N10B5 恋慕の模造品
八月十八日。
臨時休業は終わりだ。生活リズムを戻し、朝から普段通りの服で仕事をする。
大仕事があっても他の仕事を減らしてはいけない。必ず普段と同じに動く。動向を変えれば後からでも見つけらる。調べられる側に回るのは御免だ。
ツイッターの更新もコネの手入れも普段通りに進めた。明日は依頼人が来る。
「蓮堂、ちょっといいかな」
と話しかけるリナは普段とは違う様子だ。弱気か、不明瞭な話か、とにかく重要らしい。
「飲み物を出してソファで待て。その間にトイレを済ませる」
トイレとは余計な一切を排した空間だ。排泄と後始末を除いて何も刺激がない。浴室と並ぶ静謐な場所は俗世から一時だけ離れて考えをまとめられる。
続く話を想像した。小難しい内容をリナが言うなら候補は何か。
これまで伏せていた話に勘づいたか、新しい悩み事か。
悩みなら関係する先が内側か外側か。外側なら候補に最悪が思い浮かぶ。ここ数日の調査で歩く先はまだ低リスクな立地だが、それでも勘のいい奴が警告してくる可能性を捨てきるには早い。手を打つとしたらここだ。
最悪への心構えはできた。膀胱もすっきりした。雫を紙に吸わせて流し、手をよく洗う。
リナが待つソファへ向かう。コップの中身はどちらも水、真面目な話題だ。
「待たせた。なんでも言いな」
リナの顔に躊躇いが見える。もし恐怖心ならよほどの失敗だろうが、対処は早いほどいい。
「あのさ、蓮堂」
歯切れの悪い言い方だ。さては失敗じゃないな。この仕草なら蓮堂も覚えがある。
「実は私、恋をした、かも」
「そうか。いいことだ」
「で、相手がね」
この流れはよくない。
「蓮堂、かも」
大人として、リナを導く責任がある。物事には順番がある。
「そうか」
コップに手を伸ばす。こんなときに選ぶ言葉はどれか、蓮堂にはすでに答えがある。リナが来るより前から、必要になればすぐ出せるように。
「蓮堂の顔を見ると、安心するし、匂いもいいし」
「そこまでにしろ。話は三つの段階に分かれる。最後まで聞けよ」
蓮堂は一方的な話に持ち込む。自らが悪者になれるように。
「第一に、私はお前の期待に応えられる。その器がある」
リナの顔が明るくなり、すぐに暗くなった。蓮堂の言い方は肯定だが、合意ではない。
「第二に、お前は恋慕の恋と慕の区別が抜けてる。これは私が仕向けた結果だ。お前の恋慕は私の掌の上だ」
女の恋愛は、群れの頂点に惹かれる。学校ならクラスで、あるいはクラス内にできる数人のグループで。趣味の集まりでも仕事場でも、リーダー格の強い個体に惹かれる。
リナが過ごす環境では蓮堂のみがその座にいる。そうなるように仕向けた。全てはこうして恋愛感情を作れると示すためだ。
「第三に、もしお前が大学やそこらで友達を作って、男女それぞれ十人以上を見て、同じ釜の飯を食って、それでも私を選ぶなら。改めて言いに来い。そうしたら本物と認めてやる」
甲斐性を演出した輩を見つけるために。失敗の味を覚えていれば同じ失敗を見つけられる。
だから蓮堂は自分に惚れさせて失恋させた。感情は自前での制御は困難なくせに外部からの影響を受けやすい。
こうして意のままに操れると体で学べば、少なくともカモにされる事態は防げる。
リナは長いため息をひとつ。そのまま項垂れるので、蓮堂はティッシュを渡した。
黙って一枚を受け取る。
2章 模造品たち
N10B5 恋慕の模造品
人は大なり小なり感情を持ち、時に制御を失い問題を起こす。付き合い方を把握する。
今回は静止が続くので最悪でも遅れるだけで済む。蓮堂はただ待つ。遠回りに見えてこれが最も早い。
