第8話:ノースキャニオンからの使者1
奏人・サンチェスが青い龍を目にしたのは、親からの言いつけで五歳の伯爵令嬢に龍の話を教えている時だった。
サンチェス家は代々イーストプレイン家に遣えることで現代まで続いてきた家系だ。そのため奏人も例外ではなく、学校を卒業すればこの屋敷で父親と同じように働くことになるという。
それが、彼にとっては納得いかないことだった。
命令に従って偉い人の言いなりになる役目だなんて誰が好き好んでするものか、と思う。
自分より7つも歳が下の優里・ウェストプレインにわざわざ丁寧な言葉遣いで接することだって納得がいかない。
それに、こうして庭のベンチで本を開きながら丁寧に説明をしたって、そもそも彼女が全てを理解しているとは思えない。
「王は最も危険な金龍をセントラルランドに住まわせると、他の土地にも龍を送り込み、四つの一族に龍を守護する役目を命じました」
「守護って?」
「ああ、少し難しい言葉でしたか……まあその龍たちが悪さをしないように守って見張る役目を負うってことですね。そしてお嬢様のお父様もその役目を担っています」
もうやめたい。
無意味な時間の前に、奏人は心の中で溜息をついた。
「あ、龍」
しかも、まだ話も終わっていないのに、優里は急に立ち上がってしまう。
やはり彼女にはまだ龍の話は早いではないかと優里を見ると、彼女は空を指差していた。
そこには……確かに龍がいた。
巨大な蛇のようなものが……宙に浮いたまま身体をくねらせている。
龍……何度見ても龍だ。それは、本の挿絵として描かれているものと殆ど一致する。
魚のような鱗のついた巨大な空の生き物……どう見てもこのウェストプレインに住むという青龍そのものだった。
「そんな簡単に姿を現すなんて」
存在はしていると伝えられていたが人間の前に姿を現すことはないと思っていた。それなのに、まるで優里に会いにきたかのように龍は円を描くようにしながらこちらに顔を見せる。
優里はベンチから離れ、龍を近くで見たいのか芝生の上を駆けていこうとした。
「危険です、優里お嬢様」
止めようとするも優里は振り返って首を傾げた。
「だってあの龍『一緒に遊ぼう』って言っているでしょ?」
奏人にはそのような声は聞こえない。けれど優里が嘘をついているようにも見えなかった。
龍の声が聞こえる……それもまたウェストプレイン家の能力なのかもしれない。
目を凝らせば、その龍は青空と戯れている……そんな風にも見えた。
「奏人さんも一緒に遊ぼうよ」
優里の水色の瞳が細められ、口元が楽しげに弧を描く。
ブロンドの髪が風に揺れ、幼い足が軽快に芝生を踏む。
「は……はい」
遊ぶのはともかく、お嬢様が遠くへ駆けていくのに自分だけ座ってもいられない。
すぐに追いついて上空を見ると、龍にきつく睨まれた……そんな気がした。
ふと、優里は足を止め、
「なんで……」
と、呆然と龍を見つめる。
奏人には声が聞こえないが、青龍がまた何か言ったのだろう。
「えっと……青龍はなんて?」
と尋ねれば、優里は不安そうな顔で奏人を見つめた。
「あのね、奏人さんは来ないでって言ってるの……私のことを大切に思っていないからって……そんなことないのに」
優里のことを大切に思っていない……確かにそうだ。図星をつかれた気がした。
従者という仕事には付きたくないし、幼いお嬢様の面倒を見るのも嫌だ。何度も拒否をして、現在は嫌々ながらここにいる。
そんなこと優里の前では表に出さないようにしていたつもりだが、龍にはお見通しらしい。
優里の幼く純粋な瞳が憎らしくもなる。
「そんなこと……いや、当たってる」
否定をしようとしてやめる。取り繕うことは多分不可能だ。
「俺は仕事だからこうしてお前の世話をしているだけで、龍の言っていることは正しいかもな」
日々の嫌気からもついヤケになってしまったのかもしれない。
混乱する彼女を突き放すようについ本音をぶつけると、龍が大きな咆哮を上げた。
「な……なんだ?」
