される。婚約者たちも顔を見るだけで悲鳴を上げる始末だ。だが……君だけは私をまともな人間として扱ってくれた。本当にありがとう」

「あ、頭を上げてください。それに感謝するのは私の方ですから」

「君が私に感謝することなんて……」

「ありますとも。婚約破棄されて行き場を失っていた私を拾ってくれました。この恩は一生忘れませんから」

「……なんだか私たちは似た者同士だな」

「ふふふ、きっとそうなのでしょうね」


 紅茶を啜ると、幸せを実感する。こんな時間がいつまでも続けばいいのにと、屋敷の外を眺めていると、荷馬車が屋敷へと駆けこんでくる。


「この馬の足音は……どうやら王宮から客が来たようだな」

「何の用事でしょうか?」

「年貢の催促か。はたまた舞踏会のお誘いか。いずれにしろ下らない内容さ」


 とはいえ、王宮の使者を無下にするわけにもいかない。屋敷の中へと案内すると、客人に紅茶を振舞う。


「お久しぶりですね、聖女様」

「あなたは……」

「お忘れですか? あなたを屋敷へとお連れしたグランです」


 立派だった白髭がなくなり、顔に刻まれた皺の数も増えていたため、一見すると分からなかったが、客人はクラリスをここまで連れてきた老人だった。


「私も老けましたからね。分からぬのも無理はありません」

「今日はどういったご用件で?」

「実は聖女様に朗報をお持ちしました」

「私に?」

「実は王子の婚約者であるリーシャ様が浮気をされまして。しかも一人ではなく、両の手で数え切れぬ男に手を出した放蕩振り。これに激怒した王子は婚約を破棄されました。そして新しい婚約者として、あなたをと指名されたのです」

「王子がどうして私を……」

「距離を置いたことで、聖女様の価値を再認識されたそうです。幸運にも、あなた様はまだ婚約止まりで、婚姻を済ませておりません。王子の妃になる資格は十分にあります」


 一年前のクラリスなら泣いて喜ぶ朗報だ。だが今の彼女にはもう一人大切な人がいた。


「申し出はありがたいのですが、私には……」

「良かったじゃないか。兄上のことが好きなんだろ。自分の気持ちに正直になるべきだ」

「ですが私は……」

「遠慮するな。私のような醜男より兄上のような美男を選ぶのは当然だ。私も納得している。愛し合う者同士で暮らすんだ」

「アルト様……ッ」

「さぁ、グラン。兄上の元へと連れて行け。そして伝えろ。この人を必ず幸せにしろとな」

「身命に変えましても」


 有無を言わさぬ迫力で屋敷から去るように命じる。グランはクラリスの手を引き、彼の元から立ち去った。


「ははは、私は本当に馬鹿な男だ!」


 紅茶の乗ったテーブルに頭を叩きつける。痛みが心の苦しさを忘れさせてくれることに期待して、額から血が流れても自傷を繰り返した。


「これでまた一人だ……っ……私の味方はいなくなってしまった……」


 目尻から涙が零れる。生まれてから母親にさえ「気持ち悪い」と侮蔑されてきた彼は、人に愛されたことがなかった。


 だがクラリスは醜さに嫌悪を抱かないでいてくれた。この娘と婚姻を結べれば、どれほど幸せだろうかと何度も夢を見た。


「……ぅ……愛していたよ、クラリス」

「私もですよ、アルト様」

「――――ッ」


 幻聴かと思い、顔を上げると、そこには失ったはずの婚約者がいた。


「どうして? 兄上の元へと帰ったはずでは?」

「縁談の話はお断りました」

「な、なぜだ? 兄上の事が好きなんだろ?」

「好きですよ。でも王子よりアルト様の方が何倍も好きなんです」

「わ、私のことが……」


 好きだと伝えられたのは初めての経験だった。戸惑いと感動で涙の勢いが強くなる。


「一年間、一緒に暮らして分かりました。あなたは誰よりも優しい人です。私が落ち込んでいると慰めてくれますし、困っている領民がいれば馳せ参じる。知っていますか? 診療所の皆さんはあなたへの感謝ばかり口にするんですよ。あなたは決して一人ぼっちではありません」

「……っ……本当に私でいいのか? こんなにも醜い顔なのだぞ?」

「構いませんとも。あなたは人に負けない美しい心を持っています。それだけで十分ではありませんか」

「……ぅ……ありがとう」


 心の底から出てきた感謝であった。彼女が自分を選んでくれた喜びで、涙が止まらなかった。


「おでこも怪我をしているようですね」

「これくらいの怪我なら放っておけば治るさ」

「私があなたのために治療したいのです。駄目ですか?」

「そんな風に頼まれたら断れないじゃないか」


 額に手を近づけると、回復魔法を発動させる。活性化した細胞が傷口を修復し、怪我など最初からなかったかのように元通りにする。


「あれ?」


 そしてもう一つ異変が起きた。醜い形をしていた彼の顔が、本来あるべき位置に戻るかのように変貌し始めたのだ。


「この症状はまさか呪いでしょうか」


 以前治療した老婆は骨折したわけでもないのに腕が曲がっていた。彼の鼻や眼も魔物の呪いによって形が歪められていただけだとしたら。


 呪いを祓い、公爵の顔は本来の形へと変化する。白磁のような肌に映える凛々しい瞳、色素の薄い唇と筋の通った鼻は芸術品のように美しい。


 その顔は見覚えのある容貌だ。王国の宝とまで称された王子の容貌にそっくりなのだ。王子と兄弟なのだから、それも当然だと納得する。


「アルト様、鏡に映った顔を見てください。この顔が本当のあなただったんです」

「この顔が私……ははは、随分と男前じゃないか」


 姿鏡に映る自分の顔に感動し、肩を震わせる。醜さで迫害されてきた人生は幕を閉じたのだ。


「この顔なら自信を持って、伝えられる。クラリス、君を愛している。私と結婚してくれ」

「もちろん。喜んでお受けいたします」


 二人の美男美女は喜びを噛み締めるように抱きしめあう。婚約破棄された聖女は、価値を認めてくれる公爵と共に幸せな人生を歩み始めたのだった。


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