時計の針が右側に偏る。蓮堂が画面の顔を右へ左へと流す間、リナはずっとソファで天井を眺めていた。
「昼飯にするぞ」
蓮堂が声をかけても気の抜けた返事を伸ばす。どこかで朝から準備していたスパゲッティを見たかもしれない。水に浸して四時間、防災用の非常食としての味に慣れておくため定期的にこれを食べる。作業時間が短く済むので忙しい時期にもよい。
「バジルソースだぞ」
ようやく体を起こしてダイニングテーブルに着く。食事は静かに。ごちそうさまを言うまでフォークで巻く音の他は音楽とたまに外を通る車の音だけだった。
曲目は蓮堂の趣味で決めた。今日はSOULBEATの『オープニングナンバー』だ。
「この歌いいね。図太すぎ」
甲斐あってリナに笑顔が戻った。
「ちょうどいい気がしたからな。『最初の一歩は何度だって出す』、大事なことだ」
「どこに出そうかなあ。パソコンで書いてるのは何学部?」
「プログラミングなら趣味でやるものだ。他の書類は、私が大学を知らないからな」
「意外。どこで学ぶの?」
「使えば覚える。使わない範囲にある選択肢を知る手段が私にはあったが」
蓮堂は目線を作業台へ向けた。
「リナは話が違うからな。私の助手で十分とは思い難いから行けるうちに行くといい」
「何が違う?」
「仕事にはふたつの道がある。人を使うか、機械を使うか。先代は時代の名残で人力だったが私は機械が高性能かつ普及した時代にいる」
人間に仕事をさせるには聞く側が理解できる範囲になる。蓮堂は馬鹿どもと話すのを嫌って全てをプログラムにやらせた。最初に組み立てれば以降は一定の成果を出し続ける。拡張性を高く設計して、少しの手作業で想定外を見つける。
作業や思考と呼ぶ多くは事情の確認に費やす。無関係と判断するための時間など機械だけで済ませられる。
機械が候補を絞り込み、人間は追認する。
「でも蓮堂がいなくなったら、私じゃあ機械をどう使うかわからないし、人間も必要だよね」
「そうだ。機械は人間を強化するだけで、人間の代わりにはならない」
「人を雇う時代は、人間で人間を強化してた、ってことだね」
「そうだ。話が早いな」
リナは考え込む。この様子ならソファで組み立てた答え合わせらしい。半完成の部品たちの繋ぎ方を決めるのが今だ。すると現れる次の式を確認して次の言葉にする。
食器の片付けは済み、午後の仕事をいつでも始められる。しかし今は、あえてリナのために使う。一歩を踏み出す準備は重要な瞬間だ。ほんの数分を引き金にして一生を左右する。
悔いは少ないほどいい。蓮堂はよく知っている。
「決めた。法学部に行く」
「急だな。ともかく応援する。ちょうど今年のポケット六法が出る時期だ」
「過程が気になる?」
「見当はつくからな。条文は人間を動かすプログラムで使うには番人が要る」
リナは指を鳴らしたつもりのポーズで立ち上がった。進路を決めれば次は進むのみ。本棚の関係ありそうな本で取っ掛かりを作り、インターネットで試験の範囲を調べる。
蓮堂は安心して作業を進められる。目立つ位置に『独学大全』を置いて正解だった。これでリナは大丈夫だ。不運で腐った少女はもういない。
「蓮堂、ツイッター教えて」
「急だな。意図を聞こう」
「大学で人と付き合うなら必ず交換するから、この人が恩人って言いたい」
「そんな大義じゃないが。@ren_d_oだ」
検索して蓮堂探偵事務所をフォローした。目立つ投稿はないが、いかにもなお堅い雰囲気で大人になった気分が顔に出る。まだ子供だな。
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