N07B2 最低最悪地獄の季節

 八月十五日。雨が続き、肌寒い日だった。


 夕方に調査から戻り、すぐに風呂に入るつもりだった。いつものくだらない仕事だ。上司の汚職を調査する協力と言えば聞こえはいいが、実態はほとんど離婚へ追い込む工作で、動機は逆恨みによる嫌がらせだ。それでも公益性があるので中止する理由は弱い。主目的でなくても結果的に利が出るなら仕事としては問題ないが、蓮堂はそういう手合いを嫌う。理由を繕って機材の代金を増やしてやった。


 背後からノックと、すぐに扉が開いた。振り返りながら「今日は仕舞いだ」と放つ。


 立つ顔はオオヤだった。黙って手招きをひとつ。年に数度の大口の仕事だ。今はストライが不安材料になるが、それでも多額の報酬のおかげで普段は楽できている。オオヤとの繋がりを失うわけにはいかない。


 蓮堂は荷物をストライに預けた。定位置へ戻し、風呂や食事を先に済ませるよう指示した。


「悪いね。蓮堂くんも忙しい所と分かっているけどね」

「忙しくなるのはこれからだろうが。屋上でいいか」

「今回は僕の部屋で」


 何かの受け渡しがある話だ。厄介さが増す。三階のオオヤの部屋に踏み込む。平凡な範囲の先にある防音室へ。普段のオオヤは歌い手として活動している。鳴かず飛ばずだが定期的に投稿していて固定のファンがいるらしい。設備に不自然はない。聞かれたくない話もできる。


「何を調べればいい」


 蓮堂が照明を操作する間に写真が出た。コピー用紙に印刷した三枚は、どれも粗いが個人の特定には十分だった。全て見下ろす角度で。車に乗る瞬間とか、どこぞの会館から会食にでも向かう様子を。


 外見は三十代から四十代の男。ネクタイの柄は潰れているが、周囲の連中に馴染む高級品と推測できる。首から社員証らしきカードを下げるが、ご丁寧にも見えるのは裏面だ。この男は立場が上流で、身分を明かす機会が多くて、用心深い。


 植物は日が当たる方向に葉を向ける。移動方向は西から東だ。都市の影はビルによる反射もあるがこの光は太陽からだ。時刻は午後三時ごろ。道路の舗装パターンには地域ごとの特徴が出る。見えにくいがおそらく新宿区だ。


