第2話 願いは焦燥、出会いは尚早

 ……小さい。


 見かけたとき、まずその少女がとても小さいことに気がついた。着ているのは少し離れたところにある幼稚園の制服だったから、もうそこに通うような年齢らしいのだが、それにしては背丈が低いし、見たところ体重もかなり軽そうだった。

 深夜にひとりで泣いている、発育状況の芳しくない子ども……もちろん世の中にはいろいろな体質があり、病気なども含めて様々な事情があるから一概には言えないのはわかっているつもりだが、どうしてもネグレクトを疑わずにはいられなかった。それによく見てみたら、この子の履いている靴は着ている服とは違う、県外の幼稚園指定の靴じゃないか?


 このチグハグさは、何かある。

 そう思い、恐る恐る近寄る。


 聞くものの同情を誘うように、香りで虫を誘い込む食虫植物のように、泣き声は悲痛さを増す。当然だが虫のように矮小な私ではその声に逆らえるわけもなく、いとも容易く惹き寄せられてしまう。これが特定の層をターゲットにした美人局だったら、私ほどチョロい獲物もそうはいるまい──どこか開き直ったような気持ちで、コインロッカーという場所に少し怯えながらも声をかけていた。


「ねぇ、こんなところでどうしたの?」

「……うぇ、えぅっ、……っく、」

「大丈夫だよ、ゆっくりでいいから話して?」

「ママがね、ママがいないの」


 ────なんてことだ、さっき思い出した都市伝説とリンクしてしまうじゃないか。少し身震いしたが、さすがに現実的ではない。大方母親がこの近くの飲み屋に入り浸っているのだ……そう思おう。

「お母さんと迷子になっちゃったんだ……。どこまで一緒だったか覚えてる? よければ一緒に捜すよ」

「ママはね……ここにあたしを、おいてったの」

「────、」

「ママはね……ママ……ママは……」


 一拍の間、俯いていた少女は突然顔を上げた!

「お前だァァァッ!!!!!」


 その形相を見れば、目の前の少女がこの世のものではないことは明らかだった。半ば腐乱した顔面に、ギリギリのところで眼窩に収まっているだけの両目は白目と呼べるところのないほど血走っている。中で虫でも這いずっているのか、そのふにふにと柔らかそうな質感の頬は自身の叫びとは関係なく常に蠢いていた。

 声はというと、先程までの少し舌足らずであどけない、思わず頬を弛めてしまうような可憐さはどこへやら、さながらメタルバンドのスクリームのような発声である。この年頃でこの発声……本気になって突き詰めればとんでもない逸材になるのではないかと唾を飲んだが、きっと彼女自身はそれを母親にしか聞かせるつもりはないのだろう。少しだけ惜しいような気がした。

 怨みに満ちた眼差し、ガタガタになりながらも剥き出された歯、元はツヤツヤぷるぷるだったろうにすっかりひび割れてしまっている唇、そしてこの手の怪異には付き物ともいえる、栄養の行き届いていない青白く痩せ細った身体──そのどれもが、ある種フォトジェニックと言える代物だった。

 ところが、異変はすぐに起きた。

 まず、少女の表情から怨みの気配が消えた。そして戸惑いの表情に変わり、彼女の感情の変化に呼応したように眼球はすっぽりと眼窩に戻っていく──なので今の彼女はただ顔色がとても悪くて半分くらい腐っているだけで、あとは普通に可愛らしい幼い少女になってしまった。いったいどうしたのだろう?


「……あれ、え、……え?」

 怨嗟に満ちた顔をしていたはずなのに、突然戸惑ったような声を出し始める。地声はやはり可愛いんだなと笑っていると、女の子は私を見つめながら言ったのだ。


「おじさん、だれ?」

「君のママだよ」

「ちがうっ、ママちがうっ!」


 頭を殴られたような衝撃だった。

 面と向かって自分の言葉を否定されるのなんて、どれくらいぶりだろう。悲しめばいいのか、気持ちいいと思えばいいのかはわからない。ただ、『ママちがう』というその言葉には、やはり少し悲しみが芽生えてしまった。

 確かに、私とこの少女の間に血の繋がりはない。それどころか今が初対面だ。加えて私は年齢イコール彼女いない歴、そして誰とも肌を重ねたことがないまったくの未経験者──ママどころかパパになる可能性も現状なく、そのまま三十路に差し掛かろうかというただの一般人だ。

 しかし、この少女はさっき確かに、私に『ママはお前だァァァッ!!』と叫んだのだ。コインロッカーに捨て去られた赤子が、私に向かってママだと言ったのだ。

 コインロッカー・ベビーは、自分の母親の前に現れて『お前だ』と言うものである──つまり、コインロッカー・ベビーが『お前だ』と告げた相手は。


 即ち、私はこのベビーのママなのである。


「こんなのママじゃない、やだやだっ! ママがいいっ、ママじゃないのいらない、ママかくさないで、ママ、ママぁ!」

「────、」


 バシィィーーー!

 音は存外高く響いた。腐ってはいてもまだハリの残る頬を叩いたからかも知れない。誰かの頬を張るなんて、初めてのことだった。学生の頃はよく殴られたり蹴られたりしたものだったが、いざ自分でやってもまったく楽しいものではない。むしろ、とても胸が痛かった。

 だが、それでも間違いは間違いだと教えなければならない、正さねばならない。何故なら私はもう、この子のママなのだから。

「え、な、なんで……」

 なんではこちらの台詞だ、そう言いかけた口をつぐむ。この子のことはまだわからない。この子だって、私のことなんてまだわかりようもないのだから。

「さぁ、帰ろう。夜遅いしお腹空いてるでしょ?」

 だから、まずは。

 家に帰って、それからお互い分かりあっていこう。そうすればきっとママになれる──元々じゃない、後から家族になる間柄だからこそ分かり合えることだって、きっと……。


「やだやだっ! ママまつ! まってるっ! たすけてっ、ママたすけてぇ!!」

「私がママになるんだよ!!」

「やぁぁっ!!」


 深夜の道に、幼い悲鳴がこだまする。

 困ったな、これだと私が犯罪者みたいじゃないか。

「ママはここにいるでしょ。さぁ、帰ろう」


 新しい毎日の始まりが、こんなにも唐突だなんて。どこか胸の踊るような、急にどこかに投げ出された心細さのような、様々な気持ちと共に、私はコインロッカー・ベビーのママになった。

「うるさいうるさいうるさーい! はなしてよ、このロリコン! ロリコンマザーファ●カー! はなせ、はなせぇぇっ!!」


 ……うーん、ずっと幼いままここにいるのだろうに、どこでこういう言葉を覚えるのか。待ち受ける前途に少しだけ不安が芽生えたのは、ここだけの話だ。

 あとロリコンマザーファ●カーって、矛盾はないのにすごく違和感のある語感だ。だが……、とても気持ちよかった。

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