4章 確かな旅路

N15D1 試験へ+死線へ

 十一月十三日、土曜日、午前五時三十八分。曇りだが昼以降と明日は晴れる予報だ。


 リナが高認試験に行く。食事、着替え、忘れ物の確認。水とオヤツは多めに持つ。試験中にブドウ糖が不足したら話にならない。静かに長く動くので脂質がいい。スニッカーズを中心にトレイルバターも持たせた。


 手足が冷えると尿意になる。手足は血管が透けて見えるほど表面の近くを通る。夏は体温を下げる役に立ち、逆に冬は血管を縮めて体温を守る。余った血液が体の奥で巡り、届けていた水分が余るので膀胱へ捨てる。乾燥などお構いなしだ。冬は尿意と、暖房で温まり脱水症状が交互に起こる。どちらも試験中には決して悩みたくない。


 飲み物は水とポカリスエットを持つ。一時間あたりの目安を二〇〇ミリリットル程度にして少しずつ飲む。胃が空っぽに近い状態を維持して効率を高める。小腸で糖を使って吸収する。


 実力を出し切るか、台無しにするか。筆記試験においても肉体は重要で、肉体の手入れには技術を使う。セコンドに蓮堂がいる。お菓子の味や食べ方も、水を飲む間隔も、事前に何度も練習した。これまで探偵として活動した全てが今この瞬間に繋がる。負ける気はしない。


「じゃあ蓮堂、行ってくるね」

「おう。その前にひとつ、餞別だ」


 蓮堂は机から出した封筒を渡した。


「百万だ。そのまま使える」


 リナは指を震わせた。急に大金を渡され、目線は札束と蓮堂の顔を往復する。


「なんで?」


 ようやく絞り出した声は震えているしごく短い。


「これまでお前にあげた服やゲームやお小遣いは合計で八万円程度だ」

「覚えてる」

「意味がわかるな」


 リナは首を捻る。答えがなかなか出ない。


「おいおい、本気で分からないか。弁護士志望だろうに」

「まだ弁護士でも資格試験でもないし」

「実力にお墨付きを出すのが資格試験だぞ。いつでも予習しておけよ」

「いや、待って。金額が意味を持つんだよね」


 手がかりから事情を探す。金額が関係あるもの。金に換算して考えるもの。弁護士の範疇にあるもの。法律関係。経費。税金。節税。税金なら閾値をぎりぎり下回らせる。一〇八万円。


「贈与税」

「ビンゴ。今年はもうないと思え」

「これは税理士の範疇じゃない?」

「弁護士は税理士の範疇も扱う」

「へー、そうなんだ」


 リナは頷くが、その表情は蓮堂には勘違いしていそうに見えた。


「雇うなら任せてもいいがな」

「ああ、そっちで」

「合格しろよ」


 親指を立てて見送る。リナも同じく、親指を立てて突き合わせる。


「まだ高認なのに、気が早いって」


 封筒は鞄の奥に厳重に入れた。扉を開けて、踏み出す。動きは普段と同じなのに、朝ゆえか荷物の重みか心境かで、昨日までとは別の世界へ踏み出すように感じる。


 リナは決して振り返らずに進んだ。


 普段と同じように動くといい。動き慣れた動きを続けろ。当たり前の範囲を拡張しろ。


 蓮堂から教わった言葉を反芻する。付き合いは半年に満たなくとも信用は誰より厚い。駅に着いたらpasmoを鳴らす。電車に乗ったら次の駅を確認できる位置に座る。座ったら腕時計の確認と周囲の確認を繰り返す。


 大丈夫、いつもと同じ。リナは自由に動ける。どこへ行っても構わない中から選ぶひとつは決まっている。試験の会場への乗換え駅と道順を指差し確認する。


 同時刻、リナを見送った後では蓮堂も荷物を用意する。電話が鳴る。


「すぐに出る。大丈夫、生きて帰るさ。万が一のときはリナを頼む。夕方ごろだ」





4章 確かな旅路

N15D1 試験へ+死線へ





 事務所の下からクラクションがひとつ。


 蓮堂は階段を駆け下りて助手席に乗った。オオヤが用意した車はプリウス、どこを走っても自然な傑作機だ。神奈川方面へアクセルを踏み込む。オオヤの趣味のパディントンが揺れる。


「先に浜くんの所に寄った。後ろにある」

「助かる。なら直接で行けるな」


 蓮堂は席を倒して隙間を作り、紙の細長い包みをまるごとトートバッグに入れた。


「中身はなんだい? まさかフランスパンじゃあなさそうだけど」

「秘密だ。誰にもな」


 形が見えない程度に余裕ある包みだ。蓮堂が思惑を隠すあたり危険物とオオヤにはわかる。


「恐ろしいね。恐ろしついでに、計画を教えてくれないか」

「打ち合わせで全部だぞ。お前は降ろして、私は呼んで、お前は拾う。踏み込むな」

「そうか、そうか。ところで今日は『鳥がよく飛ぶ』」


 蓮堂は舌打ちをひとつ。無視してオオヤは言葉を続ける。


「僕はお淑やかな音楽鑑賞をしたいが、大地震と台風が同時に来る予報だ」

「よくわかった。まずクラウチングスタートの姿勢で聴くといい」


 今度はため息を。次いで蓮堂から事情を話す。


「こっちは遥々メキシコ、福岡、静岡あたりのお淑やかな奴らだ。そっちの相手は?」

「蓮堂くんも大変そうだな。大阪とイタリアから来てる」

「『焼き芋の大食い』はそっちだけだ」

「だろうね。お偉方がとあるイタリア人を嫌ってるしい。確実に屁をこく」


 仕事へ向かう車内は軽口で賑わう。余計な緊張をほぐして普段通りに動けるように。


 蓮堂はこれから、海辺の倉庫に入る連中の服装を確認する。個人はいらない。何かの取引をするらしき情報を掴んだが、真偽が不確実で、正確な参加者がまだ見えない。


 必要なのは誰が来なかったかだ。麻薬カルテルとの接点の調査を進めて、三者のうち一つに絞り込んだ。今日どこかで取引があるなら、視界に現れなかった組織が有力候補となる。


 その同時刻に、どこぞの殺し屋が近くの連中の首を狙う。堅気を巻き込みはしないだろうが流れ弾や誤認による巻き添えは大いにある。半端な動きをすれば追手は蓮堂を狙う。


 蓮堂が深淵を覗くとき、深淵も蓮堂を覗く。蓮堂も狙撃手も共通で、屋上から遠くを見つつレンズの反射を抑えている。見つかれば蓮堂が狙撃手扱いだ。本物の狙撃手は蓮堂を囮にして逃げるのが上策だ。


 厄介だが、別の日にしては仕事が進まない。やるしかない。

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