N02A2 豊島園駅徒歩7分
助手が来て最初の夜。
空き部屋ならある。事務所は自宅を兼ねているので洗顔用品も揃えている。急に人を泊める機会は初めてじゃない。蓮堂が助手だった頃とは違い、ベッドも常備している。 せっかくの四人家族向け物件だ。広々と使う。
ストライが風呂から出たら扇風機のそよ風で乾かす。後頭部や側面の毛をかきわけて水滴をタオルに吸わせて冷風で飛ばす。ドライヤーはいらない。温度を下げていくのではなく最初から冷風でいいし、当てる位置を動かすのではなく最初から広範囲に風が当たる。
美容は実用でもある。外見が印象になり、印象が信用になり、信用が安心になり、安心が受注になり、受注が成果になる。総じて探偵としての力量を左右する。
無用な手間を除き、必要な手間をかける。単純かつ短時間の動きで結果を出すための配置で部屋を組み立てている。乾かす目の前には小さな作業台があり、明日へのメモを確認する。
健康診査だ。
オオヤに空メールを送るとすぐに電話が鳴った。時刻は午後十一時、深夜まで律儀な奴だ。
「やあ蓮堂くん。どうしたのかな」
「二つ頼む。明日の午前に医者と、終わりが早かったら子守だ」
「お安い御用さ。しかし、あの蓮堂くんがついにママか。ほっこりするね」
「やっと格闘術の稽古をつけてくれる気になったか」
「悪かったよ」
最後の言葉から離れながら通話を終えた。
朝一番が決まれば今日に用事はない。面倒ごとに最も効くのは睡眠だ。金で道具を買うのと同じく、睡眠で判断力を買う。
人間の思考は二通りある。意識しての思考で目先の行動を決めて、意識せずの思考で情報を選定する。脳が覚えていながら意識には浮かばない情報の統廃合は睡眠中で進む。
脊髄から脳までの道を意識し、髄液で老廃物を押し流す。伸ばして楽な姿勢にする。入眠の感覚に意識を向ける。思考のまとまりを断ち切り、夢の風景へ飛び込む。
自己暗示の一種だ。蓮堂は寝つきがいい。
朝日で意識を戻した。ブラインドと平行な光を目覚ましにしている。
水を汲んでテーブルに置く。来客部屋をノックしてから開ける。すでに体を起こしていた。
「おはよう。朝は口を濯げ。洗面所はこっちだ」
イメトレしていた言葉への反応は鈍く、寝ぼけた顔でただ見つめた。
「まだ眠いか」
「ゆすぐ? なに?」
疑問の言葉がおぼつかない。語彙から疑った。「濯ぐ」を知らずに育つ可能性はままある。
「寝てる間はツバが減る。すると、虫歯菌が増える。だから、軽く流す。体の負担が減る」
ストライは間抜け面のままで首を傾げた。予想はしていた。思考が馴染まない。これまでの環境が悪かった。もっと優しい言葉で言い直す。
「朝はクチュクチュすると体にいい。食事も美味くなる。ほらコップだ」
蓮堂も自分用のコップで手本を見せた。まずは首を左右に傾けて頬の裏に水を送り、吐き出す。次に頬の筋肉をポンプにして水音を鳴らし、吐き出す。
単純な動きを真似させたら、コップに残る水を飲む。ストライも同じく飲む。眠る間に汗で出ていった水の補充であり、消化器への刺激で体を起こす。
「探偵の仕事はハードだからな。準備では楽していけ」
コップを台所で洗う。腹の虫が聞こえる。
「すまんが今日の食事は医者の後まで待ってくれ」
「平気だよ」
ストライは当たり前のように流した。育った環境が見える。
「ならいいが。楽にしてていいぞ。医者は待ってれば来る」
「蓮堂、お金持ち?」
「いや」
言い淀んだ。
「事情があるんだ」
助け船のようにノックが聞こえた。返事も待たずに扉が開く。
男二人が来た。片方は手ぶらのオオヤ、もう片方は前後左右に大柄な中年で、同等に巨大なダッフルバッグを抱えている。勝手に机や椅子を使い、中身の箱を並べていく。
ストライは明らかに怯えている。これから何が始まるか全く想像がつかない様子で、それは正しい。未知はいつでも恐怖を呼ぶ。原始的な環境では、とりあえず恐れてとりあえず逃げる個体ほど生存率が高まる。その繰り返しを耐え抜いた遺伝子だ。だから恐怖心は正しい。
「安心しろ。ひょろ長は上に住んでるオオヤ、太いのは医者だ。どっちも信用できる」
「待て蓮堂くん」
オオヤが冗談めかせて言い返した。
「初対面では
「確かにな。大家のオオヤだ」
すぐ上に住んでいるから気軽に話せる印象を作る。蓮堂も初対面の頃からそうだった。
「今日はあの医者に健康状態を診てもらう。少し長くなるが必要だ。聞いとけよ」
「医者だ。よろしく」
ストライは勘がいいらしく、蓮堂は観察がいい。名前を伏せて職業だけで名乗る男を碌でもないと気づいた。目線で蓮堂に訴えるが、蓮堂は気づかないふりで怪しい男へ歩み寄る。
「蓮堂ちゃん。二十万だ。十万だ」
「はいよ。百万だ。綺麗に使え」
暗号じみたやり取りを見てストライは確信した。状況がまずい上に逃げられない。
医者は封筒の札束を数えた。慣れた手つきで百枚とわかれば「いいだろう」と呟きバッグに放り込んだ。
「私もこいつらもこう見えてクリーンだ。悪くはしないし、悪い連中と繋がる気もない」
「う、うん」
昨日の威勢はどこへやら、心細さが丸出しの泣きそうな顔だ。追い打ちのように蓮堂が席を立つ。
「私は今から、新しい従業員のために制服を買ってくる。その間にする検査を言うから覚悟と安心をしておけ。採血は合計で一〇ミリリットル、心電図、歯の状態。それからコロナワクチンだ。明日あたりまで副反応で風邪みたいな症状が出るが、打ったことあるか?
