3章 現実の経験

N11C1 痴漢の捜査

 八月二十五日。雲は厚いが気温は三〇度を超える。不快指数はここ数日の最高を塗り替えた。


 依頼人の背中を見送り、直後に蓮堂はソファに倒れ込んだ。


「だりーーー」


 普段なら決して見せないような情けない声だ。二人分の湯呑みをリナが片付けて、向かいに座っても変わらずソファに身を預けて天井の模様を数えていた。


「どうしたの蓮堂、今度の依頼ってそんなに難しい?」

「内容なんかどうでもいいんだよ。あの依頼人の喋りがだるすぎた。見ろ、九〇分だぞ」


 普段なら話をつけるまで三〇分もせずに終えていたが、今回は三倍以上だ。理由のすべては依頼人にある。話のそれぞれに副詞での誇張がつき、本筋から外れて前提のふりで自己顕示が絡み、いくらか話すたびに蓮堂が短くまとめて確認を繰り返した。


 たまに少し違うと言われたが、訂正の内容を聞いても同じになった。自分の言葉さえ自分でわかっていない。世界が五分前に始まったと考える宗派の源を実感した。五分より前の話題を覚えられない。


 その長々とした内容でも、聞き終えるまでは必要か不要かを判断できない。大量の修飾語を重ねて最後で目的語を明かす。


 情報には非対称性がある。言う側は思い浮かべた内容を順に言葉にしていく一方で聞く側は言葉から内容を思い浮かべる。一文が長くなるほど負担が大きくなる。


「痴漢の捜査なんか場所と時刻と人の情報があればいいんだよ。電車に乗った理由とか普段と違う理由とか、全部どうだっていいっての」

「まあ長かったよね。はい、ブラックサンダー」

「助かる」


 横になったままでチョコを齧る。その間にリナが立ち、蓮堂の水を用意した。食べて飲んでようやく体を起こして、スマホを取り出す。


「それで? どう捜査するの」

「助っ人を呼ぶ」


 メールにただ三文字、「仕事だ」と書いて送る。返事はすぐに来た。「六時ごろ行きます」の八文字を見て、蓮堂は満足げに立つ。


「六時ごろまで遊ぶぞ。昨日のマジック:ザ・ギャザリングでもやるか」

「やたっ。この前みた動画では、一番かわいいのがサリアか灰の盲信者かって喧嘩してたけど蓮堂はどう?」

「気前のいい野良猫だが、そういうことじゃないなら虚空魔道士の沈黙者だ」


 奥の部屋から巨大な箱を出した。靴の箱ほどの大きさを三つ、蓮堂が集めたカードすべてが詰まっている。ひとつから二人分のデッキを出し、片方をリナに渡す。


「余り物だが遊べる程度には仕上げた」

「もらっていいの?」

「構わん。が、虹色の眺望ってカードだけは貸すだけだ。あれはちょっと高い」


 微妙にケチな言い草を聞きながらカードを見ていく。ニコニコ動画で見ていた絵が目の前に広がる。リナは目を輝かせる。その様子が蓮堂には昔の自分を見ているようで眩しかった。


 並び順が無作為になるまでシャッフルして、次に何が起こるか誰にもわからなくする。


「手品師みたい。慣れてる人はみんなそうなの?」

「まあな」


 強い組み合わせで見えるかもしれないし、弱い順番になるかもしれない。同じカードだらけかもしれないし、満遍なく出るかもしれない。


 何が出ても使う順番だけは自分の技術で選ぶ。いつまで温存するか、いつ使うか。ゲームの本質はこれだ。


「包囲サイだ。見たことあるよ」

「そりゃよかった。私はまず『沸騰する小湖』を『アンダーグラウンドシー』に交換、代償でライフを減らすぞ。最後に『秘密を掘り下げるもの』を出す」

「動画て見たカードばっかりだ! 本当に強いんだね」


 アナログゲームは人と繋がるきっかけなので、知っておくといい。インターネットミームも人と繋がる道具なので、知っておくといい。その結果でファン作品の動画を見たら、遊ぶのは初めてなのに知っているカードが出る。ただ見ただけでも楽しめるようになる。


