第7話:優里と屋敷の日常2
夕食を食べ終わり、風呂も入って就寝支度を整える。
これは、庶民の暮らしを続けていた優里にとっては少々苦労するものだった。
風呂というのはお湯で身体を流すだけではいけないらしく、どこをどのように洗うのかを細かく詩織に指導された。また髪を痛めないドライヤーのかけかた、歯の磨き方まで徹底的に教わる。
ここまでくると貴族教育というよりはむしろ詩織の趣味に近いような気がしたが、正しく身体を磨けばさっぱりとして気持ちよくなるため、頑張って教えを守ることにした。
流石に風呂場までは奏人もついてこないため(何かあれば内線で呼ぶようにと再三言われているが)、自力で階段を上がり自室に帰ってくる。
今までいた家は電気は食事をする部屋と継母や義姉たちの部屋にしかなかったため、自分の部屋に蝋燭の火ではない明かりがあり、夜でも身の回りのものがよく見えるのが不思議だ。
「ちょっとだけ、読んじゃおう」
少しワクワクしながらベッドサイドに置いておいた本を手に取り、椅子に座ってふと空を眺めた。
相変わらず広い庭だ。そして上空には満天の星空が広がっている。
つい先日まで……ノースキャニオンにいた頃は黒龍の影響で異常な雨が降り続いていた。だから、この平穏な夜空……そして澄み切った空気が嬉しい。
このまま裸足で外に出たいような気がしたが……そんなことをしたらまた皆に怒られるだろう。そう思って庭を眺めていると……何か小さな光のようなものが……こちらに向かってきているように見えた。
「え……?」
一体何だろうかと思った瞬間、サイレンのような甲高い電子音が屋敷に響く。
「優里お嬢様」
サイレンが鳴るや否や奏人が部屋にかけつけ、彼女を守るように窓側に立つ。息が切れていたことからかなり急いできたことは分かった。
「えっと……何が起きているんですか?」
電子音は止まらない。優里は本を閉じて、奏人の脇から外を見つめた。こちらに向かってきている小さな光……それに対し、屋敷から小さな影が向かっていくように見える。
「侵入者です」
「え……?」
侵入者……この屋敷に忍び込もうとする人間がいるということだろうか。
「この音は?」
「庭に設置しているセンサーが入ってきた者に反応したんです……そろそろ詩織姉さんが止める頃だと思いますが」
奏人がそう言い終らないうちにぴたりとサイレンが止む。その間にも小さな光と影が近づいてゆく。
「では、あれは……」
「光はおそらく懐中電灯を持っている侵入者……でしょうか。もう片方は愛子ですよ」
愛子は普段メイド服を着ているが、この家の用心棒だと言っていた。侵入者が来たら真っ先に動くのが彼女の役目らしい。
呆然としている間にも二つは接触し、暫く光が暴れるように動いていたものの……やがて止まってしまう。捕まえられたのか……とほっとした瞬間、銃声のようなものが響いた。
「愛子さん……?」
嫌な予感が優里の中を駆け巡る。愛子は体術の達人だと言っていた。ならば銃を使うとは思えない。儀式の時も使っていなかった。であれば、銃を撃ったのは相手の方だろう。
急に不安になって、思わず部屋を飛び出した。
「ま……待ってください優里お嬢様」
いつもはゆっくりと歩くのがやっとだが、今は体力を気にしていられず駆け足で階段を降りた。勿論すぐ後ろには奏人がついてきたが引き止める様子はない。
本当に危険ならば彼が止めてくれる……まだ一週間しか接していないが、何故かそのような確信があった。
寝巻きで家を飛び出したら詩織にまた怒られてしまうかもしれないが……今だけは例外だ。
優里は靴を履くのを忘れたまま庭の芝生に足を踏み入れ、そして人影のある方へと向かった。
「愛子さん!」
姿が見える位置まで近づけば、愛子が二人の人間を縄で縛っているところだった。
縛られているのは……赤い頭巾を被った幼い少女と、大柄な初老の男性。銃を撃ったのは少女のようで、すぐ側に小さな黒い拳銃が落ちている。
優里は捕まった二人を見つめ、それから愛子を見た。
手際良く縄で侵入者を縛り終えた……ように見えるが、よく見ると左の肩から血が出ている。
「愛子さん、その怪我……」
