N03A3 最初の依頼人

 ストライは翌日も起きてきた。体温は三八・二度、ワクチンの副反応を平気だと言い張って仕事をしたがる。予想通りの不安に突き動かされた発想だ。


 足手まといは動くより休むほうが負担が小さくなる。言ってもまだ食い下がる。


「せっかく蓮堂に雇ってもらったのに、私は役に立てるよ」


 具体的な話が出ないあたり、歳相応の甘さが見える。


 蓮堂も失敗に気づいた。昼からの来客に備えた服を着てしまった。服装は自他の関係を実感させる。片やパンツスーツのかっこいい女、片や寝間着の弱々しい女だ。姿を比べて無力感を増幅する。すっかり失念していた。自分にも同じ経験があるのに。


「焦るな。大人の仕事は準備八割の実行二割なんだよ。お前は準備期間だ。休むのも、体調を整えるのも、不安に打ち勝つのも。まずやるべき仕事がこれだ」


 月並みな言葉だがどうにか取り返せそうだ。意味は伝わっている。蓮堂にはそう見えた。


 けれど、もう一歩が足りない。持て余した部分をどこかへ向ける訓練も必要だ。だったらと蓮堂は引き出しから道具を出した。小ぶりのノートとボールペンと、それらをまとめるクリップボード。知的な活動をする限り、誰もが最初に使い始めて、誰もが最後まで使い続ける。


「このノートで記録の練習をしてみろ。時刻と、聞こえた音と、音から想像した行動を、書いていくんだ。記録の癖をつけておけ」


 蓮堂は最初のページに手本を書いた。格子状の線と、左に時刻、中央に「蓮堂の声」、右に指示した内容を改めて書く。指示の内容を忘れても、文字でいつでも確認できる。


 準備は勇気になる。


「時計は部屋のを使え。腕時計はそのうち買いに行こう」


 自分の腕時計と比べて時刻を合わせた。


「念のためだが、求めてるのは予想や想像だ。正確さじゃない。最初の情報からの予想を次の情報で覆す。何度でも覆す。元に戻るかもしれない。その繰り返しで判断を磨く。焦るなよ。進んでさえいれば少しずつでいい」


 修正のやり方も実演した。打ち消し線ではなく下線を使う。過去の考えを読める状態にして再確認を前提にする。


 十一時二十五分。まもなく依頼人が来る。





1章 迷い子の家

N03A3 最初の依頼人





 探偵は依頼を請けるときに顔を合わせる必要がある。パソコンやスマホが普及した今でも原始的に空間を共有する。画面では隠せても対面では隠せない情報がある。後ろ暗い者は追い返す。


 寝室の扉に隙間をあけた。音の通りを確認する。ストライの返事もあった。これでいい。


 やがて読める報告を楽しみにしている。


 蓮堂は時間まで画面に向かう。報告書の作成、プログラムの作成、インターネットで人気の話題集め。待ち時間にはちょうどいい。なくても仕事は成り立つが、あればどこかで役立つ。


 中でも人気の話題とは探偵の道具だ。依頼人と共通の話題があれば信用を築きやすくなり、築けば多少の手抜きを飲ませられる。次の仕事も増えるかもしれない。


 人は興味を持つ先が同じ相手を好む。蓮堂は多数のサブカルチャーを楽しむ。ゲーム仲間が次の情報源になる。趣味が仕事の糧を兼ねる理想的な関係を築いた。


 階段を登る音が聞こえる。蓮堂はキーボードを止めて、立ち上がり、入口へ近づいておく。ノックに続いて扉が開く。


「お邪魔します。電話した小宮こみやです」


 若い男だ。平日の昼にスリーピース、自称した通り昼休みの会社員らしい。袖口のワイシャツも腕時計も革靴も、本物らしく整っている。


「靴は靴箱の右側にお願いしますよ。手数かけます」


 蓮堂は他所行きの柔らかな口調で応対する。ストライを休ませた理由はここにもある。隣にいたら驚きを顔に出して面倒を起こしかねない。


 ソファへ案内し、茶を出し、依頼の内容から背景まで訊き出す。過程で信用も築く。仕草を合わせたり言葉使いを寄せたりを繰り返して、徐々に踏み込ませる。


「弟さんの調査、いいだろう。私も近くに用があるが、仕事だから金は負けん、諸経費込みで十五万だ。着手金は五万でいい」

「よろしくお願いします。くれぐれも気をつけて」

「任せときな。報告は来週の同じ時刻でいいか。中間報告か最終報告かはまだわからないが」


 署名をもって契約を結んだ。小宮を見送り手を洗って戻った。


 寝室ではストライが眠っていたが、手元には途中までの記録があった。やや覚束ないが時が解決する。及第点だ。


「悪い、起こしちゃったか」

「仕事でしょ。寝ちゃってごめん」


 水の残りは予定よりも少ない。十分に飲んでいる。目の前にある別の仕事に移る。


「食欲は」

「あんまりない」

「お前は嘘が下手だ。気なんか使うな」

「だってだって、働かざる者食うべからずって」

「言わん。食わない奴が働けるはずがないんだ。腑抜けの言葉なんか無視して飯を食え」


 蓮堂はいつも相手の顔を見て話す。ストライは泣きそうな顔がよく見える。背けても横顔をいつでも見つめている。些細な動きだが印象を左右する。


 蓮堂は立ち上がり、台所でベルの音の後に、二人前をトレイで運んだ。ダイニングテーブルに呼びつけて、ストライは指示の通りに座る。いただきます。挨拶に続いて箸で米粒を運ぶ。


「蓮堂」


 ストライの呼びかけに、口の中身を飲み込んでから答える。


「なんだ」


 続きが急につっかえた様子で止まる。言い方できつく感じさか、自省と同時に蓮堂の目線は異変を探す。手元へ、肩へ。今は待つ。


「ありがとう」


 やっと絞り出した言葉には、静かに答えた。


「どういたしまして」


 定型句なのに、あたたかな力がある。


「初仕事は明後日だ。前に言ったのと同じでな」

「ん? 今日の話がこうなると分かってたの?」

「そこが私の有能な所だ。お前もこうなるんだぞ。そのために今は体を休めろ。休めない奴は何をやってもハンデがつく」


 体調は徐々に戻る。ゲーム機とNetflixとdアニメストアの使い方を教えた。客がいない間はプロジェクターの大画面を使い放題だ。


 最初の興味は『スプラトゥーン2』、世界中に名を馳せる任天堂が送り出した、初登場から話題を膨らませ続ける最新ゲームだ。街中で水鉄砲を撃ちまくり、自分チームの色が多い側を勝者とする。言葉にすると単純ながら射撃ゲームの常識を覆す名作だ。日本では射撃ゲームは贔屓目にも流行とは言い難かった中で人気を獲り、アメリカでは射撃ゲームといえば本物の銃で敵を撃ち殺すゲームばかりだった中におもちゃの銃で人気を獲った。


 当然、ストライの耳にも届いていたはずだ。遊べなかった名作を今なら遊べる。


「いくらでも遊んでいい。唯一、仕事に出るときだけは中断しろよ」

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