第6話 懐冷やし、太腿癒し
まだまだあると思っていた蓄えがもういくらもないことに気付いたのは、転活のての字すら私の生活から消えてしまった後のことだった。
この頃には休職扱いということで籍だけ置いていた会社も辞めさせられ、勤めていた期間にしては少なくないかと二度見してしまうような退職金だけを抱えてベビーとの暮らしを謳歌しており、収入はといえばもう少しで給付期間の終わる失業保険くらい。
ところが私と来たら、それでもまだ楽観していた。二人暮らしだから贅沢しなければいけるだろう、と。そして気付いてしまったんだ……もしかして私、今月の家賃払ったら文無しになっちゃう?
「………………」
おっ、今日のベビーは柔らかほっぺでお昼寝タイムだ。どれどれ味見しておこうかな、あむあむ……ひんやりしてちょっと固めな感触が何とも言えないなぁ!
そのままベビーの隣で昼寝して数時間後、私を起こしてくれたのはお菓子を買いに行きたいというベビーだった。
寝起きに同時に襲いかかってくる、天上の安らぎとハードな現実!! ベビーはというと、ずっと私の胸元に収まって眠っていたからだろう、ちょっとだけご機嫌斜めな様子で私を見下ろしている。そのまま踏みつけてくれたら完璧だったが、こんな小さな子に変な性癖を押し付けるのはママとしてあるまじき行為だ。
性癖を押し付けるなら余所の子。
これ、ママのマナー。
「おかし、たべる!」
「……いっぱい買ってあるから、好きなの食べていいよ。袋開かなかったらママが開けるから言ってごらん」
「ちがうやつ」
「違うやつ」
「ちがうおかし、たべるの」
「すぅ、」
贅沢──とは言わない。
幼い子どもの求めるお菓子をその都度買うことを贅沢とは言いたくない、だが。
だが、決して慎ましく暮らしていたわけではないことに気付かされてしまった。何なら出費そのものは交通費以外何も減っていない──お菓子を買ったりカラオケに行ったり、そういった諸々のことを考えるとむしろ増えていたようだった。
……あれ、ピンチだぞ、これ。
ベビーはじっと私を見上げている。そのまま睨み付けてれたら言うことないのだが、それを幼い子に求めるのも酷というものだろう。ニッコリと微笑み返したら目を逸らされてしまった。照れ屋さんで可愛いね。
「お菓子かぁ……今日ママ選んでいい?」
「いっしょ、いく! おかし見る!」
ですよねぇぇ……知ってた!
もちろんすぐにどうなるというものではないが、このままでは恐らく来月を越すことはできない。とはいえ転活(いや、もう就活か)を再開するような心の強さは私にはない、あのお祈り地獄にまた堕ちたいとはどうしても思えない。
悩んでいる間にもベビーの忍耐は切れてしまったようだ、地団駄踏みながら私に何度も頭突きしてくる。あ、痛っ、地味に痛っ。気持ちいい、もっとちょうだいそういうの。
「いく、いく! もういくっ、いくいく、いくのぉ!」
「もうちょっと苦しそうな感じで言ってくれる?」
「ゆってくれない!」
嫌かぁ、残念。
肩を落としながらやって来たスーパー。ベビーが商品を選んでいる間にスマホで日雇いの仕事とかも探してみたがどこも遠そうだし、近いところでも肉体労働系ばかりじゃないか……こういうところって肉体的にももちろん、上下関係とか厳しそうなのがなぁ。
前にSNSで知り合った倉庫勤めの青年は『そこまで大変でもないですよ』なんて言っていたが、だいぶ前にポルノ所持を咎められたうえ抵抗したとかで捕まっているので、今は訊くに訊けない。自分の誇りを貫き通したとも言えなくもないが、やっぱり無茶はいけないんだなとも思った事件だった。出てきたら一杯奢ってやろう……いやその金がないんだ、私!