「名前は軽井照雄かるい・てるお、表では立派な部長職だが、夜に密会する相手がよろしくない。国籍不明の麻薬カルテルと頻繁に会っている」

「それはもう警察の仕事じゃないのか」

「まあ聞け。関わる相手は麻薬カルテルだが、取引する品は薬じゃない」

「ほう?」

「情報だよ。証拠が出ないタイプのね」


 気が遠くなる。声は短命な情報だ。まともな方法では手に入らない。現場に盗聴器を置けば不法侵入かストーカー防止法あたりに抵触する。それ以上に、発見されれば命はない。


「蓮堂くんに注文がある」


 悪い予感がした。


「欲しいのは相手がそれぞれ何者かの情報だ。決して誰にも気づかれてはいけない。泳がせて次の行動を待ちたい」

「それぞれ?」

「譬え話だが、誰かがこの男を殺した場合に誰の恨みを買うかを知りたい」


 これまで最悪の頭痛の種だ。関係あると示す証拠はそれなりに見つけ出せるが、関係ないと示す情報はある程度で見切りをつけるしかない。


「本当に譬え話だな? 人間の労働の範疇だな?」

「もちろんだ。僕は殺さないし、殺しそうな奴に教えもしない」

「殺しそうじゃない奴が教えたら? あとは教えなかった結果から動くとも考えられるな」


 蓮堂は揺さぶる。余計な問題に巻き込まれるのは御免だ。


「安心したまえよ。君の不利益にはさせない。昔と同じくね」


 口調は普段通りに穏やかでも、相手は出資者だ。交渉するには黄金色の毒を飲みすぎた。


 蓮堂は舌打ちと共に写真を握り潰した。どこも破らずに丸めてその場に落とす。請けたサインだ。


「ありがとう。助かるよ」


 白々しい。事務所を置いている手前、オオヤには逆らえない。


「言っておくが期日は三ヶ月でも足りないぞ。来年の春に済んだら早いほうだ」

「わかってるさ。報酬は普段の四倍だ」


 オオヤはにこやかに見送る。





2章 模造品たち

N07B2 最低最悪地獄の季節





 蓮堂は明かりがついた家に帰った。台所からの香りと音に憧れていた。留守番を任せられる相手がいる。トントン、グツグツ、ジウジウ。自分には手に入らないと諦めていた音。


 この場にはかつて求めた全てがある。与える側にしかなれないと思っていた身が貰う側にもなれた。いいものも、悪いものも。


「おかえり蓮堂。あと十五分くらいでできるから待ってて」


 エプロン姿のストライが迎えた。適当にカップ麺でも食べるつもりでいたが、この調子ならもっと温かい食事ができる。地獄に仏とはこのことだ。重要な話は後にして、言われた通りに服と荷物を片付けてシャワーを浴びる。普段は髪にタオルを巻いて乾かしながら調理と食事にしていた。今日は食事だけを楽しめるらしい。


「はいどーぞ、召し上がれ。お疲れの蓮堂にやさしい手料理でございます」

「ありがとう。どうした、急に」

「蓮堂がああして呼ばれるなんて初めてだから、とんでもない事件な気がしたんだ」


 いい勘をしている。料理の腕もいい。焦げすぎて外見は黒い塊だが、口に入れたら芳醇さでわかる。冷蔵庫に半端に余った食材だ。少なくともカットほうれん草とハムがある。


「うまい」

「やたっ。お料理大成功!」


 やけに可愛らしい言い方や行動が続く。笑顔にぎこちなさが見える。同じく食べているので毒やそこらではなさそうだが、普段と違う行動には必ず裏がある。成長の意思ならいいが。


「そっちも大変だったようだな。何があった?」

「う、ばれちゃうか。白状するよ。見ちゃったんだ」

「何を?」

「通帳。バッグの中身を戻すときに、持つ場所が悪くて、ポロって」


 口座の残高に異常はない。取引相手にも支店にも異常はない。埃が出る可能性は一切ない。


 唯一の問題は名前欄にある。この世に存在しないはずの名前が。


「イチヒメって誰?」


 蓮堂一姫。通帳の幾つかに書かれていて、どれも偽造であるはずがない。蓮堂節子の名義も同じ銀行にある。


「伏せておきたかったが仕方ない。全部を話してやるよ」


 蓮堂はため息をひとつ。箸を置き、水を飲む。食後を待たずに話を始めた。


「まずその名前はアキと読む。いかにもクソ親らしいセンスだ。一姫二太郎の一姫を、単数を示す英語のアにかけてる。弟はジタロウかダイタロウのつもりだったらしいが、生まれる前に母親が死んだ」


 すでに過去になった話だ。事情を語っても何も感じない。苛立つのは呼び方だ。誰がアキと呼んでも気分が悪い。別の文脈でも反応する。商い中、空き部屋、読書の秋など、どこにでもアキを聞く機会がある。その全てが善意の第三者から発される。ただ耐えるしかない。文句を受け取るべき相手はどこにもいない。


「だから二十歳の誕生日にすぐ、家庭裁判所に行ったよ。問題があると述べて、通名を使った実績を見せて、裁判長からの書類を貰ったら役所の戸籍課へ行く」


 社会は何も求めない者には何も与えない。一方で、手順に基づいて要求したならば、大抵は手に入る。必要なのは少し金銭と、手順の知識と、事情を説明する言葉だ。


 言葉を持たない者は何も伝えられず、伝えられなければ得られない。言葉の扱いをいつでも丁寧に厳密にして、いざ必要になればすぐに使う。


「お前ももし必要なら覚えておけ。裁判所の一階で一度目の話をつけて費用を払う。そのうち手紙が届いたら指定された日に裁判所の上階で二度目の話、その直後に裁判長と話をつけたら書類を貰える。あとは役所で手続きをする。待つだけの日を抜いて三日だ。裁判所での費用は収入印紙で払うわけだが、これは地下のコンビニで買えば早い」


