エピローグ

 朝七時前、優里は小鳥の鳴く声で目を覚ました。

 いつもは起こされてもなかなか目が覚めないのに、どういう訳は今日は目覚めがよかった。

 ふかふかの掛布団を退けて背伸びをし、ベッドから下りてきちんと揃えられた靴を履く。 

 寝巻を脱いだら白いブラウスに青のワンピースを穿いて、鏡を見ながら髪を整える。始めてここで目を覚ました時よりも大分髪が伸び、左右で括ることもできるようになったが、まだ一人で結ぶのは苦手だ。

 空は晴れ渡り青々とした木々が揺れている。今日も庭を散歩するのは心地いいだろう。そう思いながら階段を下りた。

 廊下の窓ガラスすら綺麗に磨かれた居心地のいい屋敷。一階に辿り着けばもう物音が聞こえてくる。

「優里お嬢様、早いですね」

 千尋が食器を並べ、パンの用意をしている。今日は彼が朝食の当番なのだろう。

「少し、早く目が覚めたから……今日も美味しそうだね」

 スクランブルエッグにレタスが添えられみずみずしい色をしたプチトマトが並んでいる。芳ばしい匂いのするロールパンも食欲をそそった。

「今日はメイドの梨花さんにいろいろ教えてもらったんです」

「そうなんだ」

 食卓の机は以前より増え、十五人ほどの食事の支度が出来ている。

 両親と共に多くの使用人が帰ってきたため優里はまた全員で食事を摂ることを望んだのだ。

「おはよう、優里ちゃん」

「おはようございます、詩織さん」

 詩織は今日も美しい黒髪をなびかせて部屋に入ってくる。この家には詩織よりも年が上のメイドもいるが、それでも彼女がメイド長であることは変わらないらしく、他のメイドからも敬意を払われている。サンチェス家の血筋だからというのもあるだろうが、それだけ実力も伴っているのだろう。

「ふわぁ……おはようございます」

「あ、絢音さん今日朝の掃除当番のこと忘れてましたよね?」

「え、う、嘘だろ……」

 七時ギリギリにやってきた絢音は千尋の言葉でぎくりとして詩織を見る。

「さあて、罰として何をしてもらいましょうか」

「う、うう、勘弁してください」 

 まだぎこちないところもあるが、絢音もかなり屋敷に馴染んではいるようだ。


「おはよう、みんな」

「お父様、お母様、おはようございます」

 この家の主人の登場に皆で頭を下げる。彼らは優里が屋敷の全員でご飯を食べたいと言ったことを快諾した。そもそも彼らは一人娘に弱いのだ。

「あ、優里お嬢様……もういらしてたのですね。お迎えに上がったらいらっしゃらないので慌てましたよ」

「奏人さん、おはようございます。すみません早く目が覚めたもので」

 いつもは奏人に起こされることもあったが、今日は気持ちよく目が覚めたので一人できてしまった。

 屋敷の中だから安全だと思うのに奏人の心配性は未だに治らない。


 皆が席についたところで食事を始める。今日のスクランブルエッグはいつもよりも甘味が強く、それでいてレタスに合う深みがある。色も鮮やかで柔らかい。

 セントラルランドではカフェの店員もやっていたメイドの梨花は料理も得意らしい。是非ともレシピを聞いてみたいと思った。

 一か月と少し前までは誰かと一緒に食卓を囲めるという希望なんて抱いてはいなかった。そう思うと胸に込み上げてくるものがある。もうそのこみ上げる気持ちを押し留めるものがないのも嬉しい。

 この先もずっとこのイーストプレインで平和な日々を過ごしたい……躊躇いなくそう願えるようになったのも呪いが解けたお陰だった。

「優里は今日の予定は何かあるのかい?」

「はい、今日は奏人さんに近代史を教えてもらう予定です」

「なるほど……奏人とねえ」

 皆の視線が、優里の隣に座る奏人に向く。

「いや、勉学の場ではきちんとお教えしますから」

 奏人は耳を赤くしてそう答えた。

 優里と奏人のことは隠してはいないし、誰もが公認している。

 サンチェス家は代々イーストプレイン家に仕えるのが仕事だが、社会的にはそれなりに地位があり、実際先祖を遡ればイーストプレイン家の者と結婚した例もある。身分的には問題ない。学もある。

「ずっと優里のことを待っている姿勢も見てきたもの。あの子の危機にすぐに気付くし、とても誠実。あなたのことは信用しているわ」

 灯里夫人は変わらない表情のままそう告げる。

「ありがとうございます……」

「ただ正式に結婚するまでは必ずお嬢様の執事という責務を全うするように」

「はい」

 灯里の言葉に安心した奏人に父、響の言葉が刺さる。問題はないといっても彼の立場ではまだまだ大変そうだ。



 食後、歯磨きなどの身支度を整えると、いつものように自室に戻り本を開く。書庫の本を全制覇するという密かな夢があるのだが、それはまだまだ叶いそうもない。

 今回読んでいるのは手に汗握る冒険もので、舞台は隣国のためそちらの文化も気になってくる。本に夢中になっていると扉がノックされ、分厚い歴史の本を持ってきた奏人が入ってきた。

 マイサレアの紅茶を淹れて、今日も勉強を始めることにする。

「そういえば昨日ノースキャニオン伯爵より連絡が入りました。どうやらあちらの自然は回復傾向にあるそうですよ。後日改めて優里お嬢様にお礼を申し上げたいとのことで」

「それはよかったです」

 一時はどうなることかと思ったが、黒龍のお陰で持ち直したらしい。これで舞紗たちも一安心だろう。

 優里は十年間過ごした集落に想いを馳せた。もう足を踏み入れることはないだろうが、今後は誰も傷つくことなく平和な日常を送ってほしい……思い出す度にそう思わずにはいられない。


「それでは、学習を始めましょうか」

 奏人が本を開く。その姿を見て……時間が止まるような感覚を覚えた。

 目の前にある茶色がかった瞳、本を捲る大きな手……思わず、意識を奪われる。

「優里お嬢様?」

 胸に熱い思いがこみ上げる。ずっと封印されていたせいでどうしてもコントロールが難しい。

 急に溢れてくる涙を必死で拭った。

「どうしました? 気分でも……」

「すみません、好きって気持ちが……止まらないんです。こんなにも幸せなのにまだ欲してしまうくらいに」

 奏人は慌てて席を立つと、優里の椅子の隣に膝をついた。

「それは嬉しいですが目を擦らないでください」

 ハンカチで涙を拭われるが、その手つきに余計に涙が出る。好きでたまらない。自分がこんなにも我慢できない人間だなんて思わなかった。

「奏人さん」

 思わず抱き着けば好きな匂いが身体いっぱいに広がる。そうすれば力いっぱい抱きしめられるのが嬉しい。顔を上げれば温かいキスが落ちた。

「勉強はどうされますか?」

「あと少しだけ……ねえ奏人さん、名前で呼んでください」

 勉強も好きだけど、もう少しだけ温もりを感じていたい。

「……好きだよ、優里」

「私も、好き」

 今日も、優里の世界は大切な人たちで溢れている。

「あ、龍!」

 ふと視線を感じて窓の外を見れば、青い龍が優里たちを見ながら空を悠々と泳いでいった。

 

 これからも……皆に幸せな日々が訪れますように。

 それが、灰かぶりだったお嬢様の願いだ。

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