「予習熱心だな。ターンおわりだ」

「よおし、まず引いて、と」


 リナは手札との睨めっこを始めた。自分だけが見ていい中から、ルールに基づいて今すぐに使っていいカードを選ぶ。


 小手調べのようなカードで始まり、ゲームが進むほど強いカードが持つ条件が整う。大技は難しいから大技なのだ。


「『沼』。と、この『コジレックの審問』使えるよね」

「いいぞ。私の手札をよく見るがいい。『稲妻』『狼狽の嵐』『目くらまし』『クローシスの魔除け』『山』どれでも選び放題だ」


 リナは最も使われたくないカードを探し、決める。経験がないので直感で。


「じゃあ『稲妻』を捨ててもらう」

「まじか。予習だけでそれか。わかったよ」

「つよい?」

「強い。さっきまで何にでも対応できる手札だったのが、今は都合のいい引きを願ってる」


 賑やかに時が流れる。初めてのカードゲームは花を持たせて、勝つまでの流れを見せた。


 二度目は辛勝を演出して、三度目から普段通りの本気で進める。リナは勝ったり負けたりを楽しめる子だ。『虹色の眺望』が高い理由もじきにわかる。


 六時に近づくころ、インターホンが鳴った。





3章 現実の経験

N11C1 痴漢の捜査





 ノック三回で彼が入った。ゲームを中断して立ち上がる。リナもついていく。


「ども、ご無沙汰です」


 長身にチェックシャツの、集団に入れば爽やか側になる男だ。リュックが重そうに膨らむ。


「蓮堂さん、そちらは?」


 リナは固い顔で、目だけを蓮堂に向けた。


「助手のリナだ。手を出すなよ」

「勿論です。俺は蓮堂さんに従います」


 本名で紹介した。敵ではないと知り安心して頭を下げた。次はリナに彼を紹介する。


「こいつは尻沢良平しりさわ・りょうへい、現役の痴漢だ」

「は?」

「気質と有能さを見込んで協力させてる。弱みを握ってるから私が一方的に有利だ」

「は?」

「向こうのネットワークに飛び込んで情報を拾う。早速こいつを見てくれ」


 蓮堂はメモを渡した。依頼人の情報をまとめて、その日その時その車両の武勇伝を語る者を探させる。この仕事はもう完了も同然だ。尻沢は目を通して蓋つきポケットに押し込んだ。


 痴漢にもコミュニティがある。記録が残らない方法でアクセスして、間抜けなカモの情報を共有したり、成果を誇示したりする。


 ガードが固い者の情報も人気が高い。カモは一人でいい。自分の被害を防ぐために避雷針の近くを陣取る。無能を探す点では目的が一致している。


 それらに飛び込むには実績ある痴漢仲間がいい。蓮堂では信用が足りずに追い出されるのがオチだ。だから尻沢に調べさせるが彼も察している。この場に蓮堂以外がいるなら、その前に悶着がある。


「待って蓮堂、その人も痴漢した人なの?」

「そうだ」

「そんなのと協力を? 馬鹿げてる! 女の敵!」

「まあそう言うな。総合的に減るほうがいいだろ」


 リナは露骨に嫌悪の目を向ける。尻沢はただ縮こまって受け入れる。


「実際、そう考えて然るべきと俺も思います。だけど欲求は抑えるには苦しすぎる」

「協力するから許せって?」

「許さなくていいです。俺は社会的に問題な性質たちで生まれた人間で、せめて使い物になるよう蓮堂さんに計らってもらっています」


 リナの主張に対し、尻沢は全面的に受け入れる。同じ意見では戦いが始まらない。


「そのへんにしとけ。尻沢と私の間には契約がある。痴漢コミュニティの情報を流して、私は尻沢を見逃したり庇い続ける。期限はこいつが下手こいて捕まるまでだ」


 蓮堂は割り込むときに背中を尻沢に向ける。どちらの味方につくか背中で表す。不利な側をさらに追い込んではいけない。人は悪を罰したい感情で誤りを犯す。


「なんで蓮堂は、そいつを選んだの」

「逆だ。こいつが私との契約を選んだ。私は痴漢を捕まえるたびに、有能そうなら同じ契約を持ちかけた。現にこいつの活躍であっさり解決した話も多いぞ。誰も気付かなくてもな」

