第9話 響き渡るはシャウト、猛る鼓動はラウド

「アアアァァァッ!!!!!」

「…………」


 場所は、小さなカラオケ店。

 その比較的小さな個室。

 ごく普通の日常の一部となる、ありふれた場所だったはずだ。はずなのだが、しかし。

「アァァァァァ!!! ガァァァ!!!!」

「────ひゅ、」

 目の前で起きている出来事を、私はただ呆然と眺めていた。想像だにしなかった光景に目を丸くするばかりの私を尻目に、ベビーは。


「無念怨念悔恨慟哭shout louder! アァァァァァ!!!!」

 今にももげてしまいそうな勢いで首を振りながら、初めて会った日に聞いたデスボイスを披露してくれているのである。裂けたうなじからちょっとだけ腐った血液が噴き出しているが、まぁステージの炎みたいな演出みたいなものだ。元々は私が歌おうと思って入れた曲だったのだが、なんとこのベビーは初めて聞くはずのこの歌を完璧に歌いこなしている……これは、才能だ!


 ティン……ティンと来た!

 この子のちょっと青黒いけど可愛らしい見た目とこの往年の貫禄すら感じさせるデスボイスのギャップ……いける!


「いい、いいねぇ」

 首や頭をむしりながら頭を振り、肉片や髪の毛が散るのも構わず、厭世の念に囚われて全てを失った男の心を歌ったとされる曲を歌いあげるベビーの姿に、私は我知らず涙を流していた。

 思わず全私がスタンディングオベーションである。「うわ、ないてる。ぬれてて、きもちわるい」と言われたりもしたが、それにも構わずついつい次の曲をリクエストしてしまうほど。感じたまま、思うままに叫んでいいと伝えたところ、すんごい。本当にすごい。


「音楽の天使……」

 ベビーには、そんな形容がぴったりだった。

 以前どこぞの劇団が往年の名作を演じたとき、よくテレビCMでそんなフレーズが出てきていたような記憶があるが、きっとあの怪人がベビーと出会っていたらクリスティーヌそっちのけでベビーを狙う不審者と化していたに違いない。もちろん、ママという鉄壁の壁がある以上通しはしないのだが。

 脳内であの怪人相手に熾烈なベビー争奪戦を繰り広げ、やや劣勢になっていた頃。「うに、」という声が聞こえてベビーを振り返ることになった。うに? ウニの悲哀を歌った曲なんて私入れたかな……強いて言うなら2曲くらい先に入れた「Berserk Siren」は荒れ狂う海のように叫べる曲ではあるが、ウニ? ……いろいろなことを思いながら振り向くと、椅子の上でベビーが丸くなって眠っていた。


「ウニじゃなくて、猫ちゃんだったね」

 思わず携帯を取り出して連写してしまう。こんな可愛らしい光景を前に、どうして静観なんてしていられるだろう? くぅくぅと立てている寝息はセンシティブとヒーリングのどちらをも兼ね備えたASMRのようだったし、もはや動画に投稿すればジャスティス・ヒーハーの誇る記録的な再生回数なんて軽く超えてしまうだろう。いやいやこの可愛さ、全世界に配信してしまいたい……いやそんなことせずに私のカメラやファインダーの中だけで独占しておきたいような気さえしてしまう。なんだろうこの幸せな光景は? スマホに刺している外部メモリが全てベビーの写真で埋まってしまいそうだった。


 そして目を覚ましたベビーに「きもちわるい」とすさまじい目付きで見られ、そこまで言われたならとちょっと熟成の進みすぎた感じの頬をちゅっぺろした後、ぺちん!という可愛らしいビンタをお供に帰りの自転車に跨がった。

 夕焼けはもうどこかに沈んだ後で、まばらに配置された街灯の頼りない明かりだけが私たちの行く手を示している。肌寒さも相まって、どこか心細くなるような暗がりだった。

 だが、私は確信していた。


 この子は、新時代を作れると。

 これからは、コインロッカーベビーの時代なのだ、と!!


「ふひゅっ、ふひっ、ふへへへへへ……」

 スター誕生の予感に胸をときめかせながら、私はベビーを起こさないようにゆっくり自転車を漕ぐのだった。

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a baggage locker─私がママになった日─ 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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