 法律とは人間が作った道具のひとつだ。血を流さずに戦う手段であり、感情を抜きに仲間になる手段であり、賄賂を贈らずに要求する手段である。道具には使う人間が必要だ。使い方を誤れば道具は人間を傷つける。


 魔法の呪文と同じだ。力を借りる相手は精霊ではなく立法府や司法府や行政府、自分が何を求めるか、相手は誰か、根拠はどれか。明文化した内容と合致する限り、見ず知らずの他人が動いて助けてくれる。


 ストライは日々を思い出した。蓮堂と出会う前の経験を。蓮堂が動くときの理由を。蓮堂が話した内容を。やけに安心できた。やけに嬉しい言葉をくれた。どこかが似ている。


「名前って、いじめられるよね」


 自分では決められないのにさ。伏し目に呟き、蓮堂の口元を見た。言葉を待つ。


「そうだな。六人いた」


 互いに、すでに料理は目に入っていない。冷めても構わない。目の前にいる相手が重要だ。


「多いね。生き残れたんだ」

「まあな。友達でいられたグループと、大人の味方が二人もいたおかげだ」

「どんな大人?」


 ストライにも一人だが大人の味方がいる。


「一人は自称殺し屋で、もう一人は探偵だ。ここの先代だな」

「なんか蓮堂みたい」

「高校を卒業したら働かないかと両方から持ちかけられたよ。おかげで私は今、ここにいる」

「探偵を選んだ決め手、聞いてもいいかな」


 自分の参考にもしたいから。顔にそう書いてあった。


「探偵の方がかっこいいからだ」


 久しぶりの笑いが巻き起こった。ストライのツボにはまったらしく、長続きするうち蓮堂もつられて笑う。気が緩んだ所で料理に再び手をつける。すっかり冷たいが今なら食べられる。


「選ぶ理由ってそういうのでいいんだ」

「そうだぞ。現にかっこよかっただろ」


 調味料は目の前にある。幸せなひとときならこんな味でもいい。なぜなら幸せだから。初の料理を残したらきっと悲しむが、それを抜きにしても食べられる。


「それで蓮堂のフルネームって何だっけ」

「蓮堂節子だ」

「うわ、オバサン臭!」

「そこがいい所だろ!」


 もう一度、笑いが巻き起こった。くだらない話をして、聞きながら食べて、やがて皿が空になってもまだ続けた。楽しすぎる時間だ。寝るには惜しく、神経が昂る。初めての夜更かしに踏み切った。当分は次の仕事が入らない。オオヤとの話は何かと訊ねたら、やがて話すとだけ答えた。


 頃合いを見てストライが切り出した。


「名前さ、蓮堂のだけ知ってるのはフェアじゃないと思うから」

「そんなつもりで言ったんじゃあないが」

「だろうけど、蓮堂には知らせても大丈夫な気がする」

「悪口は言わん」


 安心しきって紙とペンを取った。画数は少ないが、だからこそ時間をかける。線がひとつでも狂えば取り戻すチャンスはない。


十六女いろつきりな。これが私の名前」

「珍しい名字だ。目立つだろうな」

「中学までは何もなかったんだけど、高校でぜんぜん色づいてないって言われまくってさ」

「名字は遠いご先祖様で決まるくせに、やけに今の自分にも大きく関わるよな」

「蓮堂ってかっこいいもんね」

「そうだな」


 図らずも珍しい苗字が集まった。


「これから呼び方はどうする? リナがいいか」

「そうだね。それで頼むよ」

「わかった。改めてよろしくな、リナ」

「こちらこそ。蓮堂」


 握手を交わした。初めて肌と肌が触れ合う。最低最悪だった今日にひと筋のマシな瞬間が差した。


「とりあえずリナの家での一件は何事もなく処理されてるよ。経歴に傷はない。住所不定だがこれは届け出ひとつで解決する。心は自分で癒やせ」

「もしかして蓮堂、知ってて言わないでいてくれた?」

「探偵をなめるな。黙っておける話は黙っておく」

「優しいよね」

「そんなんじゃねえよ」

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