その唸り声だけは奏人にも聞こえた。
身の毛の世立つような長い咆哮の後、今度は一際強い風が吹き……奏人の身体に直撃した。
「……っ」
ただの風ではなかった。風……というよりはむしろ刃にも近いのかも知れない。
咆哮と共に放たれる鋭い風は、奏人の四肢を容赦無く何度も斬りつける。抵抗しようにも相手は風なのだからどうにもならない。
地面に倒れ、やっと風から解放されると、奏人は初めて全身から出血している自分の状態を確認することができた。
皮膚が切れているだけで骨は折れていないようだが、痛みで身体を起こすことができない。このまま出血が止まらなければ出血多量で死ぬ可能性もある。
「奏人さん!?」
「くっそ……だから嫌だってんだよこんな仕事……」
呟いて、空を見つめる。あの龍は自分を軽蔑しているんだろう……龍にとって大事な家系のお嬢様を突き放すような真似をするから……そう思った。
なんとか助けを呼びにいけないかと考えていると、不意に右手に温もりを感じる。
見れば、小さな両手が奏人の手をぎゅっと強く包み込んでいた。優里の水色の視線はやけに真剣で、まるで全身の力を自分の両手にこめているようにも見える。
「何をして……?」
最初、全身の傷が痛みと熱を持っていた。その感覚が次第に薄れてゆき、斬られていた自分の左腕をみれば、その無数の傷は綺麗に塞がれていた。
かさぶたや皮膚の隆起もない。まるで最初から怪我などしていなかったような状態で、痛みがなくなるどころか身体が少し軽くなったような感覚がする。
「……これが」
奏人も聞いたことがある。これは、ウェストプレイン家に伝わる治癒の能力だ。
ただ、能力を使いすぎると自分の体力を消耗するというが……と優里を見れば、ふらりとこちらに倒れてきた。
まだ五歳だ。そんな幼い身体で切り裂かれた無数の怪我を治そうだなんて無茶にも程がある。
「おい、大丈夫か?」
思わず肩を揺らすと、彼女は目を開けて、それから嬉しそうに笑った。
「よかった。怪我、治って」
「いや、なんでだよ……だって俺はついさっき突きはねるようなことを」
そう言いながら優里の頭に触れる。何故彼女はこんなに嬉しそうなのか理解ができなかった。5歳児の考えることだから……と思っても納得できない。
5歳の頃の自分はもっと自分本位だったのに。いや、今の自分だって十分自分本位だった。
「今は仲良くなれなくても、これから仲良くなれるもん。それに、私、奏人さんにお話教えてもらうの好きなんだよ。だからね、奏人さんが困ったときは私が奏人さんのこと守りたいの」
「いや……逆、だろ」
普通は従者が主人を守るものだ。しかし優里は無邪気なまま、平然とそんなことを言う。
それならこの子は誰がどのように守ってやればいいというのか。
「龍さん、私の大切な人のこともう傷つけないでね」
優里が声を上げると、龍はまた大きく鳴き声を上げて、そのまま雲の間へと消えていった。
「大切な人?」
「うん。お父様もお母様もメイド長さんも詩織さんも奏人さんもみんな私の大切な人。だから、奏人さんの大切な人にもいつか私のことが入るといいな」
ふにゃりと笑った幼い笑顔。屋敷の誰もがこの笑顔に癒されると言っていたが……奏人もまた見入ってしまった。
一切汚れのない、相手を思いやるだけの純粋な笑顔には温もりさえ感じる。
誰かに仕えるなんてそんな仕事したくないと……人の言いなりにはなりたくないと、そう思っていた。が、彼女であれば例外だ。
この優里・イーストプレインは誰かが守らなければ……いずれ大きな無茶をしでかす気がする。
それに、彼女の大切な人として、真っ当な人間になりたいとも思った。
守りたい……誰かに強いられるのではなく自分の意思で、彼女を。
そんな気持ちが芽生えていく。
たとえ優里が幼い日の僅かな時間の出来事を忘れてしまったとしても……奏人にとって、一生忘れることのできない出来事だった。
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