N08B3 関わってはいけない名前

 八月十六日。


 蓮堂が目を覚ましたとき、すでに正午を過ぎていた。


 久しぶりの夜ふかしだ。前借りした四時間を返すまで四日ほどかかる。普段なら困る話でも大仕事の今なら誤魔化しが効く。しばらく臨時休業の札を掲げて、報告の日だけ少しの無理でやり過ごす。


 普段なら蓮堂はスーツに着替えて仕事をする。いつ呼ばれてもすぐ出られるように。気分を仕事モードにする儀式でもある。デスクにはマラソン向けの柔らかい水筒と、腕時計を左手に見ながら書類を作ったり情報を発信したりしていた。


 今日はすべてを変えた。ラフなシャツのままで、飲み物はコップのココアで、腕時計を机に置く。普段と同じ水筒も置いているが、口をつける数はココアを中心とする。


 リナも起き出したが「おはよー」への返事がない。作業台に並ぶ大量の画面とスピーカーに集中している。手元のお菓子を齧る。


 三〇分ごとの休憩でようやく気づいた。


「おはよう。悪かった。食事にしよう」

「しなくてもいいけど。どうしたの、今日は」


 リナは気を使ったつもりらしいが拗ねたような言い方になった。


「私も食事が必要だ。今日からしばらく忙しくなる」

「手伝えない話?」

「食後に話す。ちょっと重いぞ」


 具体的な話を避けて台所へ向かった。


 トーストとハムの軽い食事を出した。普段は出さない瓶の中身はトレイルバター、木の実やはちみつを混ぜた強力なエネルギー源だ。登山や長距離走で便利な小型軽量かつ高カロリーの品だ。海外製なので船舶による輸入により金額は張るが、はちみつでも足りない仕事がやがて来る。それが今だ。


 相応に食べ終えるのも早かった。胃の中身が運動の邪魔になる。蓮堂はアスリートの思考で当分は軽食を中心にする。習慣は今日のような状況への準備だと語る。大きな話が始まる。


「普段の私らは楽な仕事ばっかりしていた」

「うん」

「今日からみたいな大仕事で収入を一気に賄うからだ」

「納得した」

「何日もかけて危険な橋を渡る」

「想像してた」

「今年は難題すぎて、四ヶ月はかかる」

「そんなに続くんだ」

「ついてくる自信と覚悟はあるか」


 リナは即答した。


「あるよ。蓮堂には世話になったし教わった。恩返しさせてよ」


 具体的な作業を知らない。いつ折れても不思議でなく、試験がいくつも控えている。きっと合格するから大学生活が始まる。それまでに終えるか、少なくとも怪我はさせない。猫の手も借りたい。


 蓮堂は小さく笑いを漏らす。


「大した覚悟だ。時間が惜しい。一度で済ませろ。忘れたら自分から聞きに来い」


 蓮堂は深呼吸をひとつに続いて、画面を順に示した。大量に並んだ画面はそれぞれが役目を持っている。文字が並ぶ一枚、路上の映像が流れる三枚、ツイッターとインスタグラムを開く二枚、地図や検索結果を開いた三枚。最後に一枚がホーム画面で待機している。


「ターゲットだ。こいつの動向を調査する。地図だ。位置関係を確認してる。国内外の色々の一覧だ。こいつら全部の動向を調べる。点数はターゲットとの関わり可能性だ」

「どうやって確認を?」

「ライブカメラ。見てもわからないだろうが、こいつで録画してる」


 手前側の画面の陰になった部分を示した。ビデオ通話で使うようなウェブカメラが並ぶ。


「やけに回りくどいけど」

「スクリーンショットは気づかれる。それと他でも使うシステムの流用でもある」

「そうなんだ」


 膨大な作業はリナにも伝わった。動向を調べる相手のリストは右端のスクロールバーだけで長さがわかる。見える範囲だけでも組や会で終わる漢字が見える。


 これらを調べたら次は。すぐに想像がついた。接触だ。


 リナの背筋が震えた。浮気調査でさえ、激昂した男女の拳や灰皿で怪我をしかけた。今回はその程度では済まない。銃器を持ち出す可能性も、計画的に命を狙う可能性もある。


「勘づいたか。降りてもいいぞ」

「やる。蓮堂だけを見捨てるなんてできない」

「失敗するみたいな言い方だが、綿密な準備があればリスクは縮んでいく。死を覚悟するのは準備不足で動く奴だけだ」





2章 模造品たち

N08B3 関わってはいけない名前





 大仕事を始めて一ヶ月。まずは安全な場所で地道な調査を続けた。時に休息を兼ねて登山やゲームに興じる間も画面を記録し続けて早回しで読み取る。調査対象の半生を記録していく。


 九月になり実地の調査も始めた。標的となる軽井照雄かるい・てるおの動向を監視しつつ、関係ない位置でリストにいる連中がどう関わるかを見る。友好的な相手とは利害関係も似通う。一人が嫌えば近い十人も嫌う。候補の下位に押し下げていく。