「うーん…………」
派遣もなぁ……などと考えているのにも疲れてしまい、現実逃避と英気充填の為に数日前出回った動画をこっそり再生する。あっ、私のはポルノではない、普通に小学校のマラソン大会で走っている子たちを近所の大学生が撮影したという微笑ましい映像だから……やっぱり余裕のない顔をしている子たちっていいなぁ。
ん、コメントに気になるものがあるな。
> この3年生の名札つけてる子、Hornpubで0721配信してた子じゃね?
> マ?
> 信じるなよ、そいつの言葉を!
> 人違いだろ
> リンク貼れよ
リンク貼れよ!
そう思いながらコメントへのレス欄を漁っていると、ようやくコメント主本人がリンクを貼っていた。さすがに外では再生できないので更にコメントを見ていくと……。
> やば
> 通報
> ちょうだいちょうだい
> 通報しました
> デジタルタトゥーじゃん
> こういうのもっとちょうだい!
> くそっ…じれってーな!
> もうやらしい雰囲気だろ!
> BANさせんなよ
> 事案や
> 守れ守れこの動画守れ
明らかにコメントの雰囲気が変わっている。
まさか、本当に……? 楽しげにお菓子を選ぶベビーの傍に行くためにスマホをしまった私の胸には、淡い期待のようなものが込み上げていた。ベビーが寝たら、夜見てみることにしよう。
「おかし、あった!」
「どれどれ?」
「1こ、2こ、3こ……3こ、かう!」
「……1個にしない?」
「いや! 3こ!」
「3個かぁ……」
こうなると
「あらあらお菓子がいっぱい。これ、全部お嬢さんに?」
レジで並んでいる最中、毎日見かける老婆に声をかけられた。年齢が2桁の人間と話すのなんてなかなか久しぶりだったので挙動不審になりながらも「えぇ、まぁ」と答えると、老婆がベビーを見下ろして言った。
「優しいパパだからって、あんまり困らせちゃ可哀想よ? ちょっと我慢もしなきゃねぇ、男親はすぐに何でも買っちゃうから……」
……ベビーはよくわからなさそうな顔で老婆を見上げているが、老婆の狙いはどうやら私だったらしい。現に「男親は……」からはなんだか私に視線が向けられている。曰く、我慢できない子になるだの栄養バランスが偏るだの、自分の頃は家計のために家で作っていただの、もはやベビーのことなど眼中になさそうな気配になってきた。遠巻きにこちらを──というより老婆を見てくる視線からして、近所でも有名な人なのだろうか?
話題の切れ目を見出だせずに視線を泳がせたとき、つまらなさそうに視線を下げるベビーの姿が目に入る。そうだ、何をしているんだ。怯んでいる場合じゃない、この老婆の育児がどうであれ、この子のママは私なのだから。
「あの、だ、だ、大丈夫ですから」
「であるからして、ロマノフ王朝末期に怪僧……え?」
「そういうの、いらないんで。私たちのことは、私たちのことなので。あ、あと、私はパパじゃなくてママですから。それじゃ」
ベビーを抱えて、その場を後にする。
せめてこの子の前では胸を張ろう、ママとして、この子に見せたい姿がないわけでないのだから──そして、今日は早く帰って寝かせたいし。
「あ、あの!」
自転車に乗ろうとしたとき、後ろから声をかけられる。振り返ると、高校生らしき店員が息を切らしながらこちらを見ていた。あともう10歳くらい若ければもっと可愛かったのだろうが、まぁ、それは関係ない。
……もしかしたら、ビシッとキメ過ぎたかも知れないな。人生で初めてレベルで振り絞った勇気の対価を予感しながら、昔こういうときに備えて用意した台詞を口から吐き出そうと深呼吸を挟む。
そして。
「名乗るほどのことは、」
「お金払ってないですよね?」
「…………」
もう一度並び直した列は、先程よりも長く感じた。
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