女子高生から探偵まで
エコエコ河江(かわえ)
1章 迷い子の家
N01A1 スマートプレーン101号室
二〇二一年六月二十一日。東京都練馬区・土支田。
石神井公園駅から遠く、成増駅から遠く、光が丘駅から遠い。この町では徒歩で踏ん張るかバスを頼る。
長髪を畳んでボーラー帽に押し込み短髪を装う。パンツスーツに安物のリュックを合わせてまあまあなキャリアウーマン風の装いで歩く。スマホの地図と建物を見比べて現在地の確認を小まめに、大袈裟に。保険の営業にでも来たような印象を振りまく。
平日の真昼だ。大黒柱は出稼ぎに行くし、お喋りな奥方は食事をしている。出歩く人や車は少なく、道を広々と使える。
治安は廃棄物に出る。ポイ捨ては見当たらず、ガムや落書きもない。コンビニではごみ箱を外に置く。ご家庭の庭先の植物のおかげで視界は有機的な緑色の曲線が多い。
文句なしのいい町だ。目的の建物を除いて。
集合住宅の地階、表札がない扉のインターホンを押した。
手には手袋、顔にはマスク。この場に証拠は残さない。
「蓮堂だ。待たせたな」
反応がないので扉を叩く。リズミカルに三回、きっと隣の部屋にも聞こえる音量で、符牒を知る者にだけ意味を伝える。
「いないのか? 開けるぞ」
静かな町だが反響は少ない。アルトの声はごく近くにのみ届く。
ドアノブを回して、引いた。家の中と外を繋ぐ、空気の通り道ができた。
轟音を立てて炎が噴き出す。髪の一部が焼けた。
1章 迷い子の家
N01A1 スマートプレーン101号室
バックドラフトじゃない。爆発だ。こんなに揺れたら建物の全員が気づく。起爆装置がもし焼け残れば面倒が増える。
何が
「いるか!? 生きてるか!? 返事しろ!」
善意の第三者らしい言葉でアピールしながら、蓮堂は仕事を進める。ごみ袋が重なった中に場違いな小箱を取り、リュックの奥に押し込んだ。中身は知らなくてよく、振って音はない。
炎は部屋の中心付近にあり、窓や換気扇が塞がっている今なら勢いは控えめだ。消防はまだ来ない。
口を閉じたら脱出する。その隣からソプラノの声が届いた。
「ねえ。ヒーローさん」
嗄れ声だが幼さが残る。蓮堂と視線を重ねたのは高校生ほどの小娘だ。ただし、鎖で家具に繋がれた。
「助けて」
前情報より酷い姿だ。ワンピースは汚れ、手足は細り、何日も風呂に入ってないような顔をしている。極めつけが足首の鎖だ。虐待の可能性なんて一言ではとても足りない。明らかだ。
蓮堂はその場にある材料から外し方を探す。隣の汚部屋に負けじと物が多い部屋で、四角のダンボールが目立つ。置き方から防音用と見える。空気の振動を空間で阻む。
「誰にやられてた」
「母親」
目で位置を伝えた。先の爆発で壁に穴が開き、頭をぶつけた様子で項垂れている。
「連れ出してよ」
「追ってくるぞ」
「来ないよ」
やけに自信ある言い方から察した。鎖を外すのは諦めて、革の部分を切断する。皮膚に傷がつかないよう、少しずつ。台所にあった包丁を滑らせる。
「ただとは言わない。働いて返すから雇って」
「無茶を言いやがる。自力で事務所に来い。手がかりはこの名刺、誰にも教わらずに来い」
小娘の足が外れた。久しぶりらしき自由の身だ。最後の試練として炎の壁を越える。
「まずはこの火事から逃げるぞ。服に水を吸わせろ。ついでに飲め。急げ」
まともな服を拾い、台所で蛇口を全開にする。布巾やシャツも見つけ次第に放り込む。
「これ以上は私も危ない。濡れた服なら熱を防ぐ。生き残れよ」
蓮堂は元の出口から飛び出した。外には近隣の住民と、ちらほらとやけに薄着な姿がいる。