 リナはよく働く。蓮堂と出会って以降は目にした全てを自らの糧にしている。


 調査の段階はふたつ。インターネットでの情報と、現地で直接の情報。現地を歩くには姿を溶け込ませる。ポケモンを捕まえながら写真を撮る。買い物袋を見せつける。情報を隠すには情報を与える。人は意味を勝手に繋ぎ合わせる。記憶が薄れてから次の行動を始める。何度も目にすれば思い出しやすくなる。


 適宜の休息をとる。人生に短期決戦はない。必ず長期戦になるから最大パワーをいつまでも出すために休憩する。休憩は体と脳のふたつに分かれる。筋肉の偏りを除き、無関係な思考で神経を繋ぎ直す。


 並行して高認試験へ向けた学習も進める。経験が先で計算が後、蓮堂の方針にも実地調査は都合がいい。目算で距離やら広さやらを測る機会がある。三角法に始まり微分積分もたびたび出番がある。人のいい顔で歩くので外国からの観光客が道を尋ねる。英語を使う。行き先には人気の傾向がある。歴史を使う。道には特徴がある。地政学を使う。時には動植物の危険さを量る必要がある。生物学を使う。


 それぞれは少しずつ調べながら使う。専門外はそれでいい。調べる方法を知っている部分に価値がある。単純な思考を反復するたびに答えを出すための時間が縮む。


 すべて蓮堂から教わった。出会ってから半年にも満たない短期間で、過去のどの時期よりも充実した時間を過ごして、すっかり蓮堂の色に染まった。


「リナ、休憩だ。昼飯の後は高田馬場に行くぞ」

「オッケー。今日はアレ食べたいな。名前なんだっけ、駅の反対にある」

「フレッシュネスバーガーだな。オヤツは控えめで行くぞ」


 これからマジック:ザ・ギャザリングで遊びに行く。定期的なイベントに合わせて各地からプレイヤーが集まり、蓮堂とも関わり、情報源になる。遊んで繋がりが維持できる。ゴルフと同等に便利であり、ゴルフより手軽に遊べる。


 熱心な専門店では初心者向けのルール教室をいつでも受けられる。リナに話した時点で興味は十分で都合のいい日が今日だ。


「ところで今までは、まず無いから言ってなかったが」

「なに?」

「関わってはいけない奴がいる。もし見かけたら隠れて逃げろ」


 蓮堂は紙に漢字を並べた。


兎田卯月とだ・うづき、こいつは最悪の性悪女だ。絶対に関わるな。身長は私より少し高くて、多分だが今もセクシー体型だ。顔の左側に泣きぼくろとお喋りぼくろがあるが、隠すだろうな」

「今回の件に関係ある人?」

「違う。少なくとも確実ではない。無関係なら楽だが、とにかく関わったら面倒になる」


 これまでどんな依頼人にも表向きにはいい顔をしていた蓮堂が避けろと言う。リナの直感が本物の危険を察知した。


「覚えておくよ」

「よし、本能的に長寿タイプだな」

「けど何者かは知りたい」


 蓮堂は渋い顔で応えた。


「私との関係は元友達だ。中学と高校のな。頼れる大人二人は覚えてるな。こいつもその自称殺し屋や探偵と会ってて、自称殺し屋についていった、と噂されてる奴だ」

「珍しいね。その噂は信じられるんだ?」

「仕事中に一度だけ見かけた。新宿の歌舞伎町で、闇夜に紛れて小走りで路地へ入り、やや後に銃声を聞いてる。状況証拠だけの推測だが」


 信じるにも疑うにも不十分で、打てる手が何もない。蓮堂にもできないことぐらいある。


「その自称殺し屋と面識あるんだよね。名前とかさ」

「ああ。あの優男は神谷翔太かみや・ちょうたと名乗った。本名かは知らん。多分だがもう関わらないぞ」

「随分な自信だこと。今日の蓮堂は、なんか変だよ。その字とかさ」


 そうか、と呟いて顔を伏せた。疲れているのかもしれない。疲れて真っ先に弱るのは疲れを自覚する能力だ。根拠の面では「なんか変」も曖昧だが、違和感は信用したほうがいい。人は当たり前ではない範囲に敏感だ。今は当たり前から外れている。リナがそう教えてくれた。


 自分で言い続けた話だ。誰にでもできる当たり前の範囲を誰よりも続けろ。


 字の形がおかしいのは気に入らない名前だからだが、そう言い訳したと疑われればまともな反論はできない。他の字を書く。最も書き慣れた文字は自分の名前だ。


 蓮堂節子、今日は隙間の距離が違った。


「悪い、やっぱり今日は出かけないで休もう」

「それがいいよ。お料理も私がするね」

「助かる」

「寝て待ってて」


 リナはご機嫌で台所へ向かった。こっちも「なんか変」だ。


 それを確認するにも体力が必要で、今は体力を温存したい。


 経験から、休んで取り戻すのは焦るよりもいい結果になる。甘えられるうちに甘えておく。

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