N05A5 チューリング完全

 ストライは寝る前に不満をこぼしていた。


 頭の中でざわつく声が聞こえる。お風呂でも布団でも聞こえつづける。どの声も言葉として意味を持っているし、知らない言葉さえ飛び交う。耳だけがカフェに取り残されている。


 蓮堂は教えた。


 脳にも処理落ちがある。ゲームで多数の敵を同時に大爆発で倒したら動作が遅れる。同じく今のストライは大量の音を浴び続けた影響で、それぞれの音がどこから来て何を意味するか確認している。脳は無意識で判断する。


「意味がない音になったら改めて言え。寝て起きてもそのままだった場合も改めて言え」

「うるさくて寝られないよー」

「音は存外なんとかなる。光はならないがな」


 懐疑的な目に蓋をして、次に光を受けた頃には、言われた通りに落ち着いていた。


 穏やかな部屋で起き上がり、着替えて扉へ歩く。隙間から台所の音と香りが届く。


「おはよう蓮堂。昨日はごめん」


 後ろ姿に声をかけた。蓮堂は律儀におたまを置いて振り返る。


「夜中に泣きついたことか?」

「そうだけど! 改めて言葉にすると恥ずかしいな」


 言葉に反して両者は笑顔を交わす。朝のうがいもすっかり板についた。中華鍋の音を背景に着替えと髪型セットを済ませる。手早くなった。


 蓮堂は台所で必ずエプロンと帽子をつける。家庭的な印象を見せればやがてどこかで何かの利益がある。現に今も、ストライが密かな安らぎに浸る。実の母親から得られなかった経験を蓮堂が与えた。


「誰でもそんなもんだから安心しろ。チャーハンだ」


 皿に盛り付けて食卓へ。キッチンはカウンター型なので、トレイで運ぶのは任せた。蓮堂が手を洗う間にストライが食器を並べる。些細であっても参加させる。


「いただきます」と「召し上がれ」で食器を取る。団欒の時間もすっかり板についた。いつか作りたいと望んだもの。家族でもない相手だが構わない。素朴な対面が愛おしい。


 食事中は表情や目線や短い感嘆詞だけのやりとりだけで、時間の共有を第一に置く。日毎に徐々に変わる表情は言葉がなくても伝わる。


 ストライが早く話を聞きたい様子も蓮堂にはよくわかる。食後まで待たせた。互いに欲求を高めた上で解放する。


「昨日の話の続きをしようか」

「待ってました!」

「ストライに任せた作業には『ルールイチイチゼロ』という名前がある。説明は省くが、この計算ができる奴はどんな計算でもできる。お前は『ルールイチイチゼロ』を模倣した。だからお前はどんな計算でもできる」


 蓮堂は私用のiPad Airで資料の検索を始めた。何かを学ぶときは教わった後で一人で改めて読み直すとよい。出すまでに時間がかかるが、ちょうどその間に話を終えられる。


「どうやって?」

「対応する言葉を交換して、だな。詳しくはニコニコ動画に説明がある。ほらこれだ」

「蓮堂、もしかして分かってない?」


 私用のiPad Airが動画広告を喋る間も話の時間になる。ストライは受け取るが、スキップが表示されても先に蓮堂の話に耳を向ける。細かい仕草に過去が出る。こいつは会話が好きだがこれまで満たせずにいた。詳しい理由はこれから絞り込む。


「そうだ。私は分かってない。だが数学者が証明していて、覆す論を誰も出せずにいる。私は数学者や学会を信用してる。だから知ったフリをして結果だけを使う。それで節約した時間が原始人にはできなかった巨大な動きをする余裕になる。人間の本懐がこれだ。誰かが用意した考えを別の誰かが使う。より大きな成果になる」

「ふーん」

「お前がどう思っても構わんが、チューリング完全性については学者たちが肯定してる。もし異論があるなら学会に発表してみせろ。その舞台に参加する実力がないなら諦めて結果だけを信じておけ。あとニコ動は広告の話題のための一般で快適なプレアカもある」

「そっちの話はしてないじゃん!」

「したそうな顔をしてただろ」


 二人の笑顔で時が流れる。こんな時間が欲しかった。


「分かっていようがいまいが、お前が覚えるべきはひとつだ。お前はルール110の模倣によりお前自身のチューリング完全性を証明した。だからお前はどんな計算でもできる」

「ぜんぜん自信ないけど」

「熟慮しろよ。お前が必要なものは、すでに知っているか、これから知るかだ」


 蓮堂の方針は一貫している。


 賢くなるのではなく、すでに賢い事実を証明する。仲間になるのではなく、すでに仲間だと証明する。相応しくなるのではなく、すでに相応しいと証明する。


 もちろん偽物だと自分で分かる内容ばかりだ。しかし嘘を信じさせる過程で調べ物や演技の練習を繰り返すうちに本物になっている。『偽りても賢を学ばんを賢と言ふべし』だ。


「ついでだから賢さを伝える方法を教えとく。相手にだけじゃないぞ? 自分にも伝えろ」


 一、単純なパターンで考えろ。王道と王道に持ち込む手段があればいい。

 二、失敗は調査の一部にしろ。「いい情報だ」と呟けば成功への道になる。

 三、黙れる範囲は黙っておけ。揚げ足取りに強くなる。


 シンプル・イズ・ベストだ。複雑ではベストかどうかの確認さえ困難になる。だが単純ならベストじゃないとすぐに見つけてすぐに修正できる。


 人間には心がある。失敗すれば苦しくなり、苦しさが続けば耐えられなくなる。だから楽にするために成功への過程と再確認する。


 詐話師の技術だが、騙す技術ではない。本質的には信じさせる技術だ。余計な情報を省けば必要な情報に集中できる。


「いろいろ言ってくれるけどさ、蓮堂ってそんなに私を信用してるの?」

「してる。お前はデキる奴だ。今までの仕事っぷりからわかる」


 たった一度の『ルール110』で入れ込む。大袈裟に見えても信用は先行投資だ。実績を見て気に入った相手への、次の実績への期待が信用だ。


 偽物になれない者は本物にもなれない。まずは偽物になる。やがて本物のような偽物になりいつしか本物になる。通貨での取引と同じだ。本物の金塊から離れて紙幣を使い、紙幣からも離れて電子データを使う。偽物がやがて本物になる。


