第7話 窓を開けて、惑う朝に

 ……寒。

 目を覚ましたのは、ソファの上だった。


 あれ、何でこんなところに? 芋虫のようになりながら脱ぎっぱなしのズボンを穿いて──ハッ!?

 思い出した……何故布団にも入らずに寝ていたのか、寝る前に何をしていたのか……!?


 昨日見つけたマラソン大会の動画に映っていた娘が別サイトで個人配信しているというを見て、そのまま放心して寝てしまったんだ……! これはまずい、もしベビーに見られようものなら、ママとしての沽券こけんに関わるぞ!?

 それに、ママがしっかりしないとベビーがふしだらな子になってしまうかも知れない。子どもは親の背を見て育つなんて言うからな……次からは寝落ちする前に身だしなみを整えられる大人にならなくっちゃあ駄目だ。


 冷えたのか尿意を催したのでスマホを片手にトイレへ向かう。さすがにそんな気分にはならないが、気が向いたらもう一回あの動画を観られるように…………あ。

「…………」

「──おはよう、今日もいい朝だね!」

 いい1日はいい挨拶から! 何やら物凄い目つきで見られているような気がするが、まずはちゃんと挨拶しないとね。ベビーの顔つきはまだ晴れない、というかどんどん険しさを増している。もしかしたら私の寝ている姿を見ていたのかも知れない……心配かけてしまったのだろうか?


「大丈夫だよ、ママは元気だから。風邪なんてひいてないし身体もあったかいからね! それじゃあ朝のギュー、」

「きもちわるい」

 真顔で言われてしまったよ。


 ズボンを穿いた私の足下を一瞥いちべつして、さっさと通りすぎていくベビー。どうやら今日は、彼女の機嫌をとってママとしての信頼を取り戻すのが最大のミッションみたいだ。……どうしたものかな。


   * * * * * * *


 いつも昼寝をしている時間、もちろん今日もベビーはすやすやと健やかな寝息を立てながら眠っている。この趣深い姿を表現する手段はないものか──相変わらずの思案に明確な答えは出ない。ひょっとしたらこのベビーの愛らしさ、そしてそれを眺める時間の至福具合を形容する言葉なんてないのかも知れないが、それはそれでなんとなく寂しいものがあった。

 せめてこの可愛さを絵にできたらよかったが、私の絵心ではモン・サン=ミシェルが板こんにゃくとミルフィーユのハーフみたいな出来映えになってしまう。曲にすることならできるかも知れないが、この気持ちをどうジャンル付けすればいいものか。


 ん、曲……?

 何かを思い付きそうになったが、深く考えようとしたタイミングでベビーが身じろぎした。思わず撮影しているビデオに私の「わァ……ァ……」という嘆息が入りそうになるが、どうにか堪える。やっぱりベビーの映る動画には他のものなど必要ない、親バカと言われたとしてもその辺りは譲る気などなかった。

 こうしてベビーの動画を撮る習慣がついて、もうしばらく経つ。前は小中生配信者の動画をダウンロードしたものばかりだったパソコン内のフォルダも、わずか数ヵ月でベビーの動画が大半を占めるようになっていた。たまに見返すと、何だかんだ言いながらも少しずつ私に心を開いてくれているかのような錯覚を味わえるからたまらないんだ。


「すー、すぅー……」

 健やかな寝息を立てながら、真っ青で無防備な寝顔を私に見せてくれているベビー。彼女の名前は未だに教えてもらえないままだが、考えてみれば私が名付けてもいいのではないだろうか? だってママになったわけなのだから。


「何で今まで気付かなかったんだろうな」

 そうと決まれば善は急げ、この子の名前を決めよう! 寝顔の撮影は続けながら、こんなに頭を使ったのはいつぶりかと問いたくなる勢いで、ベビーの名前について思案することになった。


 麗愛れいあというのはどうだろう? まさにこの子を表したような名前にも思える。子どもの頃に見た映画のヒロインからとったのだが、そっちよりもむしろこの子の為の名前かも知れない、大人しく譲ってほしいものだ。

 それか……凛李華りりかというのは? いや、名付けてみたら中学時代の同級生を思い出した。人が書いたラブレターを学年中で回し読みするような子になられては困る……却下だ、却下!

 それからも奈津葉なつはであったり美里娃みりあであったりいろいろ考えてみたはいいとのの、どの名前も何かしらのトラウマを想起させるものばかりだった。視線が気持ち悪いと彼氏と組んでいちゃもんをつけたり、弁当を地面に落として食べさせるような子にもなってほしくはない。


「どんな名前が似合うかな……」

 ネットの知恵を借りようとあれこれ検索しているとき、ふと思い付いたのだ。


 何がきっかけだったのか。

 一瞬だけ広告で流れてきた動画アプリか、閲覧した姓名ランキングのトップに貼られていた少女の写真か、はたまた昨日見た配信動画だったか──ひょっとしたらテレビから流れてくるジュニアアイドルのイメージビデオだったかも知れない。

 ただ、唐突に思い付いたのだ。


「そうだ、配信しよう」

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