「ご褒美として、そいつにはやらせてるの」

「ダメージコントロールと言うほうが近い。一人を犠牲にして五人を助ける、私はどいつとも部外者だから数だけで選べる」


 蓮堂は話し中に、体を捻り右手を振った。小さな音で尻沢の手首を叩く。


「七勝一敗だ。雑だったな。もっと上手くやれ」

「逸れてると思ったんですがね」

「話し中は上策だが、今回の私は動き放題だ」

「敵いませんね、蓮堂さんには」


 蓮堂は笑いかける。尻沢も満足げに応える。


 その様子はアナログゲームを楽しむ顔に似ていた。現にリナもつい数分前までは、負けても相手の技術を讃える顔を見ていたし見せていた。


 戦友のようなやり取り。中心にある蓮堂の尻は、お硬いパンツスーツの直線を柔らかな曲線に作り替えている。


 人は比率で物事を見る。同じ百円引きでも、元値が二百円か千円かで感じ方が変わる。


 人体には比率がある。一部分の大きさから他の部分の大きさがわかる。


 人はとある比率に心地よさを見る。有名どころには黄金比の対数螺旋がある。


 人体のうち尻の曲線に魅力を感じる。


 尻がそんなに『良い』のか。あるいは感触かその他か。この状況は蓮堂が用意した。あとは乗せるのみ。


 リナも蓮堂の尻に手を伸ばしてみた。四本指を曲げて、遠くから。


「ア!」


 蓮堂が初めての声をあげた。驚き顔で固まった。尻沢も、蓮堂も、リナ自身も。


「くそ、油断した。リナには〇勝一敗だ」

「本当にそういうゲームなんだ」

「損失がないからな。もし手じゃなく刃なら一敗の時点で死んでる。次は潰す」

「え、怖」

「自分で言った話だぞ。それとも衝動を理解したか?」


 リナは一時の言葉の流れを悔いた顔をしている。


 人を行動へ誘う衝動はこうして生まれ、こうして動く。身をもって味わったら数分前ほどの強い言い方ができなくなった。魔が刺す感覚だ。もしこの衝動が、さらに強くさらに耐え難くさらに見境なくなったら。


 賛同ができなくても、理解までならできる。次は、どう向き合うか。


「蓮堂、どうしたらいいの」

「何がだ」

「衝動は分かったけど、受ける側は黙って我慢するしかない? そんなのってないよ」


 リナは見るからに揺らいでいる。足場が急に揺れ始めたように、これまで当然だったものが実はすぐにでも崩れるような薄氷の上にある。


「本気で他の向き合い方が思い浮かばないなら、諦めて我慢するのも手だ」

「蓮堂はどうしてるの」


 話がうまくなった。答えを求めても返ってこないが、経験を求めれば返ってくる。


「自分の身は自分で守れ。平和を望むなら戦え。戦えない弱さは悪人の助けになる」


 今日の蓮堂はやけに冷たい気がした。そう思わせた。あるいは、子宮が作る周期か。


「こんな支配者の言葉がある。『罪なき者は罪ある者の犯罪の報いを受けるのか? もちろんその通り。それこそが弱者の運命と言うものだ』」


 納得してもしなくいても、蓮堂からは言い終えた。あとは待つのみ。リナは同意ができるし異論を出してもいい。考えを放棄して喧嘩を始められるし、知見を広げる旅を始められる。


「間違ってるよ、それは」

「ほう?」

「まだうまく言えないけど、そんなのってない。弱くても生きられるべきだよ。ちょうど私が助けてもらえたように」


 蓮堂はにんまりと笑みを浮かべた。リナの答えは期待以上だ。


「言えるようになったな。私の考えを離れて、自分の信念を掲げる。期待してるぞ」

「煙に巻かれた?」

「誤魔化すな。まだ朧げなその信念を形にして見せろ」


 尻沢も黙って感心している。人が新たな一歩を踏み出す瞬間に立ち会えた。ただの痴漢では決して出会えない瞬間だ。


「話はこんなもんだろ。着手金の一万だ。頼むぞ尻沢」

「お任せください。明日の昼ごろに電話します」

「助かる」


 探偵の仕事は人と人を繋ぐ部分にある。依頼人が指定した相手と繋がりを作るには、相手と繋がりを持つ人間を辿るのが早い。毒を以て毒を制す、だ。


 外注できる範囲を任せて、蓮堂とリナはゲームの卓へ戻った。

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