「へへへ、嬉しいな」

「私も嬉しいよ、相棒」

「エッ!」


 小躍りして、勢いで私用のiPad Airを机の角にぶつけた。大きな音と共に手からこぼれ落ち

二度目の大きな音と、焦って拾おうとしたら蹴ってしまい三度目が続く。


 拾い上げて確認した。画面には異常なし、フレームの歪みもなし。ひと息ついて次の騒ぎが始まる。ストライは謝るしかできない。頭を下げて謝罪の言葉を連ねる。


 蓮堂はまず頭を上げさせた。


「怪我がなくてよかったよ。それに故障もしてない。被害は一切なしだ。まあでも、こうまで取り乱したからな。相棒は延期だ」


 蓮堂は身を案じる。


 ストライは深みに嵌る。





1章 迷い子の家

N05A5 チューリング完全





 ストライが動画を見る間に残りの仕事を進める。報告書の作成・送信、表帳簿に記録したり裏帳簿を暗号文で書いたり、メールをはじめ各連絡手段の受信箱を確認する。ツイッターへの投稿も準備しておく。事務所本体(@ren_d_o)はもちろん、調査用のアカウントも育てていく。


 ゲーム好きな看護学生、夜遊び多めの野球少年、写真好きの主婦、撮り鉄の塾講師などなどツイッターを利用した調査のために多様な属性を揃えている。非公開の内容を読むには相手の信用が必要になる。登録して間もないアカウントは警戒する。期間に対して投稿やいいね数が少ないと警戒する。フォロー欄フォロワー欄に友人がいると安心する。無害な友人の顔で隣に忍び寄り、必要な情報を掬い上げる。


 探偵は後ろ暗い生き物だ。誰もが触れない、見るのも厭う汚れを嗅ぎ回る。ゴミの山に手を突っ込み、肥溜めの底まで素潜りをして、ようやく一粒の砂金を得る。


 誰もが持っていながら誰も価値を知らない物に自分だけが値札をつける。孤独な道は同時に独占の道でもある。蓮堂の成果はすべて蓮堂だけのものだ。


「ねー蓮堂。学会に参加するには、大学に行く必要があるよね」

「だろうな」

「大学に行くには高校を出てる必要があるよね」

「普通はな」

「私、高校中退なんだよね。諦めるしかないかな」


 平坦な声調で。寂しげでもないあたり諦めが深い。溺れる者は藁をも掴むと言うが、透明な藁には気付けない。色をつけてからだ。自分でできない間は誰かを頼る。今は蓮堂がいる。


「手ならあるぞ」

「ほんとに?」

「改めて高校に入学する」


 目を輝かせて、一気に萎んだ。正しくはあるが負担が大きすぎる。人間はやり直しを嫌う。


「もうひとつある。高等学校卒業程度認定試験、縮めて高認試験だ。合格したら、大学受験もできるし就職でも履歴書の学歴欄に書ける」


 蓮堂の話に飛びついた。立ち上がり頭を下げる。私用のiPad Airをまだ抱えたままで。


「やりたい」

「いいだろう。資料は用意してやる。手続きは自分でしろ」


 口の動きと同時に手元ではキーボードが鳴る。Google検索に適切な言葉を入れるとすぐに情報が手に入る。必要な指定は.ac.jpか.go.jpか、結果を見ながら調整する。迷いなく進める様子にストライが口を挟んだ。


「蓮堂、なんで何も言わず助けてくれるの?」

「秘密だ」

「怖いんだけど」

「お前は有用だ。投資する価値がある」


 食い下がるなら続きを答える。些細な話でも蓮堂は習慣にする。社会は何も求めない者には何も与えない。欲しいならば欲しいと言え。条件や強さの話は後でいい。まずは要求してから満たす手順を知る。今のうちに癖にする。


「私は欲しいんだ。信用に足る協力相手が。野生の連中は誰ぞの息がかかっていて安心なんか少しもできん。だからお前を利用しようとしてる」

「それは憎まれ口でしょ。素直じゃないな」


 ストライが初めて異論を呈した。言えば従うだけだった子供が、自分の解釈を出した。間を開けても揺らぐ様子がない。確信と安心が見える。自分の考えは正しくて、蓮堂はこの程度で決して怒らない。卑屈にならずに怯えずに、真正面から話している。


「へえ、こういう所で頭が回るのか。お前の特技のひとつだ。誇れ」


 蓮堂は上機嫌に歯を見せた。


「さて、お前はどんな計算でもできると証明したわけだが、次はどう応用すればできるのかを証明して見せろ。練習用のノートや教科書は本棚にある。時間は、仕事の合間で足りるな」

「あ、仕事もしなきゃだめ?」

「雇用関係だからな。使用例になる範囲を教えてやるからさらに熱心にやれ」

「はーい」

「あと合格した後の方針もそのうち決めとけ。探偵は二人もいらん。試験は十一月だ」

「はーい」

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