ストライは黙って首を振る。靴を履きながら続きを話す。
「なら問題ない。不安だろうが私は探偵だ。調査結果はあるし、何が起こっても調べられる。あとオオヤ、終えたら食事を用意してやってくれ。冷蔵庫とレンジに揃えてある。おかわりはないから足りなかったらおやつを食べろ」
「オッケー、あーんしてあげよう」
「訂正だ。ストライにはおかわりがある」
「僕も食べてよかったのかい?」
「一人じゃ寂しいからな」
軽口を叩くが行動は信用できる。以後をオオヤに任せて扉を閉めた。
1章 迷い子の家
N02A2 豊島園駅徒歩7分
蓮堂は歩きながらマスクと伊達眼鏡をつける。
西武池袋線で豊島園駅から池袋駅まで。片道一八〇円、空いているし治安もいい。
フィヨルド状のホームから最も不人気な西武南口改札を通り、橋の下を通り反対へ向かう。
不思議な不思議な池袋だ。東にある西武デパートに今は用がない。西にある東武デパートの五階、モンベルでお目当ての品を取った。ジオライン(R)のインナーシャツとタイツを二着ずつ。これがあれば暑くて不愉快な夏が変わる。暑い夏に。
続いて帽子と上着だ。ベージュやグレーの、街中では特徴が薄い色で揃える。マイクロタオル(R)も取った。色は青がいい。虫の色覚で捉えにくい。
総額二万円程度で制服とする。服で外見を似せる。印象が似ていれば友人や同僚に見える。二人組とわかる方が都合がいい。
用が済んだら同じ道で事務所へ戻った。まだ午前だ。
「ただいま。戻ったぞ」
蓮堂が見る限り、医者は既に帰っていた。ストライとオオヤは応接用の椅子でおしゃべりをしている。
「やあおかえり。それが彼女の服かい」
「そうだ。失礼はなかっただろうな」
「いい子だよ。捻くれてないのが奇跡的だ」
「それはよかった。あとはオオヤが、ストライに失礼しなかったか」
「奇跡はそう何度も起こらないね」
この軽口の応酬をストライは控えめに笑って聞く。すっかり馴染んだようで、蓮堂も一緒に笑う。同じ行動をする相手を仲間に感じる習性がある。これなら順調にやれそうだ。
蓮堂は隣に座る。物理的な距離が近い相手を仲間に感じる習性がある。ローテーブルに品を並べた。
「さてストライ、お前はこれから蓮堂探偵事務所で働くわけだ。だがもし日々で疲れたら話にならん。そこで、楽な服を買ってきた。今からこれ全部がお前の物だ」
ストライは七つと蓮堂の顔を交互に見た。どの品も値札は四桁だ。贈り物だ。きっと全てが初めての経験だった。新品も、四桁円も、まとまった贈り物も。
「蓮堂、これ、こんなに」
涙声で舌足らずに言いたがる。言わなくていい。
「こう見えて儲かってるんだ。使えば値段にも納得する。大事に使えよ」
「ありがとう、私に、こんなに」
「いくらでも泣け。さっそくタオルの使い心地でも試すか」
包装を開けさせて、眼鏡拭きを大きくしたような一枚を出す。まず薄さに驚き、次に水をよく吸って驚き、やがて乾く早さに驚く。高機能とはこういうものだ。
実際のところ、手放しに優しいとは言い難い。
いい品を知ってしまえば人はその水準から下げられなくなる。耐え忍ぶ計画ができない間は特に。ストライは蓮堂の元を離れられない。
「今まで辛かったよな。取り返していこうな」
甘言で懐柔する。
初仕事は三日後だ。それまでに他の小道具を揃える。
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