「拘束して捕まえようとした際、不意を突かれ撃たれてしまいました。ですがかすり傷で、大したものではありません」
愛子は怪我のことなど気にも留めないように淡々と喋るが、敗れたメイド服の間からまだ血が出ているのは月明かりのおかげで辛うじて分かった。
そのまま動き回れば傷口が開いてしまうかもしれない。
「あの、じっとしていてください」
だから、優里は縄を片付けようと立ち上がる愛子の動きを制した。手を伸ばし、彼女の腕に両手で触れる。
「なにを、」
「私は、これくらいのことしかできないので」
「あ……」
愛子が気づいた時には、もうそれは始まっていた。
銃弾が擦り痛みや熱を持っていた肩の傷の感覚が次第に薄れてゆく。そっと傷口のあったところに触れてみればもう血も止まっているようで、かさぶたや隆起すらない綺麗な皮膚があるだけだ。
それどころか、侵入者と戦った疲労さえなくなり、身体全体がふっと軽くなった気さえする。
改めて優里の顔を見れば、彼女はどこか満足そうでもあった。
これは、ウェストプレイン家の一族に伝わる治癒の能力だ。怪我をした人や生き物に触れるだけで、傷を治すことができてしまう。
それは愛子も常識として知っていた。しかし使った本人に負担がかからないわけではなく、傷の程度によってその分体力が消耗されることも。
自分はかすり傷と伝えたが、本当はなかなか深いところまで抉られていると感じていた。
ただでさえ黒龍に体力を奪われている優里がこの傷を治せば……削られる体力は底知れない。
それでも優里は迷わず能力を使った。
「何故、私なんかに」
「愛子さんが身体を張って私たちを守ってくださるなら、私も愛子さんのこと守りたいんです。だめ……でしたか?」
「しかし、お嬢様に守られる用心棒など一般常識に反すること」
「えっと……じゃあ、私は例外でいいです。生い立ち的にも普通のお嬢様じゃないですし」
優里の言葉に愛子は暫し固まり、
「……ありがとうございます」
と、ポツリと呟く。
頑なに無表情を貫こうとしていたのに、優里の瞳を見たらつい表情が和らいでしまうのだから不思議だ。
それを見た優里も、安心したように微笑んだ。
「治癒の能力……ってことはあなたがイーストプレイン家の跡取りね! 私はあんたに用があるのよ!」
二人のやりとりを見ていた赤い頭巾の少女は、縛られたまま優里に向かって声を張り上げる。
「へえ……優里お嬢様にご用があると……では、詳しいことは中でお聞きするとしましょう。ノースキャニオン家のお嬢様」
一方、奏人は笑みを貼り付けたまま少女の顔を見つめている。
「え?」
愛子は相変わらず無表情で、驚いているのは優里だけのようだ。
ノースキャニオン家……ということは、優里が先日までいたノースキャニオン一帯を統治する家系ということなのだろう。
そこのお嬢様ということは、優里と同じような立ち位置ということか。
「黒髪に赤い頭巾を被った齢十二歳の少女……それがノースキャニオン家の娘、
「なら話が早いわ! 黒龍を返しなさいよ! じゃないと……」
舞紗と呼ばれた少女は縄で縛られた手を無理やり動かし銃を掴む。そして優里の方に銃口を向けた。
黒竜を返して……そう言われて、優里は自分の黒い痣に触れた。優里の身体に封印された黒龍……彼女はこれに用があるらしい。
流石に銃口を向けられれば優里も怯んでしまう。そんな優里を庇うように奏人が一歩前に出た。
「侵入者で主人に銃を向ける者……であれば例えどこぞのご令嬢でも手加減はできねえよな」
奏人は独り言のように小さく呟くと、舞紗の手を掴み地面に押さえつける。そしてあっさりとその拳銃を小さな手から奪い取った。
「そちらに攻撃の意思がある異常、こちらもお前たちを犯罪者として扱わせてもらう。いいか?」
「無礼な……」
「お嬢様、抵抗はやめましょう。不法侵入した時点で我々には十分非があるのですから」
やっと、舞紗の隣で縛られる初老の男が口を開く。
優里がここへ来て一週間目。どうやらここへきて、呑気に本を読んでいられない大変な出来事が起こりそうな予感だ。
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