仕事で来たら待ってるはずの人がいなかった。筋書き通りの答えを返し、集まりから離れて電話をかける。そのまま何食わぬ顔で現場を離れる。
やや遠くの通りで消防車のサイレンを聞く。何食わぬ顔ですれ違う。煤が目立たず臭いにも対策がある。蓮堂が火事の中にいたとはよく見るまで分かりやしない。
後ろからゆっくり近づいたタクシーを拾う。
「お客様、行き先は豊島園駅でよろしいでしょうか」
「ああ。出してくれ」
運転手は
「やけに遅かったけど、蓮堂くんが手こずったのかい?」
「情報より酷かった。爆発の規模もだ」
「僕も聞こえたよ。怪我なんかは」
「髪が焼けた。整えてくれ」
「じゃあ僕の部屋で」
仕事帰りにはクリーニングがお決まりだ。地下駐車場に入り、出て、また入る。尾行の目を落とすには目立つ動きで偽の情報を与える。訝しむ目を前提に、無関係と判断させる。人間は隠れた物なら見つけられるが、別の意味を見つけた物からは本当の意味を見つけられない。
そのため、車なのに徒歩よりも時間をかけた。まず三階で髪を切り、服も置いてから二階の事務所へ。
昼飯どきに仕事をして、夕飯どきに帰った。シャワーの前に食事にしようとしたが、ここにノックの音が転がり込んだ。
「今日は閉店だが」
構わず扉が開く。昼に見た小娘が本当に訪れた。
「たまげたな。どこぞで保護されてから来ると思ったが、直接か」
ポカリスエットを渡したらすぐに飲み干した。この暑い中を歩けばそうなる。
「約束通り、雇って。住み込みで」
「住み込みまでは約束してないが、歳は」
「今年で十八になる」
正直者め。
「未成年者ラクシュでしょ。言われたことある」
「略取な。言葉で聞いたきりなのはわかった。保護者の許可なく泊まり込みとはいかないが」
「保護者がいなければ誰も指摘しないよ。今までと同じ」
「私は探偵だ。書類や伝手がいくつもある。住み込みで雇ってやるよ。よく働け」
ソファで待てと指示して、お粥を用意した。あの様子では胃腸が弱った見込みが高い。まず消化によいエネルギーを、次にたんぱく質を。アスリート向けの店にはそういう品も多い。
「話が早すぎて拍子抜け」
「いいからまず食べろ。私の特製お粥だぞ。うまくて栄養満点だ。きっと驚くぞ」
蓮堂も同じものを食べる。木のレンゲでひと掬いして、小さいが音を立てて口に入れる。
同じ椅子で、同じ食器で、同じ料理。自分と相手に扱いの差をつけない。対等である証だ。
小娘も同じくお粥を食べた。まずは小さくひと口、ぬるいとわかれば大口で。よほどお腹を空かせていたと見える。勢いの指導はまた別の日にして、今は見守る。
「食べたらシャワーして歯を磨いて寝るぞ。空きベッドがある」
小娘は頬張りながら頷いた。
「あとは名前だ。呼ばれたい名前でいい」
飲み込むまで待ち、小声で答えた。
「ストライ」
「わかった。よろしくな、ストライ」
「怒らない?」
「それが本名かもしれないし、言いたくない事情かもしれない。名前は誰のことかわかるのが第一で、残りは詳しく言いたくなってからでいい」
蓮堂の無関心な実用主義を、小娘は優しさと受け取った様子で目を潤ませた。
*
補足情報
今作は実在の名前を多く出しますが、
スマートプレーンの存在はフィクションです。
現実にはこの名前の建物はなく、
爆発や火災は起こらず、
近隣住民の行動も現実のものとは関係ありません。
なお、土支田の美しい街並みは事実です。
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