第26話:使用人たちの惚気話2
絢音は苗字すらない貧乏な家の生まれだ。
本来貴族の使用人にはそれなりに学がなければならないはずで、絢音のような人間がここにいるのは奇跡に近い。
スリをしようとしたところを詩織に捕まり、必死に弁解していたら「あなた可愛いわね」などという恐ろしい言葉で強引に連れてこられ、メイド服を着させられていた。
敬語さえままならず不器用な自分だが一度やり始めたことは簡単にやめられないし、何より親の為でもある。
だから必死に仕事をこなそうとしていた絢音に寄り添ったのが優里だった。
優里は絢音の不器用さを咎めず、お嬢様だという立場も気にせず自ら絢音の仕事を手伝ってきて、親のために働く絢音を肯定した。
いつのまにか優里の存在もまた絢音が働く理由の一つになっていたといっていいただろう。
そんな彼女はその日、長い廊下を全速力で走っていた。
邪魔なロングスカートをたくし上げ、玄関ホールも通り抜け、一階の廊下を端から端までただただ走る。その視線の先にいたのは一匹の小さな生き物だ。
体力には自信があるが、動物相手だとそうもいかない。
「あ、くそ、逃げやがった!」
「あの……どうしたんですか? 絢音さん」
窓枠の上部に飛び移ったそれ見上げ地団太を踏んでいると、目の前に本を持った優里が現れた。
おそらく書庫へ向かう道中だったのだろう。
思わぬ失態を主人に見られ、絢音の顔が熱くなる。
「いや……その、あれ見てください」
「わあ、リスさんですか」
絢音が指を刺した先には手のひらサイズほどの茶色いリスが窓枠上に器用に乗っており、何かをかじっていた。
「食糧庫に入り込んで食べ物漁ってたんだ……外に出したいのに逃げちゃって」
「それは……大変でしたね」
キッチンの奥にある食糧庫から走ってもう廊下の端だ。しかも書庫へ向かう優里の足止めをしてしまった。
「と、とにかく早く外に逃がすから」
窓を開けようとするが、そうすればまた屋敷内に逃げてしまう気がして、正直どうしたらいいか分からない。
「あ、待ってください」
絢音が迷っていると、急に優里が声を上げる。
「何を……」
そして、戸惑う絢音を他所に両手をそっとリスの方に伸ばした。
「おいで、怖くないよ」
優里が微笑むとリスはじっと優里の方を見つめていたが、やがてその場から跳躍し、ぴょこんと優里の手のひらへと降りてきた。
絢音からはひたすら逃げていたのに、まるで優里のことを信頼しているかのような動きだ。
「そんな簡単に……」
「足、怪我しているみたいで……もう大丈夫だからね」
優里が触れると動物や人間の怪我が治る。それは絢音も聞いていたが……よく見ると血が出ておかしな方に曲がっていたリスの足が、優里の手の中で綺麗に治ってしまった。
このリスは足を怪我した状態でここまで走っていたらしい。そんなことすら絢音は気が付かなかった。
リスは優里の手に撫でられ、尻尾を丸めて心地よさそうにしている。
「追いかけると動物も怖がっちゃいますけど、優しく呼びかければ答えてくれます」
優里はそう言うものの、彼女の魅力にリスが引き寄せられたような……そんな風にも見えなくはなかった。
「集落にいた時もリスやウサギや小鳥さんがお友達だったんです。だから慣れていて……あ、外に返さないと……ですね。リスさん、また遊びにきてね」
窓を開けて優里が手を伸ばせば、リスは再びぴょこんと跳躍して簡単に外へと出ていった。
絢音がどれだけ追いかけてもなんともできなかったリスを優里はいとも簡単に懐柔してみせたのだ。もう感嘆の言葉も出ない。
「優里お嬢様って、ほんとすごい、ですよね」
飛び出した言葉をなんとか敬語に変換する。すると優里は困ったような顔をした。
「あの、絢音さんは敬語じゃなくていいですよ。同い年ですし……詩織さんたちは厳しいかもしれないですけど、二人きりの時は無理に変えなくても……私のことも呼び捨てでいいです」
呼び捨てでいい……まさか本人からそう言われるとは思わなかった。確かに詩織や奏人には厳しく注意されてきたが優里に注意されたなんてことはない。また、何気に優里と二人きりになるのは初めてだった。
「でも……」
「その、私は今まで友達と呼べる相手もいなくて……折角同年代なので絢音さんと友達になりたいな……なんて」
「そういうことなら……ってだったらアタシのことも敬語じゃなくていいから」
絢音は優里の手を取った。
優里は同年代の友達がいないといったが、絢音もまた同年代の友達がいなかった。
唯一の仲間といえば金を求めて悪さをする仲間くらいで友達と呼べる相手ではない。
「えっと……じゃあ、よろしくね、絢音ちゃん」
照れたように優里が言う。
この時はもう、優里の存在は絢音にとって雇い主以上の存在へと変わっていったかもしれない。
「よろしくな優里」
窓から差し込む夕日が手を繋ぐ二人のことを鮮やかに照らしていた。
◆ ◆ ◆
「いやいや、許されることじゃないからな!」
奏人が机を叩く。その途端、ワイングラスがぐらりと揺れた。
「そうよ……優里ちゃんにため口……なのは私もそうだから置いといて、優里ちゃんにため口で呼んでもらえるなんて」
「僕だって年下なのに……まだ他人行儀で」
「同年代、許しません」
美しい友情の前に、他の使用人たちは打ち砕かれるしかない。
「しかもリスと戯れる優里ちゃん……きっと可愛いんでしょうね」
「想像しただけで天使だ……」
サンチェス家の二人が同時に溜息をつく。この中で成人している二人が一番の厄介者かもしれない。他の三人は、彼らがもう酔っているのではないかと心配になってきた。
けれど次の話し手はどちらでもない。
「それでは、私の話を」
愛子は水を飲み干すと小さく手を上げた。
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